ゴールデンウィークが終わると、中間テストが迫ってきた。俺とバカは連休が明けると留年を回避するために必死になる。手を付けるのが、必死になるのがましかしたら他人より遅いのかもしれないが、しかし何事も始めるのに遅いことはないと良くいうではないか。人生勉強、生涯勉強。大人も金払って自習室に通うと聞く。大人の自習室か。もちろん大人の勉強など気にする必要はこの際なく、年齢が幾つになっても何かを始めるのに遅いということはないと誰かが言った言葉を言い訳にしたかったわけだが、しかし言い訳などせずに勉強しろ。テスト後の生き残りをかけて、勉強しろ。バカはともかく、俺の場合自頭はいいのだ。テストに対する気力と、集中力さえあれば赤点を回避するだけの実力はある。これは虚言ではなく、客観的事実である。つまりやる気になるかどうかというわけだ。それが一番の問題だなんだよなぁ、と思いつつ俺は教科書を読んでいた。まずは教科書。基本だよな。
コンコン、コン。
ドアがノックされた。またなんでこの時期に。一応部活はやっているけどさ。友達の集まりみたいなものなのに。友達ではないけど。
「どうぞー、お入りくださーい」
知花さんが招き入れた。やれやれ仕方ないか。まあ、勉強しながらでもできないことはないだろう。俺は教科書から視線を外すことなく、そのめくる手をやめることなく、どちらかと言えば我関せずスタイルでやり過ごそうと考えた。
「こんにちは。すいません、良いでしょうか」
「あっ、山田さん。どうしたんですか、今日は」
それはゴールデンウィークの前に相談に来ていたBクラスの山田さんだった。たしか、友達に相談事を頻繁にされるせいで気疲れしてしまったとか、なんとか。そんな相談だったような……あれ?
後ろにもう一人いた。
「はじめまして、山田と同じクラスの山ノ内と言います」
そうなると、問題の友人というのが彼女、なのか。どうやら本当に相談相手の友達をこの生徒お悩み相談同好会に連れてきたらしい。いやたしかに、そうすれば問題は解決するとは言ったけど。
「千木野くん、椅子をご用意して」
「あ、ああ。すみません」
後ろに積み上がっている椅子から一つを取り、用意して並べた。二人は座った。
「こんにちは、今日はどのようなお話でしょうか」
山田さんから先に話を始めた。
「実は、先日のお話の友達というのが、この山ノ内なのですが、彼女の話を改めてきちんと聞くことにしたんです。そうしましたら、真剣に聞くとこれは私には手に負えないと言いますか、難しい話だったのです」
「難しい話?」
山ノ内さんが促されるようにして、話を始める。
「私の母親が宗教に夢中になってしまっている。家庭がめちゃくちゃだ。どうしたらいいか」
端的で、わかりやすくて、どこか探り探り話をする田中さんとは変わって、はっきりと話す人だと思った。しかし、それが故に問題がはっきりとわかってしまった。これは難しい。家庭の事情というやつだ。
俺と風川、知花さん、化神、バカは全員腕を組んで唸ってしまった。どうしたらいいか、いったいどうしたらいいんだ。誰も話さないので、しかたなく教科書を一度閉じ、俺が思いついたことを話すことにする。
「まず、宗教信仰の自由が日本国憲法第二十条で保障されている。強制と、宗教信仰したことによる差別を禁じている。だから、俺たちが無理やり辞めさせることも、何か批判したりすることもできない。たとえ家庭を顧みないでのめり込んでいたとしてもだ。その人の自由だからな。まあ、その宗教団体そのものがなくなれば、例えば俺が詐欺とかを働いてその宗教団体を騙して潰し、無くすことができれば、現状を変えて打破することはできるかもしれないが、俺は詐欺師ではないし、金を積まれてもたぶんやらない。凡庸で平凡な一高校生では、そんな大人の集団相手に相対することは難しい。だから、この問題の解決はとても難しい。田中さんの聞き疲れた問題よりも格段に。レベルが、社会レベルが違う。たぶん子どもの俺たちではどうにもできないことかもしれない」
「そ、そうか……」
「でも、大人ならなんとかなるかもしれない。例えば担任の先生に相談、協力を仰ぎ、そこからいろんなたくさんの大人を巻き込んでいけば、事態は変わるかもしれない。もちろんこれもあくまで可能性。希望的観測に違いはない。きっと今ここで言葉と考えだけ並べても意味ないだろうよ。……なあ、差し支えなければその宗教の名前とか、何系とか分からないのか?」
「キリストとかヒンドゥーとか、そういう有名なところではなかった。知らない。聞いたことない。前に聞いたのは施設というか団体というか、知っているのは『たんぽぽ』という言葉だけ」
「そうか……なるほどな」
話を聞く限りじゃ、問題はたぶん最高に難易度を増していると思う。彼女が嘘を話していなければだけど。酔狂で、笑いものにするために質の悪い冗談を言っていなければだけど。しかしこれが事実だとするなら、たぶん、本当に俺たちには手に負えない。生徒お悩み相談室ってレベルじゃねぇぞ。
知花さんも困ってしまい、とりあえず言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい、話を聞いた限りだと私もどうしたらいいか分からないです。専門知識とか、千木野くんみたいにしっかりした考えとか無いので。お悩み相談なのにごめんなさい。お話だけならいくらでも聞くので、聞かせてもらって構わないんですけど」
風川も同調。
「私も今回はアドバイスできない。知花さんと同じ。匙を投げたわけじゃないけど、でもチカラになれるだけの知識を持ち合わせていない。安易に請け負うことは失礼になると思います。ごめんなさい」
風川にもできないことってあるんだな。お悩み相談同好会の部長で、成績トップで学校一の美人なのに。美人は関係ないか。
化神とバカもお手上げ。
「どうもありがとうございました。私は田中以外の他の人に話したことなかったから、ちょっとでも一緒に考えてもらえで嬉しかった。自分ではどうにもできないから先生とかにも話してみる」
山田さんと山ノ内さんは帰っていった。俺はまた教科書を開いた。圧倒的に無力だった。誰かのために何かをできる、人の役に立つ、そのために何かしらできるのではないかと思って参加している部活ではないが、しかし同時に自分なら何かできるかもしれないと思ってしまっていた自分が酷く情けない。思い上がりも甚だしい。まだ悩み相談を受けたのは僅かで、実績はゼロに等しい。しかしどうしてか、俺はそういう部活に配属された事実が感覚として己を勘違いさせたのだ。謙虚さが足りない。でも、本当にそれで他人の悩みに向き合えるのかともう一人別の自分を目の前に立たせて質問させれば、きっと俺はその質問に可も否も答えを出せない。元より部活をやる気は無かったのだ。まじめにやらず、聞き流したところできっと誰も俺のことを咎めること人はいないだろう。そのまま誰に許されたわけでもないこの部活動の自由を不真面目に使っても、それこそ許されるのだ。許さない人間はこの世に誰もいないから許される。息を吹きかければ吹き飛ぶような集まりの部活。見向きもされなくて当然。だからわざわざ相談を持ってくる生徒がいたらば、それはなぜなのかということを聞けるように相談を聴くのだ。聞くではなく聴く。
仮に俺がそのやる気のなさを貫き通し、不真面目な活動をすればこの部活はやる気のない人間の集まりという烙印を手にするのは間違いない。俺が心のなかではやる気ゼロであるにも関わらず、何かしらの発言はしようとするのは、きっと俺はそれを恐れているからなのだ。分かりきった不真面目の結果を実際に手にしたことによって己と二人の女の子が悔しくなるのを避けるため、それだけのために俺は持ち込まれた相談に対してはせめて真摯に向き合おうと、少なくともその心構えだけは作っておこうと思うのだった。
「何もできなかったな」
「ええ、そうね」
「難しかったですよね。どうしたらよかったのか」
「そうだね。千木野くんはよかったと思うよ」
「詭弁だよ。あんなの。その場しのぎ」
俺達ガキに相談するよりも大人に相談したほうが良い、なんて誰でも言える誰もが言うような言葉はその場しのぎ以外の何物でもない。のらりくらり、まるでアンダースローの投手が変化球や緩いストレートで躱すようなピッチングをするかのよう。基本的にはそれで構わないと思っているし、俺にそれ以上を求めるなとも言いたいが、しかし、今回ほど上澄みを滑るだけの浅い会話はなかったと思う。自分でも気持ちが悪かった。何もできなかったのだ。今後も悩み相談を受けることを続けるのだと仮定すれば、きっと上手く答えを出せないことのほうが多いことだろう。俺はここまで考えて、これからもこんな思いを度々しなければいけないのかと思い至ると、もう部活なんてやめてしまいたかった。
「なあ、バカの羽場。関節技を決めてもいいか?」
「なんでだよ!いきなり唐突すぎるだろ!予告してくれるだけ、いつもよりマシだけど、って言ってる側から!いつもどおりのこれはサブミッションホールド! あぁ!極ま、極まるから!やめてぇ」
いつも通りバカやっていると、少しその場の雰囲気が良くなった。もちろん本気でやってなどいない。男子のじゃれ合いというか、触れ合いみたいなものだ。小学生の男の子同士ならふざけてやることがあるだろう。いつまでたっても精神年齢が幼いままなのだよ、男というものは。仕方ない。そういう仕様の生き物だ。
「これも勉強だって大人は言うんだろうな!勉強ばかり!ちきしょうめ!」
やるせない気持ちをぶつけながら、今は抗う姿勢を見せることが精一杯なのだった。