「そこ、良くない噂を聞いた事があるなぁ」
グラスの中で波打つ焼酎を眺めながら、カメさんは言った。その隣ではカメさんの彼女が首を傾げている。カメさんよりも2回り近く若いカメさんの彼女は、シャツの胸元から豊満な胸の谷間を覗かせている。
目のやり場に困った俺は、雑誌が適当に突っ込まれたカメさん宅の本棚を、さも興味あり気に眺めてみた。
「陽だまりの大樹……。南の孤島にある巨木らしいけど、なんだかおかしな集団が御神木として崇めてるらしいよ。それに――」
喉を焼くアルコールに目を細めながら、カメさんは少し声のトーンを落とし、勿体ぶるような口調で続ける。
「知り合いの情報屋の話によると、あそこに調査に行ったワースレスの多くは、未だに帰ってきてないんだってさ」
俺は反応に窮して愛想笑いを浮かべる。
「ソラっち笑い事じゃないっしょ? 死ぬんじゃね?」
カメさんの彼女が、軽い口調に反した真剣な視線を俺に向けている。俺は手酌でグラスにビールを注ぐと、一気に飲み干す。しかし、不安も恐怖もぼやけさせてくれる都合のいい酔いの感覚は、訪れる気配すらない。
「もう引き受けちゃいましたから、行きますよ。だって今回の調査報酬、いつもの1.5倍なんですもん」
酒臭い強がりが漏れる。予期せぬタイミングで膨らみ初めてしまった迷いを断ち切るように、俺は力強く頷く。
「ソラっち無理すんなよ? 弱いんだから」
「死にそうになったら逃げ帰って来るんだよ。もし野蛮な連中による組織的な大量殺人が起きてるようなら、真っ先に僕に報告してね」
カメさんは報道カメラマン根性丸出しの不敵な笑みを浮かべている。
俺は呆れながらも頷いた。
『調査対象:陽だまりの大樹』
電車で数時間かけて海沿いの集落へと移動する。そこで予約していた小型船に乗って、件の島へと向かう。
船の操縦を依頼した男は、マウンテンパーカーに大きなバックパックという俺達の姿で何かを察したのか、終始胡散臭そうな視線をこちらへと向けていた。
このバックパックは会社からの支給品で様々な機能が搭載されている。便利なものではあるが、それ自体が無価値者(ワースレス)の象徴として見られる事が多い。
『あなたその中に、生首、入れてないですよね……?』
ここに向かう電車の中で、神経質そうなおばさんが嫌悪の眼差しを俺に向けながら唾を吐くように言っていた。俺はその言葉を否定するが、居心地が悪くなりいそいそと隣の車両へと移動する。
移動した先の車両でも、鎖に繋がれた罪人を眺めるようなよそよそしい視線を感じ、俺は身を縮こめてその視線を受け流した。
ポケットから魚肉ソーセージを取り出して昼飯代わりに齧る。
行く先に見える緑の塊の周りを、胡麻粒のように小さな海鳥が飛び回っていた。なんだか屍肉の周りを飛び回るハエの様に見えて、俺は憂鬱な気持ちになる。
この島では、どんな災難が待ち受けている事やら。
俺達を陸地に降ろすと船は逃げる様に去っていった。こちらから連絡するか、3日後のこの時間になれば、また船が迎えにきてくれる手筈となってる。
「うああ、気持ち悪い」
終始無言だったアオイがやっと口を開いた。
「船酔い、全然慣れないのな」
「足元が揺らぐ感覚って絶対普通じゃないじゃん。陸地に生きる生物にとって異常事態だよ。それが大丈夫な人達の方が、鈍感で頭がおかしいんだよ」
「少し休む?」
「いや、いい。不動でまともな地面を確かめながら歩いてりゃ、そのうち感覚が戻ってきて、良くなると思う」
そういうものなのだろうか? よくわからないが、アオイ自身がそう言うのだから、そうなのだろう。
俺達は件の大樹があるという島の中心に向かって歩き出した。
俺達の住む街は桜が花開く寸前だったが、南に位置するこの島の草木は一足早い初夏の新緑を讃えている。踏み締める草花にも、力強い生命が満ち満ちているような気がする。
いい島だな、と俺は思う。
大樹を崇めるおかしな集団や、訪れたワースレスが誰一人帰ってきていないという不吉な経緯を除けば、草原に寝そべって日向ぼっこしたいくらいには心地よい。
「この島には、ムツキいるのかな?」
アオイが尋ねる。
「うーん、資料にはいないって書いてあるけど、未開の島なわけだから、あてにならないよな」
「その資料をあてにして、何度馬鹿を見たことか」
アオイは指先でもみあげの髪を耳にかける。
俺は携帯デバイスで資料を読むふりをして立ち止まった。少し先行したアオイも立ち止まり、振り返る。
彼女の小さな体に、このバックパックは不釣り合いに大きい。小さな子猫に手を伸ばしたくなるような、庇護欲にも似た感情が俺の内面で気泡を生んでいる。
「なに立ち止まってんの?」
「いや、別に」
俺は再び歩き出した。
今度は彼女より少し早足で、彼女に降りかかる災いを誰よりも早く察知できるように。
* * *
3時間ほど歩いただろうか。俺達は島の中心に位置する森の中へと立ち入っていた。
初夏の森はじっとりとした湿気を蓄え、暑くはないもののベタつく不快な汗を滲ませる。さっきからヤブカが顔の前を飛び回っていて不快だ。水筒の水を一口のみ、水を補給できる渓流はないかと水の音に敏感になりながらゆっくり歩く。
デバイスが指し示す大樹の位置はまだ先だ。
もう1時間ほど歩いたら、少し開けた場所を探して野宿することにしよう。近くに小川があればなお良い。
「私は今すぐにでも寝転がりたい」そう大義そうに呟くアオイを励ましながら、俺達は太い倒木の幹を跨いだ。
『大樹を崇めるあやしい集団』――先住民族なのかよくわからないが、得体の知れない存在の影に怯えながらの探索はかなり精神をすり減らす。
相手はおそらく人間だ。ムツキのように忌避音波を出していれば、むこうから遠ざかってくれるわけじゃない。
右の太腿の装着した回転式拳銃の重さを意識しながら、俺は顎のあたりに滲んだ汗を服の袖で拭う。願わくば、このままなにも起きないまま、目的の大樹まで辿り着きたい。
「ソラトー」
「ん、なに?」
俺は振り向かずに答える。
「私、ちょっとお花を摘んでくる」
「あ、ああ」
立ち止まり、目的もなく携帯デバイスに視線を落とした。毎度の事ではあるが、こういう時にどんな言葉を返すのがスマートなのかわからない。だから俺はさも意味あり気にデバイスを触って、何かに集中しているフリをする。
草をかき分けるアオイの音が聞こえなくなると、俺はデバイスから目を離して周囲を見渡した。
一人になると途端に心細さが襲ってくる。
どこかで鳥が羽ばたく音や、小さな木の実が落下し葉の上で跳ねる音なんかが、やけに近く大きく聞こえてくる。
アオイは大丈夫なのだろうか。
無防備な状態でその『あやしい集団』とやらに出くわしたら、流石のアオイも無力化されてしまうかも知れない。とは言え、女性のお花摘みに着いていくわけにもいかないだろう。
きっと大丈夫、きっと今回は何もない。俺は自分自身に何度も言い聞かせる。
特に何の障害もなく調査を終えたケースだって、今までもたくさんあった。前回はムツキに襲われかけて肝を冷やしたのだから、今回はその反動で何もないまま終わってくれるに違いない。
ラッキーとアンラッキーの総数は釣り合うようになっていると、どこかの本屋で立ち読みした気がする。今までの生活はアンラッキーが大半を占めていたのだから、そろそろラッキーに転じてくれないと計算が合わない。
強がりを心の中で繰り返すと、硬い木の実のような確信が、俺の中に生まれたような気がした。
そして次の瞬間、その実は呆気なく土足で踏みつけられる。
「ソラト!来て!」
茂みの奥からアオイの声が聞こえた。
「どうした!?」
「いいから早く!」
有無を言わさぬ物言いに急かされて、俺は声のした方向へと急いだ。
そして辿り着いた先には――
燻んでボロボロの服を着たボサボサ髪の男と、そいつの頭に銃口を突きつけるアオイがいた。
「だれ? そいつ……」
「わかんないけど、お花を摘んでたら後ろに立ってやがった」
靴底で、確信の実が砕ける音を聞いた気がした。
不幸のあとにまた不幸。やはりミューズの書いた自己啓発本など嘘っぱちなのだ。