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第2話:はじまり

 朝、7時30分。

 西船橋の喧騒を通過して降り立った新木場駅では、モダンなアートと上品な静けさの横で、蕎麦屋がのれんを掲げている。京葉線からまだ寝起きのカフェを通って階段を降りると、進行方向から柔らかく差し込む太陽の光と車庫へと続くトンネルが出迎えてくれた。

 ホーム中程まで移動すると、電車を待った。

 始発の新木場駅で、座っている時間はたったの10分。階段の前から2つ隣の車両の角の席に座ることにしている。さほど混み合う駅でもないが、この時間の顔ぶれはほとんど一緒で、なんとなく定位置となっている座席をわざわざ移動することもない。

 たったの10分だけれど、この10分が絢音の気持ちを仕事へ切り替える調整時間となっていた。

 さほど混み合っていないからか、幻想的なホームがそう思わせるのか、さながら戦場に赴く戦士の束の間の休息のように、この10分間はゆったりとしている。

「まもなく、電車が参ります」

 いつもの音声アナウンスが響き渡る。いつもの定位置にいつもの顔ぶれが収まっていく。

 言葉も交わしたことのない人たちと何気なく視線を交わし合う。いつもいるのに今日はあの人がいないな、と気づくほどにはもう馴染みの顔たちだ。電車が来ると自分の席に向かい、いつもと同じようにピタリとはまるように座席に収まると、まるで皆と一緒に戦いに行く気がして、少しだけ心が踊る。

 戦友とも勝手に呼んでしまいそうなほどのメンバーに、その男の人が加わったのはいつからだったろうか。混み合うほどではない席も、いくつかは隣り合わないと座りきれない。去年の冬は、私の隣は女の人だったような気がする。長い髪の毛が視界にも入っていたから、恐らく確かだ。それが、桜が散り始め、春の浮足だった空気が落ち着いて初夏の気配を感じる頃にはもう、隣には、男の人が座るようになっていた。

「次は新富町駅に止まります──」

 機械音声のアナウンスが流れる。

 僅かな揺れとともに、瞳を閉じて、音楽を聴くのがいつもの通勤スタイルだった。

 最初は、髪が触れるなというのを感じていた。肩に何度となく重さがかかる。

 触れては離れ、離れては触れて。

 薄眼を開けて確認すると、隣の男性が左右に揺れている。乗ったばかりなのに、深い眠りについているその人を邪険に扱うこともできず、スマホの音量を上げる。

 どうせ10分程度のことだ。やり過ごすに限る。

 つかず離れずの重さは次第に長い時間、肩にとどまるようになった。

(なんか、いい匂い)

 シャンプーなのか香水なのか。目をつぶっているから、嗅覚が鋭くなっているのか。鼻をくすぐる匂いが胸を満たしていく。なんというか、脳に直接語りかけられるような香りだ。思わず、深く息を吸う。

そろそろ降りようかと身動ぐと、肩の重さが軽くなった。

 立ち上がると同時に、ちらりと隣の人を見たが、俯いていて顔はよくわからなかった。青みがかったスーツからは彼が何歳なのかもわからない。

 電車から一歩外に出ると、名残惜しい気持ちは一瞬で、現実へと引き戻される。階段へと向かう人たちに紛れて歩いていると、その香りは人の波に泡と消えてしまった。


「それって匂いフェチっていうんじゃないですか?」

 お昼ご飯は、いつもチームの女の子たちと食べる。自分の年齢の女性たちは、皆異動したり、結婚したり、休職中だったりで、チームの最年長をはっているのは、絢音だ。

 それを悲しく思ったり煩わしく思っていた時期は、遠に通り越した。

「いやいやいや、そんなわけないよ」

 会社の子たちとお昼を食べるとき、はじめに話題をふるのは絢音の役目だった。やはり、年長者をさしおいて自分から話し始めるのは気がひけるのだろう。女の子たちの好きそうな話題を出して、あとはみんなが広げた話に相槌を打っていればいい。今日の話題として軽い気持ちで話したつもりだったが、思っていたより予想外のところにヒットしてしまったようだ。

「絢音さんが匂いフェチなんて意外すぎ!」

「だからー、いい匂いだなあって思っただけなんだって」

 苦笑しながら答える絢音のことはそっちのけで、運命の出会い! 電車から始まる恋! と盛り上がっている。

「いいなあ。素敵ー」

「私もステキな出会いしたーい!」

 まだ何も始まってもいないのに、そんなことを言われると、自分もドキドキしてくる。

 何とはなしに出した話題だったが、お昼の時間はひとしきりこの話で持ちきりとなった。

ようやくお昼の席から解放され、自席のパソコンを起動させる。メールを確認すると、新しい通知が1通あった。

「業務外のメールで失礼します。今日もいつものところで!7時半集合!」

 差出人は天宮だ。絢音と同じ30を間近にして恋人なしの独身仲間。とはいえ、天宮は1人を謳歌するのが好きだと豪語する独身で、社内では、ゆくゆくは初の女性本部長に抜擢されるだろうと噂されるような人物だ。ついこの前、昇進も果たして、また一歩管理職への道が進み、ノリにのっている。

「了解」

 早く仕事を終わらせなければ。短い文に決意を込めて送信する。お昼明けまで、あと15分。大震災の頃から行っている節電対策で、お昼は居室全体の電気が落とされる。煌々と光るモニタを見ながら、あの香りを思い出す。

 直接、脳に柔らかく染み込むようなあの匂い。温かい湯船につかったときのように、休みの日にゆっくりと昼寝をしたときのように、心が満たされ癒される。

 何か、香水を使っているのだろうか。早めに仕事を終わらせてデパートに行って探してみよう。

 今すぐにでも探しに行きたいほどだ。あの匂いには、絢音を駆り立てる何かがある。

 絢音は暗がりの中、焦燥を胸にキーボードを叩き出した。


 キンキンに冷えたビールを天宮が一気に煽る。程よい騒々しさの、半個室のある居酒屋。ご飯も豊富で手頃なお値段なところが、二人のお気に入りだ。

「おっいしー!」

 天宮のジョッキの中身は半分ほどなくなっている。お酒が強くて羨ましい。絢音も飲めないほどではないが、ほどほどにしておかないと、すぐに眠くなってしまう。

「それで、今日はどうしたの?」

 天宮が急に飲み会に誘うときは、たいてい盛大な愚痴があるときだ。

「きいてよ! あの客先のメガネ、めっちゃ腹立つの!」

「ああ、なんだっけ、話は面白いけれど現実味がない、とか言われたんだっけ」

 梅酒のソーダ割をちびちびと飲みながら、天宮が言われたという言葉を繰り返す。

「ムーカーツークー!」

 記憶を刺激してしまったらしい。

「だから! 現実的にしてやったのよ! な、の、ニー!」

 ドン! と天宮が机を叩く。その思い出した言葉を流し込むように、ビールを大きく煽る。

「今度は、現実的だけれど将来性が見えない、とか言われたのよー! だから! ロードマップ持ってったんだろうが! お前たちの仕事をこれでもかってほどこっちは考えとんじゃあ!」

 お客様の要件に合わせて、システムを構築する。絢音たちの仕事は一言でいうと、そこに集約する。けれど、実はシステムを使ってお客様の仕事をどのように大きくしていくか、どのようにビジネスモデルに仕立て上げていくかも一緒に考えていくコンサル的な面も大いにある仕事だ。

 天宮は特にその部分、将来性を見据えてシステム要件をまとめるのがうまいのだが、今回は少し難しい客にあたったらしい。

 ビジネスのロードマップ、つまり将来的なステップアップについて説明したら現実味がないと言われ、現実的な運用フローを提示したら、今度は未来のビジョンが見えないと言われたらしい。

「はいはい。ちょっと声落としてね。でもそれってあたりまえだよね」

 目的と時間軸が異なるものなのだから、それはギャップも出るだろう。

 天宮の愚痴を聞きながら、お通しのオクラと山芋の甘酢和えを口にする。

 ヤバイ、美味しい。今度、家でもやってみよう。

「最初のロードマップと運用フローにギャップがあるのはわかってたんだけど。それを、あいつはその場でギャップがわかるように足りない機能やら俯瞰図やらを白板に書きやがったのよ。うちの、会議室の、ホワイトボードに!」

 自分のテリトリーでそれをされたことがかなりの屈辱だったのだろう。だが、埋められる情報なら、天宮なら埋めた資料を持っていく。

「時間なかったの?」

「別の遅延した案件に突っ込まれた」

 天宮が机に突っ伏す。

「手を抜いたわけじゃないじゃない」

「でも、もっとやれたわけ。それが、あいつはわかってて、それを目の前で見せつけられたの」

 それは悔しいだろう。相手というよりも自分に対して。

 ポンポンと天宮の頭を優しく叩く。

「できる女にはなんでも降ってくるのよ。そんなにできる子には、はい、これをプレゼント!」

 机の上にロゴの入った小さな紙袋を置く。

「え? 何なに?」

「昇進祝い。してなかったなと思って」

 天宮が尻尾を振る犬のように、目に見えてウキウキしだす。

 こういうところが天宮は可愛い。

「ありがとう! 開けていい?」

「もちろん。気に入るといいんだけど」

 袋から出した小瓶を見て、天宮の黄色い声が上がる。

「香水じゃん! いいね、いいね。私、そろそろちゃんとしたの欲しかったんだ」

「柑橘系にしたよ。たぶん、天宮、好きだと思う」

 もれる香りを嗅ぐように、天宮が空気を吸い込む。

「めっちゃ好き」

 よかった。喜んでもらえた。

「いい匂い。ありがとう。香水とかってなかなか自分じゃ買わないんだよね」

 ふだんは男所帯のフロアだ。逆に香水はじゃまになるかもと思って、絢音も付ける機会が少ない。

「デートにでもつけてってよ」

「そんな相手いないって知ってるくせに」

 僻むようでもなく、天宮が笑いとばす。

 天宮の笑顔を肴に、お酒をちびちびと口にする。

「でも、なんでまた、香水? なんかあった?」

 最後の方はニヤニヤと天宮が聞いてくる。

 それなりの年の独身女子の恋なんて、甘くもないだろうけれど、その分旨味が凝縮されてたりもする。

 若い子たちのキラキラした瞳に話すには気が引けるが、辛さも苦さも美味しいと感じてくれる天宮なら別だ。恋と呼ぶほどでもないこの感じをきっと丁寧に味わってくれるだろう。

「今朝ね、すごく香りが気になる人がいてね」

 電車の中の男性の香りがとても印象的で、デパートまでその香りを探しに行ったことを話した。

「その香りは見つからなかったんだけど、天宮にぴったりの香りは見つけたから、プレゼントに買ってきたの」

「へえ。そんなにすごい香りなんだ。気になる!」

 そう、良い香りというよりは「すごい香り」だ。

 ずっとその香りに包まれていたいような気もするし、ずっと嗅いでいると胸焼けを起こしそうな気もする。

 ただ、忘れられない香りだ。

 あの香りを嗅いだら、一発でわかる。それくらい確信がある。

 天宮が飲み物と追加の食べ物を見繕い始めた。絢音のお酒も残りわずかだ。もう一杯飲もう。人が行き交う中を定員さんがこちらに来てくれる。

「あ、私も柚酒ロックで……」

 振り返った拍子に言葉に詰まる。

 この、香り。

 そんな私の様子を訝しんだりもせずに、店員さんが愛想よく返事をして戻っていく。

「どうしたの?」

「うん、ちょっと」

 周りの様子を伺うけれど、微かに感じたと思った香りは喧騒とお酒の匂いに塗り潰されてしまった。

「それで、どんな匂いなの?」

「えー、言葉で説明するのは難しいよ。なんていうか、フェロモンみたいな香りかなあ。でも、爽やかでもあるんだよね」

「わかんないわ〜」

 天宮がゴクゴクとジョッキを傾ける。

 よく飲むなあ、と見ているとその手がピタリと止まった。

「げ」

 その声とともに、姿勢を低くする。

「どうしたの?」

 先ほどの天宮の言葉を今度は絢音が返す。まるで、何かから隠れるみたいだ。

「ほら、あの客先のメガネ」

 天宮の視線の先を振り返る。情報がメガネしかないが、メガネのスーツの男性は、視線の先には一人きりだった。斜め後ろ2個室ほど先。その男性の向かい、絢音たちからは背中しか見えないが、連れがいるらしい。こちらも背格好からして男性だ。

「青いスーツの人?」

 ひそひそと確認すると、天宮がコクリと頷いた。思っていたよりも、絢音が目の敵にしている相手は若かったようだ。絢音たちと同じか少し年上なくらいだろう。

「なんでここで飲んでんのよ」

 悪態をつく天宮の目が据わっている。

「うちで打ち合わせだったんなら、まあ、あり得るんじゃない? 別に業務外まで何か言われたりしないよ」

 先ほど頼んだお酒とおつまみがくる。天宮はこれでもかというほど、ビールを胃に流し込み、焼き鳥を口いっぱいに頬張る。豪快だが、それが似合う女だ。

「くそお。飲んでやる。食ってやる。めっちゃ正面でムカつく」

 離れてはいるものの、確かに天宮と対面したような位置だ。とはいえ、流石にこの距離で声はかけてこないだろう。

「忘れて、忘れて。楽しい話、しよ」

「西野も飲んで」

「ハイハイ。乾杯、カンパイ」

 飲みが進むと天宮は駄々っ子みたいで可愛くなる。

 柚酒の爽やかな香りが鼻を通っていく。梅酒も美味しいが、グラスで飲む柚酒の甘くてさっぱりした香りが好きだ。さすがに、あの「すごい香り」とは比べられないが、柚の香りが絢音を癒してくれる。

 もう一口、とグラスを傾けようとした時、天宮が何かを見つけたのか視線を後ろに向けた。

「えっ」

 驚き、というか、どうしてもモニタが起動しないと思ったらコンセントが外れてましたみたいな、なんでそんなことが起きたのかわからないと言うような驚きの声をあげていた。

「なんでくるわけ」

「どうしたの?」

 天宮の明らかに落とした声のトーンに後ろを振り返ると。 

「お食事中、すみません」

 少し低めの落ち着いた声が絢音の頭の上から降り注いできた。

 振り返った先には、天宮の天敵のメガネが立っていた。思わず天宮を見ると、営業スマイルを顔いっぱいに貼り付けていた。

「あ、お疲れ様です。業務外にいかがしましたでしょうか?」

 少し腰をあげつつ、天宮が言葉で先制する。スマイル越しに、業務外に話しかけんな、という声が聞こえてきそうだ。

「ちょっと、お仕事のことでお話が」

「緊急でしょうか?」

 ちらりと視線のあった天宮に目線だけで肯く。

「初めまして、三笠情報の西野です。いつもお世話になっております」

 立ち上がってお辞儀をすると、メガネの男性が絢音ににっこりと笑みを見せた。想像していたよりも人懐こい笑みだ。

「こちらこそお世話になっております。私、天宮さんとご一緒にお仕事させていただいています、ヤツハシ製造の末広といいます。楽しい席を邪魔してしまって申し訳ありません」

「いえ、ですが、私は席を外した方が良いでしょうか? 差し支えなければどのようなご用件かお伺いしてもよろしいですか?」

 頭を掻きながら、末広が照れ臭そうに話しだす。

「実は、先ほど上から今の案件について、GOサインが出たので、一緒に頑張っていただいた天宮さんに一番にお話ししたくて……」

 ガタッと天宮が勢いよく立ち上がった。思わず振り返ると、いつの間にかもう一度ビールを持って立ち上がっている。

 天宮、と声をかけようとして、思わずその言葉を飲み込んだ。いや、吸い込んでしまった。

「本当ですか! 詳しく教えてください」

 天宮の笑顔がはじける。その笑顔を見ながら、絢音ははっきりと、今度こそ勘違いではないと断言できるほどに、あの香りを感じていた。思わず密やかに吸い込んでしまうと、脳が痺れた。

「はい。次の打ち合わせの日程についてもご相談させていただきたいです」

「もちろんです。あ、お席にビールありますか? 乾杯しましょう!」

 先ほどの営業スマイルが嘘だったとバレてしまうんじゃないかと思うほどに、天宮は豪快な笑顔を浮かべて末広と連れ立って行ってしまった。

 振り返ることもできずに絢音は立ち尽くしていた。お酒が回ったわけでもないのに、ドキドキしてくる。

 香りは、まだ、強いままだ。

「僕も、少しよろしいですか?」

 立ち尽くす絢音に少し高めの落ち着いた声が優しく語りかけてきた。振り返る。その先には、柔らかな笑みを気弱そうに浮かべる男性がいた。

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