河川敷に座った少年は、そこから見える風景を描く。
画材はシャープペンシルと、数学の授業で余った罫線入りのノート。
河川敷の草原は緑の雑草が茂っているが、少年の座っている一画だけは緑に土の茶が混じる。それだけ毎日、長い時間、少年はその場所に座っていた。
学校は辞めてしまった。
よくわからない数字で誰かと競い合い、誰かに恨まれ、誰かに殴られながら、その場所に居続ける事にきっと意味なんてないと感じたからだ。
夜のバイトまでの時間、少年は昔から好きだった『絵』を描き続ける。
徐々に日が沈み、西陽が差し、影が伸びていく、この河川敷から見える風景の全てを、少年はノートに描いていた。
それだけが少年の楽しみだった。
少年の名はソラトと言う。
* * *
中学生時代までの思い出は、黒ずんだ外壁の低所得者向け集合住宅と、学校まで続く陰鬱な坂道の景色で埋め尽くされている。
子供の頃のソラトは母親と二人で暮らしていた。目に持病のある母親はフルタイムで働く事が難しく、生活費のほとんどはAIが査定し受給される所得補償金に頼っていた。贅沢が出来るものではなかったが、ギリギリ生きる事が出来る金額ではある。
同じような境遇が集まるこの集合住宅群は、外壁塗料が剥げかけた見窄らしい壁の間で、腐りかけた空気が澱んでいるように感じた。
窓を開けても、同じような壁しか見えない。
ベランダから空を見上げると、クモの巣が張った上の階のベランダが見える。
ソラトはごく平均的な少年だった。
勉強も運動も、成績はクラスで真ん中くらい。ただ他の子がゲームやマンガに興じる時間を、娯楽のなかったソラトは教科書を何度も読んで過ごした。その結果、小学校高学年の頃にはクラスでもトップレベルの成績になっていた。
そんなソラトを、有名私立中学を受験する裕福な家庭の子供達はこき下ろした。私立に行くこともできない貧乏人のくせに身の程をわきまえていないと、時に暴力を伴う嫌がらせを行った。ソラトはそんな彼らの瞳の奥に、迫る受験戦争に対する恐怖や不安の色を見た。
彼等は追い詰められていて、自分のような貧弱な生き物にすら、居場所を奪われるような恐怖を感じている――その事を哀れに感じたソラトは、それ以降テストではわざと間違った答えを書く事にした。
その対策は功を奏し、彼等の目から少しだけ恐怖の色が薄らいだ気がした。この成功体験は強烈に胸に刻みつけられ、少年の人格形成を大きく歪めた。ソラトはそれ以降も、誰かと競い合う場面では不自然ではない程度に手を抜き、競争相手の反感を買わない態度を心掛けた。
そんなソラトにとって、唯一全力で取り組めるのが絵だった。
今や世界に流通する絵は、ミューズによって生み出されたものがほとんどを占めている。クラスの中で、絵などという前時代的な趣味に傾倒する物好きはソラトだけだ。
競合相手のいない、広々とした湖を泳ぐ一匹の魚のように、ソラトは絵を自由に全力で、描き続ける。
絵を描くなどという行為は、なんの生産性もない。暇と金を持て余した者達が、庭の花壇から化石を掘り出そうとするかのような、極めて道楽的な趣味として細々と生き残っていた。
そのため、需要の少ない画材関係はどれもこれも希少であり、高価だった。貧乏なソラトに買えるはずもない。ソラトは授業に使用するノートとシャープペンシルで絵を描く術を覚えた。
そんなソラトの事を、母親はただ優しく見守っていた。
母親は目の病気によって、徐々に視力が低下していた。
慣れ親しんだ家の中であれば自由に動き回れるものの、外に出ることは難しい。
そんな状態では仕事に就く事も困難なため、やっと見つけた『代筆』の内職をしながら貯金とソラトの小遣いに充てていた。今もなお直筆にこだわる事がステータスと感じている一部の客層に向けて、便箋などに社名や宛名を代筆する仕事である。しかし、そんな前時代的な連中も今後はどんどん減っていくだろうし、いずれは淘汰される仕事だと母親は割り切っている。
目が見えなくなって仕事が出来なくなるか、それとも仕事自体が無くなるか、どちらにしても先はない。
持病の影響なのか、日に日に弱り始めた身体を実感しながら、母親はそんな諦めにも似た感情を抱えていた。
ひとつ不満があるとすれば、それは息子が魂を込めて描き続けている絵達を、いずれ見る事が出来なくなってしまう事だ。
『自分が楽しいと思う事をしなさい』
それが母親の口癖だった。
機械化が進み、人に出来る事がどんどん減っていく中で、機械以上の力を生み出す原動力は『楽しい』という感情なのだと、ソラトの母親は信じていた。
事実として、生半可な知識や技術では、生涯を機械に使われて生きる生活が待っている。それは経済的には恵まれるだろうが、生き甲斐とはほど遠い生き方なのだと母親は感じていた。
だから母親は、一見するとなんの将来性もない『絵』という愚行にうつつを抜かす息子を、褒めて、励まして、称賛した。
『自分の感情に素直に生きなさい。そうしないと、いつか必ず後悔する』
ソラトには父親がいない。
母親のその言葉に、彼女のどんな過去が染み付いているのか、子供のソラトにはわからない。
だからソラトは、自分を応援してくれる母親をただ純粋に愛し、母親が喜んでくれる絵を描き続けた。
やがてソラトは高校を辞める事になるが、母親はそれを止めなかった。
いつかこの『絵』によって、失われてしまった自分の価値を取り戻したい。そして、母の目が完全に見えなくなってしまう前に、幸せな自分の姿を見せてあげたい。
そんな思いを抱きながら、ソラトは絵を描き続けた。
そして冒頭の河川敷へと戻る。
* * *
「きみ、いつもノートに何か書いているね。何してるんだい?」
急に背後から声をかけられ、ソラトは驚いて振り返った。ソラトの後ろに立った中年の男が、物珍しそうにソラトのノートを盗み見ていた。
「おお、君、絵を描いてるのか? 珍しい事してるね」
男は短い髪を整髪料で後ろに撫で付け、紺色のシワひとつないスーツを着ていた。
ソラトは咄嗟にノートを閉じる。
「隠さないで、見せてくれよ。さっき見てた感じ、かなり上手じゃないか?」
「あの、いきなりなんですか?」
「あ、そうだね、びっくりするよね。ごめんごめん、私はこういう者なんだけど――」
訝しむソラトに男は名刺を差し出した。名刺には街の外れにある大きな美術館の名前と、学芸員という肩書きが書かれている。ソラトの目が見開き、男と名刺を交互に見比べた。
男は目を細めて笑顔を見せる。
ソラトは恐る恐る、男にノートを差し出した。
男は最初パラパラと適当にノートを捲り始めたが、後半に行くにつれ1ページ1ページを食い入るような目で眺め始めた。大きな眼球がコロコロと、ノートの端から端まで転がり始める。
「これ、君が描いたのか?」
ノートから目を離さないまま、男はソラトに尋ねる。
「はい、そうです」
「全部、シャープペンで描いたのか?」
「そうです……」
「こりゃ、たまげたな」
男は右手で撫でつけられた髪を掻いた。髪の束がいくつか立ち上がったが、男は気にするそぶりも見せず丁寧にノートを閉じてソラトに手渡す。
「今の時代に、これだけの絵を描く人はそうはいない。過去に生きていた著名な画家連中にだって引けを取らない、とても立派な絵だ」
その言葉は、ソラトの鼓膜から喉を抜け、胸の奥で歓喜の鐘を鳴らした。
自分の絵を、初めて他人に褒められたのだ。ソラトはだらしなく口を開けて、虚げな表情のまま何度も頷くしかなかった。
男は腕を組み何かを考え込むと、再びソラトを見た。
「もしよかったら君の絵を、次の美術展で展示してみないかい?」
男の放ったその言葉は、その後のソラトの運命を決定づける大きな流れの最初の一滴となる。
雨をたたえた重たい雲が、遥か東の空を薄黒く染めている事に、この時のソラトは気が付けなかった。