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第7話:陽だまりの大樹③

「作品って、作者を通り抜けたその先にあるものだと、私は思うの」


 項垂れる俺の肩に手をあてて、母さんは言った。


「誰でもない、『あなた』の描いた絵を見たい――そう思ってくれる人が1人でもいれば、あなたの絵は価値を持つのよ」


 そうなのだろうか、と俺は思った。

 母さんの言葉に弱者の言い訳じみた希望を感じ、さりとて結局は無価値な弱者でしかない俺は、心のささくれにその希望の切れ端を引っ掛けながら、目の前の現実を空な目で眺めていた。



   *   *   *



 その問いの後は異様な空気が漂い続けていた。

 誰もが声を発せず、腐葉土を踏み締める音だけが、陰鬱な空から降り注ぐ雨音のように鳴り響いた。


 俺は聞いてしまった事を後悔した。俺達に危害を加える意思がないのだから、こいつらだって俺達に危害を加える事はないだろうとたかを括っていた。そうじゃない。こいつらは状況一つで簡単に人を殺せる奴等だ。偶然にも俺達が、まだその眠れる猛獣の尻尾を踏みつけていないだけで。


 とりあえず、今の所は彼等に俺達を殺そうとする意思は見られない。争い事を起こすつもりがあれば、さっきのタイミングで俺達の武器を取り上げて無力化するだろう。

 今はとりあえず、放り出された尻尾を踏みつけないよう、足元に気をつけながら歩くしかない。


 無言のまましばらく進むと、急に視界に映り込む色が変わった。


 重苦しい濃緑から、鮮やかな新緑へ。


 開けた草原を横断するように、木で作られた柵が見えた。先頭を歩いていたボサボサ頭の男が、ゲートを固定しているロープを解いている間、俺は草原に生えた草花の上を飛び回るミツバチを眺めていた。道中の陰鬱な空気が風化していくような、爽やかで心地よい風が吹き抜けていく。空は薄青で、雲の流れが早い。


「おい、さっさと入れよ」


 ボサボサ頭の声に促され、柵の中に入る。そこにあったのは綺麗に耕された土と、それを穿つ亀裂のようないくつもの苗達。そして視界の先には、木と枯れ草の色をした小屋が幾つも並んでいる。


 キカイが介在しない、全てを人間の手で作り上げたコミュニティー。


 物珍しさでキョロキョロと周囲を見渡していた俺は、畑仕事をする1人の女性と目が合った。歳は自分と同じくらいか少し年上に見えるが、日焼けしたその精悍な頬は、青白い顔をした俺よりもかなり大人びている。獣の皮をなめして作った簡素な衣服は、必要最低限の部分のみ覆っていて、俺はなんとなくむず痒い気持ちになる。

 隣を歩くアオイを見ると、彼女もまた真剣な視線を彼等の『村』へと向けていた。


 群立する小屋の前で立ち止まると、髪を後ろで束ねた男がその一つへと入っていった。小屋は、木で作られた骨組みを枝や枯れ草などで覆って作られていた。かなり質素な作りだ。そんな小屋が10戸ほど並んでいて、コミュニティー自体はとても小さなものだと伺える。


「君達、先生が入ってこいと言っている」


 小屋から出てきた男がそう言って手招きをする。それを合図に、俺達を見張っていたボサボサ頭の男と巨漢の男は、責務を全うしたとばかりに深い溜息を吐いて、各々の小屋へと消えていった。


「ほら、早く入りなさい」


 髪を束ねた男に促され、俺達は小屋の中へと入る。小屋の中は植物が発酵したような独特の匂いが充満していた。

 その小屋の奥には男が座っていた。

 中は薄暗くて、壁にできた枯草の隙間から差し込む光だけでなんとかその容貌を認識できる。先生などと一目置かれて呼ばれていたため、煌びやかな装飾を施した教祖然とした人物を想像していたが、実際は他の者達と同様に質素な服を着て痩せ細った中年の男だった。


「ありがとう。君はもう下がって大丈夫だよ」


 その言葉に頷き、髪を束ねた男は小屋を出ていく。

 先生と呼ばれる男の声は柔らかかった。自分の中の警戒心が解けかけている事に気付き、慌ててきつく結び直す。


「あ、えっと、君達はワースレスですね?」


 先生は俺とアオイ両方の目を交互に見据えながら訊ねる。


「そ、そうです」


 俺は答える。久しぶりに声を出したのと緊張で、少し上擦ってしまった。隣のアオイは先生を睨みつけながら無言で頷く。


「そんなに、緊張しなくてもいいですよ」先生は苦笑いを浮かべる、何一つ嫌味のない表情だ。「僕はただ少し話がしたいだけなんです。彼等は心配していたようだけど――僕は、君達がこの土地に災いをもたらす人達ではないって、一目見てわかりました。だから、少し話し相手になってくれたら、直ぐにここを去ってくれて構いませんよ」


「そうやって油断させて、ワースレスを殺してきたの?」


 俺はギョッとしてアオイを見た。

 アオイは両目を大きく見開き、瞬きもせず先生を睨みつけている。窮地に陥ったアオイが見せる、自身の生存本能を最大限に拡張させた状態。いわゆる『ゾーン』に入った状態だ。


「僕達が、殺した?」


「さっきの奴らが、そう言ってたよ」あたふたする俺を尻目に、アオイは小さいがよく通る声を先生の顔面に投げつける。「いつ襲ってきても構わないけど、そん時はあんただけは、確実に殺すからね」


「僕達が、ワースレスを殺した、ですか……」


 睨みをきかせるアオイを一瞥し、先生は顎に手を当てて考え込むポーズをする。


「それって、あの、誤解、ですよね?」


 俺は強張ってしまった空気を和まそうと、表情筋を引き攣らせた鬼気迫る笑顔で訊ねる。


「いや、彼等がそう言っていたのなら、そうなのかもしれないですね。僕に、彼等の言葉を否定する権利はない」


「はい?」


「ただ、一つだけ言える事は、今の僕達には君達を殺す意思はないという事です。殺すとするならば、それは君達自身が決める事」


 先生はそう言って含み笑いを浮かべる。

 俺は目の前の気弱そうな痩せた中年男が何を言っているのか分からなかった。自分達の機嫌を損なうような振る舞いをすれば、容赦なく君達を亡き者とするーー君達の生死は、君たち自身が握っている、そう言う意味なのだろうか。


 先生は立ち上がり、俺達の間を通り抜け、枯れ草の壁の隙間から外の景色を眺めた。そして俺達に背を向けたまま、訊ねる。


「ここに来た目的は、あの『大樹』ですよね」


「そうだけど」


 俺より先にアオイが答える。

 先程まで彼女から感じていた棘のようなものが、少しだけ抜け落ちているような気がした。先程の先生の言葉で何かを感じ取ったのだろうか。俺には何がなんやらさっぱりだけど。


「ちょうど今、あの大樹は満開の花を咲かせて、この世のものとは思えないほどの美しい景色を見せてくれます。今日は天気もいいし、夕焼けもまた美しそうですね。この2つを同時に眺められるのは、最高のシチュエーションだと思いますよ」


「そうですよね。それじゃあ、そろそろお暇します……」


 俺はおずおずとそう告げる。


「もしよろしければ、僕が大樹の場所まで案内しますよ。ここからすぐ近くなんですが、道を誤ると樹海から抜け出せなくなる複雑な位置にあるんです」


 それは通常であればありがたい申し出だったが、この奇妙な集団とこれ以上接触し続けるのは憚られた。自分のどの行いが彼等の逆鱗に触れるか分からない。

 俺にはこの先生と呼ばれる軟弱そうな男が、その温厚な仮面を殴り捨て、無表情のまま俺の腹にナイフを突き立てる様子がありありと想像できる。

 第一、警戒心の強いアオイが、これ以上こいつらと行動を共にする事に納得するとは思えない。


「そう、じゃあお願い」


 アオイがそう返す。

 俺は驚いてアオイを見た。アオイは気の抜けた表情でこちらを見返していた。その表情がどのような感情からくるものか分からない。呆れなのか、失望なのか、諦めなのか。


「では行きましょう」


 アオイの返答を頭ごなしに否定するのも難しい流れになってしまった。俺は先生の後ろについたアオイを追いかけるように小屋をでた。

 日は沈みかけ、先程までの鮮やかな緑をセピア調に染めつつあった。鳥の群れが寝場所を求めて、薄い空を渡っていく。どこかの小屋から、穀物を煮込むような甘い匂いが漂ってきた。その優しい匂いに、俺は不覚にも空腹を覚える。


 不意に、子供の頃の記憶が蘇る。

 まだ幼かった頃。自分には価値があるとか、自分は無価値だとか、そう言う濁って生臭い悩みは存在せず、ただその日の夕食が楽しみだったあの頃。

 今思えば掃き溜めの巣窟のような場末の集合住宅も、あの頃の俺にとってはワクワクを詰め込んだダンジョンだった。毎日のように川原や公園でスケッチをして、日が沈む頃に駆け足で家へと帰る。近所の家から漂ってくる美味しそうな匂いと、薄い壁を突き抜けて響く子供の笑い声。家に帰ると母がいて、贅沢じゃないけど俺が大好きな夕食を準備してくれていた。


 あの頃は、人間の価値に順位があるとも、幸せに階級があるとも、考えた事すらなかった。

 ただ毎日が楽しくて、新鮮で、大切だった。


 あの頃の空気がこの『村』には流れているような気がした。


 先生はその空気を味わうように、ゆっくりと辺りを見回し、出会った人と笑顔で言葉を交わしながら、村の外れへと向かう。


 柵を出て森に差し掛かったところで、前を歩いていたアオイが俺と歩調をあわせて隣に並んだ。

 そして小声で訊ねる。


「ねえ、気付いてる?」


「え、何が?」


 なんの事か見当もつかず、俺は問い返す。アオイは眉間に皺を寄せて呆れたような溜息を吐くと、前を歩く先生の様子を伺いながら小声で囁く。


「あの男、元ワースレスだよ」


「はい?」


 アオイの言った言葉の意味が理解できず、俺は再び聞き返す。


「あの男だけじゃない、見た感じ、他の奴らも全員ワースレスだったみたい。あそこは、元ワースレス達が集まった村なんだよ」


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