研究所は俺が住んでいる場末の町からバスで駅まで向かい、そこから電車で30分ほど走った田舎町にある。
田舎の駅から1時間に1本しかないバスに乗ると、大型ショッピングモールを超えたあたりで進行方向に氷山のような白い建物が見えてくる。
受付を済ませ、しばらくロビーの長椅子に座っていると、廊下の奥から白衣を着た若い女性がやってきて、俺の名を確認した。
「調査員の、ソラトさんですね?」
「あ、はい」
俺は頷く。
巷では無価値者(ワースレス)などと揶揄されているものの、社内では一応『調査員』という洒落た肩書きで呼ばれている。
彼女の後について廊下を歩く。
リノリウムの床は真っ直ぐに伸び、右手にはガラス張りの壁、左手には通し番号がついた似たようなドアが並んでいる。おそらくこの中にも俺と同じようなワースレスが居て、俺と同じように自分の記憶や感動を売り捌いているのだろう。
アオイがいるかもしれない、そんな期待が頭をよぎるが、今まで一度としてこの研究所で顔を合わせたことはない。皆が無言でやってきて、無言で記憶を提供し、無言で立ち去っていく。
「ああ!? 早く帰らせろよクソ女! ここでてめえを犯した記憶を売り捌いてやろうか?」
部屋の中から聞こえる罵声に、俺は眉を顰めた。
時にはこんなふうに、意味もなく暴言を撒き散らす輩もやってくる。ワースレスなんてのは、捨て駒のような仕事をせざるを得ない無価値な人間の集まりだ。俺のような陰湿系のクズもいれば、こういうコミュニケーション力が欠如しているクズもいる。
でも同じクズなら、俺は出来る限り周りに迷惑をかけないように生きていきたい。
134号室と書かれたドアに通され、よくわからないコードが繋がった大袈裟な感じの椅子に座る。白衣を着た若い女性が俺の後頭部の髪をかき分け、端子を差し込んだ。
鋭い痛みが走り、俺は顔を歪める。
俺たちの後頭部には、脳の情報を抜き取るためのソケットが取り付けられている。とはいえ、大雑把な手術で付けられたもののため、端子を挿入する時にはいつも痛みが走る。
この痛みを乗り切れば、あとは数時間ぼーっとしていればいい。
「お名前と識別番号、抽出する記憶の時期を口頭でお願いします」
「あ、えっと」
俺はポケットから携帯デバイスを取り出すと、カレンダー機能で先日の調査日を確認してから、伝える。
白衣の女性が手元のPCを操作し、機械が記憶をコピーしている間、俺は、この白衣を着たエンジニアの女達はみんな同じような顔をしているな、なんて事を考えていた。
* * *
記憶の抽出を終えると、いつも脳が整理されたような感覚を覚える。記憶の抽出はコピー&ペーストだ。調査で得た経験値は次の調査での生還率を高めるため、基本的には残しておいた方がいい。
たくさんのコードが繋がったごちゃごちゃした椅子から立ち上がり、大きく伸びをしていると、白衣を着た髪の長い女性が部屋に入ってきた。
ヤマダ•サクラコ。この研究所の主任研究員であり、脳科学とかそういう感じの小難しい研究分野でかなり著名な人物らしいが、俺にはよくわからない。俺の知る彼女は、妖艶な体躯を白衣で覆いかくして、いつもご機嫌そうな笑みを浮かべながら宝石を鑑定するような鋭い目で俺達を眺めている、得体の知れない女だ。
「ソラトくん、調子は――問題なさそうだね」
先程まで白衣の女性が座っていた椅子に腰掛け、サクラコ先生は舐めるように俺の顔を見た。白衣の女性がパイプ椅子を組み立てて促したため、それに座ってサクラコ先生と向き合う。
彼女はPCに向き直ると、頬杖をつきながらマウスを操作する。しっかりと整えられた眉毛の端が、時々ピクピクと動いている。
「ああ、君の数値はいつ見ても惚れ惚れするね」
艶っぽいため息と共にサクラコ先生は言う。甘い吐息が桃色の粒子を纏いながら、この部屋の空気に溶け込んでいくような気がした。
「ほら、見てごらん、ここピーク。喜びと、恐怖と、緊張がとても理想的なバランスで抽出されている。素晴らしいね」
「は、はぁ、そうですか」
何を褒められているのかよくわからないため、適当な相槌を打つ以外にない。
「君の感性が研ぎ澄まされている証拠だ。誇っていい」
「ありがとうございます」
「特に不調はないかな? 記憶抽出後に手足が痺れたりもない?」
「問題ないです」
「バディ――アオイちゃんだっけ? 彼女とは上手くやれてる?」
「はぁ、ボチボチ」
サクラコ先生は俺から抽出した記憶や感情を知っている。先日アオイと二人で『蝶の鱗雲』を眺めた時、俺が隣に座ったアオイに対してどんな感情を持っていたのかも、当然察しがつくだろう。
俺がまごついていると、サクラコ先生は満足そうに何度も頷いた。
「問診は終わりだ。次回もいいデータを期待しているよ」
俺は頭を下げて席を立とうとしたところで、廊下の方から怒鳴り声が響いた。俺は中腰の状態で固まる。
『ふざけんなよ! あんなに苦労してこれっぽっちかよ! ぶっ殺すぞこの野郎!』
さっき叫んでいたあの男だろうか。いま廊下に出れば、厄介ごとに巻き込まれるかもしれない。
「もう少し、ここにいた方がいいかもしれないねぇ」
サクラコ先生が片手を差し出しながら、再び椅子を勧めてくる。俺はパイプ椅子に腰掛けて、廊下から響いてくる耳障りな怒鳴り声に溜息を吐いた。世の中の全てがそうである様に、クズもまたグラデーションだ。俺のような自分自身にベクトルが向いたクズもいれば、身の回りの他人に向けるクズもいる。
自分の周りの小さな世界ですら、慮(おもんぱか)る事が出来ない。あんな奴に――
「あんな奴に、調査員が務まるのか? って顔してるね」
心の中に留めていた言葉が、サクラコ先生の口から放たれる。俺が半口を開けて先生を見ると、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべていた。厚い下唇が薄く引き伸ばされている。
俺達の仕事は感動をデータとしてミューズに食わせる事だ。あんな粗暴な人間が『何かに感動する』などという心の機微を持ち合わせているとは到底思えない。
「私らが君たちに求めているのは、なにも綺麗な感情だけじゃない」
サクラコ先生の繊月(せんげつ)のような目の下で、軟体動物のような唇が蠢く。
「例えば、道端に咲く一輪の花を目にした時、綺麗だと思う人もいれば、邪魔だと思う人もいる。もしかしたら、太陽を正面から見据えるその真っ直ぐさに、激しい苛立ちを覚える人だっているかもしれない」
そこでサクラコ先生は言葉を切った。
俺は頷く。理解したからではなく、次の言葉を促すために。謎かけのようなその言葉が尻切れトンボで終わってしまえば、俺は何も返せぬままむず痒い沈黙が訪れるだろう。
「そのどれもが、唯一無二の感動なんだよ。彼のような人間の生み出す感動だって、彼の様な人間に浸透し、共感され、消費される」
俺は再び頷く。
「うーん、なんともヒューマニズム的な発言だったね。君たちを捨て駒同然に扱ってる私らがこんな発言をするなんて、さぞかし滑稽に思ったろう?」
「いえ」
俺は首を振る。俺達は決してこの仕事を強制されているわけではない。叶えたい夢、手に入れたい欲望があるから、自分の意思でここに座っている。
「あ、廊下の彼もいなくなったようだね。君もそろそろ帰りなさい」
サクラコ先生がそう言って立ち上がったため、俺も椅子から立ち上がり一礼すると、ドアへと向き直る。
「くれぐれも、『首だけ』になって帰って来ないようにね」
背後から聞こえたその声には、軽薄な嘲りの内側に、真剣な憂いが隠れているような気がした。
* * *
アパートの階段を登り切ると、タバコの臭いが漂ってきた。203号室の住人「カメさん」がベランダでタバコを燻らせていた。
カメさんは自分をフリーの報道カメラマンだと言っていた。事件や事故にビデオカメラ一つで乗り込み、撮影したスクープ映像をメディアに売り捌くのが彼の仕事だ。真に迫るその映像は、見る者に創作とはまた違った高揚を与える。
ただ、ウエストの伸びたスウェットを身につけ、同棲中の彼女に苦言を呈され夕暮れの廊下でタバコを吸うその姿からは、そんな矜持は微塵も感じられなかった。
「ようソラトくん、仕事帰り?」
「いえ、ちょっと研究所の方へ」
「ほーん」
興味があるのかないのかよくわからない声を、吐き出す煙と一緒に漏らした。無精髭にまみれ苔生したような頬には、年期と経験を思わせる亀裂のようなシワが刻まれている。
「金が入ったんなら、今夜あたり一緒に飲まない? 珍しい酒手に入ったんだよね。ご馳走するよ」
「今日は、遠慮しときます」
ありがたいが、今日は疲れてしまった。
「そっか、残念」
カメさんは特に残念そうなそぶりも見せず、アパートの廊下の手すりに肘をつくと、赤く染まり始めた空に向けて長く長く煙を吐いた。
俺もなんの気無しに煙の行先を辿る。
沈み始めた夕陽が、ビルに隙間から俺達を照らしていた。
それは粘性を持った液体のように滴り落ちていく。赤い光が飛沫のように飛散し、伸びたビルの影が創り出した暗い水面へと溶け込んでいく。
命に形があるのなら、きっとこれと同じ形だろう。
「こんな場末のアパートでも、こんな綺麗な夕焼けが見れるんだねぇ」
カメさんが呟く。
俺は頷く。
この景色は誰にも分け与えず、自分の中だけにしまっておきたい――沈みゆく夕陽を見ながら、俺は思った。