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第8話:陽だまりの大樹④

「初めてこの大樹を観た時、僕はその荘厳さに心を揺さぶられましたよ」


 そう先生は呟く。


 視界を桃色の霞が覆っていた。

 小緑の樹木と、赤が滲む夕暮れ時の空。その2つを背景に従え、巨木は桃色の花で豪奢に彩られた枝を広げている。夕日を受けた花が煌めき、風に乗って舞い落ちる花びらは視界を目まぐるしく変える。

 この世の全ての色を集めたような、脳が狂いそうなほどの色彩の氾濫。


 俺は大樹を見上げながら息を吐いた。

 それが魂を吐き出すような低いうめき声になっている事に、数秒経って初めて気付く。


 先生は続けた。


「でも同時に、なんとも不快な憎たらしさを覚えたんです」先生の声が、風と共に舞う。「おかしな話ですが、その感情の根元は嫉妬でした。この大樹は、森からも空からも太陽からも愛され、こんなにも彩られている……。ずっと日の当たらない場所で暮らしてきた僕にとって、この木が纏う装飾は、余りにも煌びやかすぎました」


 鳥の群れが花の霞へと消えていく。


「だから、見定めてやろうと思ったのです。着飾ったその美しさの裏に隠している、目を背けたくなるようなみすぼらしさをね。今思うと、その行動に何の意味があるのかわからない。でもあの頃の僕は、そうでもしないと心の均衡が崩れそうだったんです」


 霞の中へと消えた鳥は、やがて歓喜の歌を唄いはじめる。


「この大樹だけじゃない。この社会の中で、皆から愛される『価値あるもの』と、自分のような『無価値なもの』の違いが、僕にはどうしても納得出来なかったんです」


 そして先生は、大樹を見上げていた目をこちらへと向けた。


「僕はね、君達と同じワースレスでした。そちらのお嬢さんは、気付いていたみたいですが……?」


「発言が妙に引っかかったのと、小屋の中ですれ違った時に、髪に隠れた端子接続用のソケットが見えたから」


 大樹に見惚れたまま、アオイは答える。


「いやぁ、恐ろしい観察力ですね。でもこの社会じゃ、さぞかし生き辛いでしょう……」


 先生は再び大樹を見上げる。

 日は急速に傾き、桃色の花が赤く染まり始めていた。


「僕も、君達のように調査でこの島へ来ました。しかしそれを放り出してこの島に留まる事にしたんです。そして、この大樹をずっと見続けて、分かりました。彩られたり着飾ったりした美しさなんて、この木が持つ美しさのほんの一握りに過ぎないって。花が散った後に茂る緑の葉や、それが老化して変色し、全てが剥がれ落ちて丸裸になったこの大樹もまた、同じ様に美しかったから」


 日は森の木々に飲み込まれ、大樹の花は色が抜けていく。


「会社が……ミューズが求める『価値ある景色』や『体験』や『感動』なんて、その事象が持つ一面でしかないんです。それは人間の価値だって同じですよ。君達ワースレスは、この世界じゃ無価値の烙印を押されていますが、それだってその人のほんの一面で判断されているに過ぎない」


 先生は俺達の顔を交互に見る。


「人と争うのが嫌だから道を譲ってしまう人、発想が奇抜すぎて誰からも理解してもらえない人、他人の機微に気付いてしまうから常に心が休まらない人、逆に気付けなくて無意識に誰かを傷つけてしまう人……。キカイを中心にして整然と組み立てられたこの社会じゃ、そんなはみ出し者達は均一な布地に出来た縫い目の解れみたいに――『無価値』な存在なんでしょうね。そんな社会で役に立たない、邪魔にしかならないもの達は、キカイが定めた最低所得補償に頼ってひっそり生きるか、『ワースレス』になって命をかけて大金を得るか、そんな生き方しか選べない」


 夕暮れが夜へと変わる。

 花は桃色から白へ、煌めきから瞬きへと変わる。


「でもやっぱり、そんな一面的な価値の押し付けは間違っていると思うんです。この大樹の多面性を知って、僕はそう確信しました。この大樹の咲かせる花は確かに煌びやかで美しい。しかし葉のない筋張った枝や、その上を歩く小さな虫達だって、同じように美しい」


 先生はそう言って後頭部に触れた。そこにはワースレスの証である端子接続用のソケットがあるはずだった。忌々しい顔で後頭部の凹凸を撫でた後に、ゆっくりと口を開く。


「だから殺す事にしたんです。僕の心の中にいる『ワースレスっていう狂った価値観』をね」


 先生はそう言って笑った。


「ワースレスを殺したって、そういう……」


 その言葉遊びに釈然としないものを感じながらも、俺は先生の言葉に不思議な安らぎを覚えていた。それは無価値と蔑まれ、社会に溶け込めず否定を重ねながら生きてきた俺達にとって、数少ない肯定の言葉だったからだ。


「この時期になると、毎年ワースレスがこの島に送られて来るんですよ。僕はシンパシーを感じた者達にだけ声をかけて、こんなふうに自分の考えを話させてもらっているんです。聞く耳を持たない人もいるけど、共感してくれた人も何人かいて――彼らはこの島に残って、今でもあの村で暮らしています。彼ら自身の中にいる『ワースレス』を殺してね」


 俺は隣に立つアオイを観た。彼女は先生の顔越しにまだ大樹を眺めているような気がした。

 アオイには目的がある。

 それは側から見ればたわいもない、バカらしい目的かもしれないが、彼女にとってその目的に近づく努力をする事が、イコール生きる事に繋がってる。

 彼女の目に先生の姿は映っていない。

 目の前に広がる大樹を抜け、更にその先にあるものへと向けられている。


 そしてそれは、俺だって同じだ。


 これから投げかけられるであろう問いに対して、俺達2人の返答は既に決まっている。遠くを見つめるアオイの目がその答えを示していた。


 先生はそんな俺達を見て微笑むと、細く長い息を吐き、返答がわかっている形式的な質問を投げかける。


「君達もここで、自分の中の『ワースレス』を殺してみてはいかがですか?」



   *   *   *



 大樹の側で火を焚き、小さな鍋でお湯を沸かす。フリーズドライの野菜と、カットしたサラミソーセージを投入し、粉末のコンソメスープで味を整える。

 大樹から舞い落ちた花びらが、沸騰する鍋の揺らめきへと消えていく。


 月や星の微かな光の中では、大樹の鮮やかさも薄れている。しかしそれは、眠りについた優しい獣の毛皮のように、柔らかな温もりに満ちている。


 植物、虫、鳥、そして人間。

 様々な生き物がこの大樹に集まり、その美しさと温かさに抱かれながら、生物にとって最も大事な『生きる』という活動それのみに没頭していく。


 まさに『陽だまりの大樹』だ。


 サラミソーセージの脂が溶け出し、鍋から芳香が漂う。俺は出来上がったスープを鍋からカップへと注ぎ、アオイへと手渡した。


「うわ、これめちゃくちゃ美味しい」


「こんな景色を眺めながら食べればなんだって美味いんだよ」


「ファミレスの美味しい料理をここで食べたら、脳が破裂しちゃうだろうね」


 フォークで具材を突き刺して口へ運ぶ。熱かったのか、半口を開けてハフハフと息を吐く。


「ねえソラト、あのおっさんの言葉に、若干気持ちがなびいてたでしょ?」


「いや、そんな事はないよ」


「別にここに残ってもいいんだよ?」


 アオイはイタズラっぽく笑う。


「いや、何度も言ってるけど、俺はお金を貯めて個展を開きたいんだ。ここに留まってたら、その夢は叶わないじゃん」


 俺はそう言ってスープを啜る。


「ふーん。まあ私も、その方がありがたいかも。ソラト以外のバディだと、上手くやれる気がしないもん」


「お前さんの暴走に毎回付き合ってやってる、この俺の寛容さにやっと気付いたようだね」


 悪態をつきながらも、ソラトはアオイの言葉が嬉しかった。俺は思わず緩んでしまう顔を隠すために、アオイに横顔を向けて大樹を見上げた。


 そして、そのまだら模様のスクリーンへ、目的もなく生きてきた自分にひとつの『夢』ができた日の事を、ぼんやりと映し出した。


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