石畳から少々外れた場所に立ち春蘭を呼んだのは、今日は会うことはないだろうと思っていた惺陽だった。
彼がなぜこんな夜更けに後宮へ入り込んでいるのかという疑問もあるが、一番の疑問は認識阻害の術式を施してある羽織を着ている春蘭を、なぜ彼が認識できているのかということだ。
確かに、この羽織は身につけている者の姿を見えないようにするものではない。だが、見えてもそれが誰なのか分からないようになるはずなのだ。
それなのに、惺陽は春蘭を見てはっきりと名を呼んだ。
考えられる理由としては、惺陽に術を見破る力が備わっていたか、もしくはここにいるのが春蘭だと初めから確信していたのか。
どちらなのかは分からないが、この状況が春蘭にとって悪いものであることは確かだ。
明らかに怪異と見られるもの。大きな獣。そして花綵を先程まで身につけていた自分。【花綵の鬼】が春蘭だと言える条件が揃っている状況だった。
(知られてしまった)
特殊な力などない、普通の女官として過ごすはずだった。
だが、ついに知られてしまった。
怪異退治をしているのだから、いつかは誰かに知られてしまう可能性はもちろんあったし、その危険性は自覚していた。
いつか来るかもしれないときが、今来てしまったのだ。
軽い絶望感に春蘭は思考が止まる。
だが、今はそのような余裕などない状況だった。
「春蘭!」
リュウの高い声が聞こえはっとする。オウの近くにいるため春蘭から離れた位置にいるリュウは、悲鳴に近い声で春蘭の名を呼んだ。
気付いたときには、最後の悪あがきとばかりに怪異の歪な腕が春蘭の目の前にまで迫っていた。
黒く染まった指の爪がまさに悪意を持って自分を害そうとしている。
理解した瞬間避けようとはしたが、避けきることが難しいだろうことも分かっていた。
(せめて、急所は外さなければ)
そう思った瞬間突然何かに肩を掴まれ、引き寄せられる。
なにか温かいものに包まれたかと思うと、目の前で怪異の爪が漢剣に弾かれていた。
漢剣を持つ手を辿ると、見たこともないような雄々しさのある顔をした惺陽が見える。
助けてくれたのだと理解したが、この後彼が自分をどうするのかまでは分からず対応に困る。
だが、怪異の爪を退けた惺陽は心配の色を込めた眼差しを春蘭へと向けた。
「無事か!?」
僅かに焦りも含んだ声に、少なくとも彼に自分を害するつもりはないのだと感じ安堵する。
「ああ、大丈夫だ。あり――」
「助かった……が、小僧、お前は邪魔だ」
無事を知らせると共に助けられた礼を口にしようとしたが、どこか冷たくすら思えるオウの声がその場に響いた。
(小僧……? 惺陽のことか?)
オウは長い時を生きている四霊なのだから、惺陽を小僧と呼ぶのは分からなくはない。だが、それでも成人した男性にその呼び方は適切ではないのではないだろうか。
惺陽もまさか自分が小僧呼ばわりされるとは思っていなかったのか、驚き顔を上げる。
「小僧!? 俺は今年で成人したんだぞ!? って、今の誰が言ったんだ?」
「私だ。いいから春蘭から離れろ、小僧」
困惑する惺陽に、オウはもう一度冷たく告げる。
自分を小僧呼ばわりしたのが明らかに通常の獣ではない赤く大きな鳥だと気付いた惺陽は、間抜けとも取れるような顔で驚き固まってしまった。
仕方ないので、春蘭は自力で惺陽の腕から抜け出し先程言えなかった礼を口にする。
「とりあえずは助かった。ありがとう」
「あ、ああ……」
状況が整理できていないのか、惺陽の反応は鈍い。
春蘭は一先ず惺陽のことは置いておき、今優先すべきものに集中する。
今度こそ油断せぬよう、弱っていく怪異を見つめながら近付いていった。
「大丈夫か、春蘭。すまない、押さえつけるのが甘かったようだ」
オウは惺陽には厳しめな言葉を投げかけていたが、春蘭には申し訳なさそうに頭を下げる。
「いや、私が油断していたのが悪いんだ。……それより、そろそろよさそうだな」
下げた頭を軽く頬にこすりつけられ、柔らかな羽毛と爽やかな甘い香りに癒やされた春蘭は、もうほとんど動けない怪異を見下ろす。
どうやら龍脈の力と悪意の結びつきは解けたようだ。花綵に込めた術式が光るのを止め、今度は怪異から悪意を吸い取るように根元から黒く染まっていく。それに比例するように、怪異の身体が薄れていき消えた。
「龍脈の方は頼んだ」
「ああ、任せておけ」
オウに一言告げ、春蘭は自分のやるべきことをする。
人の姿のままのリュウに見守られながら、春蘭は地面に落ちている真っ黒に染まった花綵の簪を取り上げた。
軽く引き、花綵を簪の金具から取り外す。
漆黒の花綵だけを両手に乗せた春蘭は、悪意が消え去るよう念じ息を吸う。
大気から得られる力と自身の霊力を練り合わせ、浄化の力に変え呼気として吐き出す。
悪意を封じた花綵に、ふぅーっと浄化の息吹をかけると、黒の花綵はまるで枯れ葉が崩れるように散り消えた。
全て消え去ったのを見届け、オウを見上げるとそちらも丁度終わったのだろう。天を仰ぐように瞼を閉じていた彼が、目を開け頭を戻した。
どうやって龍脈を元の場所へ戻しているのか以前聞いたことはあるが、『願う』のだという答えしか返ってこず意味がわからなかった。
四霊としても説明し辛いようで、その辺りの詳しい方法は聞いても分からないと判断していた。
とにかく、少々予定と変わってしまったが怪異退治はこれで終わった。
問題は……。
「二人ともお疲れ様。それで……彼、どうするの?」
仕事を終えたことを見届けてくれたリュウが、惺陽へと視線を流す。
つられるように春蘭も惺陽を見ると、真剣な眼差しがこちらを見つめていた。
一歩進み出た惺陽は、いつもの軽さをなくし一つ願いを口にする。
「春蘭、話を聞かせて欲しい。そして、俺の願いを聞いてくれ」
春蘭の藍色の目を見つめる黒耀の瞳には、