「おはよう。大丈夫か?」
「あ……」
声に反応して、少女が視線を向けてくる。その瞳は虚ろで、いまいち焦点が定まっていない。まあ、長期の冷凍睡眠から復帰したばかりだ、多少目が見えなくてもおかしくはない。
少しためらってから、アーネストはグローブを外すと、素手でタオルの上から少女の指を探り、軽く握りしめた。タオル越しの少女の手はもう氷のようではなかったが、温かくもなかった。
「大丈夫かい? 気分の悪い所はないかい?」
「あ……はい……。ありがとうございます……」
力なくうなずく少女。彼女は周囲を確認するように少しだけ半身を起こして首を巡らせていたが、やがて諦めたようにベッドに身を預けた。
「無理をしない。長期の冷凍睡眠で肉体は衰弱しているはずだ」
「はい……。あの、私は……?」
「冷凍睡眠装置に不具合が生じたようで、緊急覚醒処置を行った。意識や視界がはっきりしていないのはそのせいかな。もし、他に違和感や痛い所があったらすぐに言うんだよ?」
状況が状況だ、凍傷や細胞の壊死といった可能性がある。何度も噛んで含めるように言い聞かせると、少女はこくん、と先ほどよりも意識のはっきりしてきた様子で頷いた。
「大丈夫、です……。今の所、痛い所とかは……」
言って、自分の体をぺたぺたと触診を始める少女。
どうやら、感覚は戻ってきたが意識はまだ曖昧らしい。異性の前で無造作にタオルから素肌をさらす彼女に、アーネストは慌てて顔を逸らした。
「こ、これ。あっちに行ってるから、どうぞ……」
「あ……すいません」
貫頭衣を手渡し、アーネストは壁際に退避した。少女の姿を視界に入れないようにヘルメットを被り、遮蔽をオンにして壁を向く。
しかしそれでは足りなくて、背後から衣擦れの音が聞こえてきた彼は慌ててヘルメット内部にお気に入りの楽曲を爆音で流した。
AIが、問われてもいないのに言葉を発した。
『過剰反応では? 現在の状況は不可抗力、という奴だと思いますが』
「うるさいよ、さっきまで猥褻だとかいってたくせに!」
自分でもちょっと自覚があった事を指摘されてキレるアーネスト。一応、軍属時代に商売女相手に経験があるが、そういう仕事ではない相手との触れ合いは殆ど経験がない。ましてや相手は明らかに自分より年下のまだ若い、瑞々しい少女だ。勝手が違う。
『さようですか。でも先ほどの対応は10点満点でした。手を握ってあげたのはポイントが高いですね』
「お前の評価基準が俺にはわからないよ……」
長年の付き合いになるが、相棒の知らない側面を新たに目にしたアーネストはゲンナリと肩を落とした。
と、そこに少女からの声がかかった。
「す、すいません、お待たせしました……」
「お、おぅ」
呼ばれて振り返ると、カプセルベッドの横で床に足を付けるか付けないか、といった体で浮いている少女の姿があった。彼女は薄い貫頭衣の裾を右腕で抑え、ほんのり顔を赤くして顔を逸らしている。どうやら意識がはっきりすると同時に、現状把握や羞恥心が戻ってきたらしい。
意識がはっきりしたなら、多少確認したい事がある。ヘルメットを被ったまま、少女の元に戻るアーネスト。
「そ、その、なんだ。大丈夫そうならよかった」
「は、はい……。その、ありがとう、ございました……」
恥じらい全開で顔を逸らして答える少女。間近で見ると衣服の隙間から白い肌が垣間見えて、アーネストはそっと視線を逸らす。
なんだか妙な空気になっている、と彼は危惧した。これではまるで十代、思春期の男女のやりとりである。
いかんいかん、と気合を入れなおす。こちとら20過ぎの大人である、ここは毅然とした態度で事務的に対応すべきだ。
「意識がはっきりしたなら、あとは自分で対応できるな?」
「あ、はい。その……えと。そうなんですが……」
「……何か問題が?」
はっきりしない少女の返答に、嫌な予感がしてきたアーネスト。この船の設備がぼろぼろなのは見てきたが、まさか環境や管理システムへのアクセスまで途絶えてるという事はあるまい。
少女は黙って、カプセルベッドの横の端末を指さした。
きょとんと見つめるアーネストの前で、細い指が端末画面を操作する。多少液晶が乱れている画面には、次のように表示されていた。
『アクセス エラー』
「その。この冬眠室、船の管理システムから分離してるみたいで……それが断線なのか、そもそも管理システムがダウンしてるのかは、わからないんですけど……」
『冗談でしょ』
流石に耐えきれなくなったのか、レヴィがツッコミを入れる。合成音声がヘルメットの内部に響き、それが聞こえたのかびくりと少女が身を震わせた。
「レヴィ、黙ってろ。……驚かせて済まない」
「あ、いえ……」
「通信が繋がらないなら仕方ない。こちらの方でなんとかしよう」
どんどん面倒が増えていく。どうしてこうなった、と頭を抱えつつその場を離れようとしたアーネストだが、床を蹴る直前にぎゅ、と手を引っ張られて動きを止めた。
振り返ると、小さな指が彼のスペースジャケットの裾を掴んでいる。
少女は自分の行動に驚いたような表情で、アーネストを押しとどめた自分の腕を見つめていた。
「あ……」
「……失敬。少し無神経だった。そうだな、こちらの相棒から、なんとかアクセス経路を探してみよう。君のコードを教えてくれるか?」
「あ、は、はい」
少女はコクコクと頷くと、右手の手首をひるがえして見せてきた。そこには、黒いバーコードが刻まれている。冷凍睡眠を用いる場合は身分証明の類を持ち込む事ができないため、肌に識別用のバーコードを刻む……何かの歴史書で見た知識を覚えていて助かった。
指示をするまでもなく、相棒がバーコードを読み込んで表示する。
『船員ナンバー15376、式部神奈。日系人ですね。彼女のコードで船のシステムにアクセスできる場所を探します』
「大丈夫なのか?」
『別に、個人情報とかを確認するんじゃなくて船の公共サービスへのアクセスって程度です、パスワードも要りませんよ。ちょっとドローンも使いますが、よろしいですよね。少々お待ちください』
それきり、AIは沈黙する。
おそらく船外活動用ドローンで、生きている無線端末を探しているのだろう。管理システムに繋がりさえできれば、救援を求める事ができるはず。
お喋りが黙った事で、その場に再び気まずい空気が戻ってくる。アーネストは少女……神奈を安心させようと、その場で胡坐をかいて座り込んだ。どこにもいかないよ、という意思表示を見て取った少女もまた、その場に座り込むようにする。が、右手は変わらずアーネストのジャケットを握ったままだ。
まあここは、不安な彼女の気持ちを汲み取れなかった自分が悪い、と彼は好きなようにさせておくことにする。
ヘルメットを再び外し、灰と黒混じりの髪をわしゃわしゃ、とかき乱して、にかっと彼は自分なりに人懐っこい笑顔を神奈に向けた。
「そうそう。自己紹介がまだだったな、俺はアーネスト・チャーチル。気軽にアー君とでも呼んでくれ」
「え、あ……ぶふっ。アー君だなんて、そんな」
「ネス夫でもいいぞ」
くすくすくす、と小さく上品に笑う少女。渾身のジョークがなんとか通じたようで、アーネストはほっと胸を撫でおろした。この年頃の子の好みとかはよく分からない。
「じゃ、じゃあ、ネストさん、でもいいですか?」
「いいぞ。実家の爺ちゃんを思い出すなあ、その呼び方」
「ふふ。じゃあ、ネストさん。貴方は、この船の方ではありませんね?」
びしり、とのその場の空気が凍り付いた。
笑顔のまま固まって、ダラダラ冷や汗を流すアーネスト。そんな彼に、神奈は優しく微笑みながら淡々と発言の根拠を羅列する。
「この移民船、ヤマトタケルは日米共同で出資して建造された船です。なので乗員はそのどちらかの人種ですが、見た所ネストさんは東欧の血が濃いようですね。それに、冷凍睡眠の覚醒手順についてもお詳しくない様子。そういった諸々の違和感を繋ぎ合わせれば、ネストさんがこの船の人員でない事はおのずと判明します。それとも、手首にあるコードを見せてくださるのですか?」
「むぐぐ……」
理路整然と考えを説明されて、アーネストは押し黙った。考えてみれば、移民船の乗員は別に棄民でもなんでもない、むしろ過酷な宇宙の旅に耐え、新天地で新たな社会を構築する事を期待されたエリートたちなのだ。それを忘れて迂闊に情報を漏らしたアーネストが悪いともいえる。
犯労使ようにも、当然、彼にこの船での管理コードなど刻まれていない。そういった文化はとっくの昔に途絶えた、今は一部の物好きがファッションとして入れ墨のように刻んでいるだけだ。当然、アーネストはその物好きではない。
ならば逃げ出そうにも、神奈に強くジャケットを握られているのではそれも敵わない。いや、力に訴えれば容易い事だが、流石に人としてそれは出来ない。アーネストにも最後の一線というものはある。
進退窮まったという奴である。
が、神奈はそんな彼の渋面を見ると、「あ! す、すいません!」と頭を提げた。
「ごめんなさい、詰問するつもりはなかったんです! ネストさんは私の命の恩人、決して悪いようにはしません。ただ、どうしてこの船に、数万光年は離れた別の移民先の住人が居るのか気になっただけなんです。もしかして、ヤマトタケルは進路を間違えてしまったのですか? それで貴方たちの移民先に侵入を?」
「あー、そのあたりを話すと長くなるんだが……」
先ほどから一転、今度は自分達が犯罪者にでもなったかのように、ぱっつんに切りそろえられた前髪の下で神奈の黒い瞳が慄く。本当に糾弾するつもりがないらしい、という事がわかって一安心すると同時に、どう説明したもんかなあ、とアーネストはくしゃくしゃと髪をかき乱した。
いきなり次元跳躍航行の話などしても信じられないだろうし、さらにそこから色々と話が長くなる。そもそも知らなかったとはいえ、他の移民船の移民先に勝手に入植しているのは大分不味いのではないだろうか。しかし、恒星間移民法は一度移民先に到着したら効力を失うという話もある。
この場合、悪いのはどっちだ?
そしてどちらの場合でも、船への不法侵入でアーネストは捕まるのではないか?
言葉に迷うアーネスト。
しかしながら、結論を出す時間は彼には残されていなかった。
突然、警告が室内に鳴り響く。二人はビクッ、と肩を震わせて、周囲を見渡した。
『冷凍睡眠装置に異常が発生しました。乗員の生命維持機能に異常を確認。該当ブロックを緊急解放します。医療スタッフは直ちに該当ブロック乗員の緊急覚醒処置を行ってください。繰り返します……』
鳴り響く、先ほどのそれと同じ警報。
それに合わせて、ガシュゥンと迫り出してくる睡眠カプセル。ただ先と違うのは、一人分だけではなく次々と、このエリアに眠っていたカプセルが排出され始めた事だ。
「な、なにが……」
『マスター! 緊急事態です!』
「おいレヴィ! これ、何が起きてる!」
そこにちょうど、相棒の通信が戻ってくる。アクセス端末を探していたはずのAIがこちらに戻ってきた事に嫌な予感しかしない。
『大変です、このエリアへの主動力炉からの伝達が途絶えています。どこか別の場所に吸われています! 本来、こういう場合に電力供給を行う補助動力炉は完全に停止しているようです。このままでは、彼ら彼女らは全滅です!』
「なんだとぉ!?」
『幸い、管理システムへのアクセスは出来ました。すぐに救援が来るはずですが、まだ少しかかるはずです! 申し訳ありませんが、一人でも多く覚醒処理をお願いします! 人命第一です!!』
ああくそ、とアーネストはヘルメットを投げ捨てて立ち上がった。傍らでは、神奈が真っ青な顔をして身を起こそうとする。そんな彼女を手振りでとどめて、アーネストは矢継ぎ早に指示を出した。
「彼らは俺が運ぶ、式部さんは機材の用意をしててくれ!」
「わ、わかりました!」
ぐ、とカプセルベッドを踏み台にして跳躍し、覚醒室を飛び出すアーネスト。次々と迫り出してくる睡眠カプセルにしがみつくとまず一人目の救助に取り掛かった。
「ああくそ、今日は厄日だ!」