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第3話:蝶の鱗雲②

『ムツキ』は山の食物連鎖の頂点に立つ肉食哺乳動物だ。全身は硬く短い毛に覆われ、後ろ足で立ち上がると体調は3メートルをゆうに超える。両手には鋭い爪を持ち、人間の皮膚ならば溶けたバターのように簡単に引き裂ける。餌を求め森の集落に迷い込んだ一頭のムツキが、十数人の大人達を次々と惨殺した獣害事件は、森の恐ろしさを語る上で欠かせない逸話となっている。


 俺は物音を立てないようにゆっくりとうつ伏せになり、近くの草陰に身を隠した。唾を飲み込む音でさえ奴の耳に届きそうな気がする。この仕事を始めて何度かあったシチュエーションだが、その度に運良く切り抜けてこれた。だが今回もそうなるとは限らない。

 視線の先、地面に鼻を押し付けながら何かを舐めている獣の目がこちらに向けられた時、おそらく俺達は死ぬ。

 刃物を喉元に突き付けられたような緊張感が、俺の腹の奥でムカデのように這い回っている。


 俺は同様に身を隠したアオイの方に目を向ける。


 ホルスターから取り出した回転式拳銃を構え、鋭い視線をムツキに向けるアオイがいた。


 俺達は自衛のため、現場においては38口径の回転式拳銃の携行が許可されている。ただしそれが殺傷能力を発揮するのはあくまで人間に対してだけだ。ムツキに対してこの銃を放ったところで、全身の筋肉に阻まれ致命傷にはなりえない。

 ムツキとは可能な限り接触しない、それが鉄則。

 しかし現状のよう進退体極まる事態となれば、全てを天に委ね、息を殺してやり過ごすしかない。焦って逃げ出せば、確実に気付かれ、殺される。

 ただ仮に、宙に投げたコインが望まない面を上にして落ちたとしても、アオイはきっと諦めない。その時はこの軟弱な回転式拳銃の弾丸を迫り来るムツキの口腔や腹部に叩き込み、最後まで死に抗うだろう。


 呼吸をするのさえ息苦しい、深海のような時間が流れる。


 俺は口の端から流れ出る唾液や、指先をむず痒く這い回っている一匹のクモもそのままに、この時間の終わりだけをただただ願った。


 アオイは微動だにせず、銃口をムツキに向けたまま動かない。彼女の汚れた頬に一匹の蝿が止まり、皮膚の上を歩き回り、右のまつ毛の上で停止する。

 それでもアオイは動かない。

 普段の忍耐力は心許ないアオイだったが、窮地に立たされた時の集中力は目を見張るものがある。


 その根源はおそらく、恐ろしいまでの生への執着だ。


 断続的に聞こえるあの鳥の声を、俺は何度聞いたのだろうか。突然吹く強い風は、何度木の葉を揺らしただろうか。

 気が遠くなるほどに緊張の時間は、俺の寿命を根こそぎ削り取っていくようだった。


 やがてムツキは顔を上げ、森の奥へと消えていった。


 ムツキが消えてからしばらくして、アオイはまつ毛に止まっていたハエを払いのける。


「うぁわ、死ぬかと思った」


 地面に貼り付いた体を引き離すようにして立ち上がる。


「風があっちに流れてたら、臭いで気付かれて確実に襲って来てたね。ほんと危なかった」


 回転式拳銃を右股のホルスターに収め、アオイはうつ伏せのまま動けないでいる俺に右手を差し出した。

 情けない話だが、足腰が脱力して立ち上がれない俺は、アオイのその手に縋るようにしてゆっくりと立ち上がる。


「ムツキ避けの音波を出してたはずなのにな……」


「それも、風向きのせいかもしれないね」


 俺の頭に乗った落ち葉を手で払うと、アオイはさっきまでムツキがいた空間を眺める。


「あいつ、なんであそこに居続けたんだろ」


「餌でもあったのか?」


 周囲に用心しながら、俺達はムツキがいた方に向かって歩いた。数歩進むと、その周辺の草が枯れている事に気付く。地面は水分を多く含み、歩くたびブーツの底が少しだけ沈み込む。

 不審に思いながら更に進むと、先程ムツキがいたところに小さな水溜りがあった。


「湧水?」


 アオイが首を傾げる。


「それにしたって、この周囲の荒れようは……」


 俺はあたりを見渡して呟く。この周辺だけ、植物が弱り果てているように感じた。

 アオイはしゃがみ込み、ムツキが舐めていた湧水に指先を浸して、舐める。


「バカ、何やってんだよ」


「この水、めちゃくちゃ硬度が高いよ。それに塩分も含まれてるみたい。ここから湧き出た水が、周囲に染み込んじゃってるのかな」


 アオイは指先をズボンの端で拭って、頷いた。


「ムツキは、この水を舐めに来てたのか?」


「まあ、山に住む生き物にとっては、貴重なミネラル源だろうからね」


 そう言ってから、アオイは顔を上げた。つられて俺も顔を上げる。

 疎に聳える樹木が、宵闇に塗れ黒々とした葉を湛えていた。そのあまりの仰々しさに、俺は小さく「すげぇ」と呟く。風もないのに、その葉が揺れたような気がした。


「よし、今日はこの辺で休憩を取ろう。私、もう疲れちゃった」


 唐突にアオイが言った。


「でも、ここじゃまたムツキが来るかもしれないだろ、もう少し歩いて、ここから離れた方がよくないか?」


「嫌だ、もう歩きたくない」


「なんだよそれ」


「あそこの崖を背にすれば、周りも見通しがいいし大丈夫でしょ。ずっと焚き火を炊いとけば、きっと警戒して寄ってこない」


 アオイの指差した場所は、この泥濘地帯を見渡せる位置にあった。確かに崖を背にすれば、背後への警戒はしなくてすむ。そもそもこの森全体が、どこでムツキと鉢合わせしてもおかしくない場所なのだから、どこで休もうが危険な事に変わりない。


「こんな湧水があるなら、何処かに温泉とか湧いてないかな」


「湧いてたら入るのかよ?」


「あ、ソラト覗こうとしてるんでしょ」


「してないです!」


 崖の前までくると、バックパックから折りたたみ式の椅子を出して組み立てた。その辺に落ちている岩を集めて即席の焚き火台を作ると、拾ってきた小枝を並べて火を付ける。

 椅子に座ると、尻がシートに貼り付いてしまった。焚き火の明かりで心が彩られ、安らかな眠気が全身を満たしていく。バックパックからチョコバーを取り出して食べようかと思ったが、食欲など容易く飲み込んでしまうほど重く粘度の高い眠気だった。


「わるい、俺、少しだけ眠るかも」


 そう一言断りを入れるのがやっとだった。


「いいよ、私がしばらく起きてるから」


 そんなアオイの言葉で、俺は全身の力が抜ける。


『目を覚ましたら、きっといいものが観れると思う』


 アオイがそんな事を言ったような気がしたが、その言葉の意味を考える余裕もなく、俺は眠りの井戸へと落ちていった。



   *   *   *



「ソラト、起きて」


 アオイの声で俺は飛び起きた。ムツキとの遭遇で神経が過敏になっていたため、浅い眠りの砂浜を裸足でぴちゃぴちゃ歩いているような感じだった。


「ムツキか?」


 俺は慌てて右太腿のホルスターを探し、椅子の下に落ちていることに気付く。


「違う違う、もう朝だって」


「朝?」


 そう言われて初めて気付いた。木々の隙間から朝日が差し込み、周囲を白く染めている。


「ほら、そろそろだよ。もう飛び始めてる」


「え? 何が?」


 目ヤニがこびり付いた瞼を擦って、俺はアオイの指さす方を見る。


 そして、言葉を失った。


 言葉とは失われる事で、より強い感動を伝えられるのかもしれない。

 容易に言葉へと言い換えられるものなんて、きっと些細で表面的なものだ。本当は、言葉で言い表すことが出来ないものにこそ、強烈な感動が刻み込まれている。


 白い光を埋め尽くすように、無数の蝶が舞っていた。


 瑠璃色の羽が朝日を反射し、星の瞬きのように、波のゆらめきのように、小刻みにその色を変えながら朝焼けの空を舞っていた。


 この美しい景色を言い表せる言葉など、あるはずがない。


 そんな言葉、あっていいはずがない。


 俺とアオイはただ無言だった。

 声も発せず、呼吸すらも忘れながら、その輝きを享受し脳裏に焼き付けていた。



   *   *   *



 蝶達が飛び立った後、湿地帯には朽ちた葉のない巨木がいくつも残った。硬度の高い水がなんらかの影響で湧き出たことによって、土壌環境が変化し、枯れてしまったのだろう。

 昨晩の宵闇の中では、気押されるほどの葉を茂らせていたかに見えた巨木だったが、あれは幻だったのだろうか。


「もしかして、あの木の葉って、全部蝶だったのか?」


「そう。草も生えないようなミネラル過多の土壌で、あんなに立派に葉を茂らせてるから、なんか違和感があってさ」


 確かにそうだ。

 昨晩は緊張と疲労で脳が麻痺していたが、寝起きの冴えた頭であれば確かにその矛盾に気付く。


「そうか、あのミネラルを吸いに、蝶が集まってきたのか」


 確か何かの本で読んだことがある。山岳地帯の蝶はミネラルが不足しているため、土壌や動物の汗などでそれを補おうとする。山中で立ち小便をした男が、その地面に蝶が群がってきた事で粗相がバレてしまった、そんな笑い話もある。

 ミネラルを求めて集まった蝶が、外敵から身を守るため群れをなして近くの巨木で夜を越し、朝になると再び飛び立ってく。

 それが『蝶の鱗雲』の理屈のようだった。


「カレーが食べたい」


 唐突にアオイが言った。

 感動の余韻もないその言葉に、俺は吹き出してしまう。そして205号室のおばちゃんが作ってくれているカレーの事を思い出して、耐え難い空腹感を覚えた。

 バックパックからチョコバーを取り出して貪るように平らげると、俺達はゆっくりと立ち上がる。


 朝日はすでに上りきっていた。

 眼前に広がる泥濘をキラキラと輝かせている。


「今回も、いいもの見れた」アオイが大きく伸びをする「『苦労が幸福に転じる振れ幅』だとか、ふざけんなクソ野郎って思うけどさ、いつも仕事終わりは幸せな気持ちになれるのは、紛れもない事実だね」


「汗をかいた後のビールみたいな」


「だねぇ」


 そう言ってアオイはとろけるように笑った。

 その気の抜けた笑顔を見て、俺は心の奥底から湧き上がるものを感じていた。


 俺達の心を満たしているこの感動は、やがてミューズのエサとなり、他の誰かの感動と混ぜ合わされ、別の何かとして形作られるのだろう。

 でも『蝶の鱗雲』を二人で眺めたあの瞬間、そこにあった空気感を、キカイは絶対に真似ることは出来ない。


 俺達はゆっくりと帰路を辿る。


 その道すがら、俺は次に描く絵の構想をずっと考えていた。


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