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第10話:ソラトと黒い太陽②

 その日から、ソラトはいっそう絵に没頭した。


 バイト代を叩いて買ったテーブルほどの大きな画用紙を床に敷き、小学校の卒業記念品としてもらった使い古したシャープペンシルで太陽を描く。


 学芸員の男は、どんな構成でも構わないが『太陽』を題材にした絵が欲しいとソラトに言う。

 直視できず、形も朧げなものを、自分が唯一出来るシャープペンシルの黒一色でどのように表現すればいいのか。ソラトは苦心し、それでもひたすらに描き続けた。

 頭の中に思い浮かべた太陽――桜の花をやさしく照らす太陽、薄い雲の影に隠れた太陽、アスファルトを熱く燃やす太陽、その熱が衰え始め寂しげな太陽、吹き荒む地吹雪の中で薄れゆく太陽。自分が見てきた様々な太陽の姿を思い出し、重ね合わせ、画用紙に描いていく。

 シャープペンシルだって、芯を垂直に立てれば力強い線を、角を立てれば細く弱々しい線が描ける。芯を取り出して紙に擦り付ければ、淡い紋様を描く事も出来る。画材を持たないソラトにはこの道具しかなかった。この道具しかなかったからこそ、考え、工夫し、表現の幅を広げていった。

 何度も描き、何度も消して、描き直した。

 中学生時代に支給された消しゴムは、とうに小指の爪ほどの大きさになっている。消しカスを集め、玉にして、それを使って消した。消すたびに画用紙が黒ずみ、輪郭がぼやける。その虚な輪郭すらも絵画の一部となるように考えながら、ソラトは絵を描いた。


 学芸員の男から指示された期日までの間、バイトと食事と少しの睡眠以外、ソラトはずっと絵を描き続けた。

 睡眠不足で目は落ち窪み、頭はつねに霞がかっている。その霞の中には、常にぼんやりとした太陽の姿が浮かんでいる。


 それは肉体的には辛く、苦しい。


 しかし、心は晴れやかだった。


 嬉しくて、楽しくて、仕方がなかった。

 自分の描いた絵が他人に認められ、多くの人に鑑賞され、その中の何人かの心に深く刻まれる。

 他人との争いや競争を避け、唯一の自己表現を誰からも見向きもされない『絵』に求めてきたソラトにとって、それは初めての感覚だった。


 自分という存在が、この世界に認められたような気がした。



   *   *   * 



「ソラト、まだ描いてるの?」


 自室のドア越しに、母親が言う。


「うん、まだ納得できないところがあって、もう少し描いていたいんだ」


 ドアの向こうの母親にソラトは返す。


「そう、頑張って。でも無理はしないでね」


 母親は絵に傾倒しすぎるソラトを止めはしなかった。ただ息子の身体と――努力の先に口を開けているかもしれない『落とし穴』の存在を危惧していた。

 世の中はそんなに簡単ではない。それは母親が今まで生きてきた日々の中で得た教訓だ。人生はそこかしこに穴が開いていて、それを避けて通ることは不可能だ。母親はいくつもの穴に落ち、その度に心と身体をすり減らしてきた。

 弱りきった身体に残された寿命がそう長くないことも、母親は感じていた。

 だから心が臆病になっているのかもしれない、そう母親は思い直し、絵に全身全霊を注ぐ息子をただただ励ました。


 人が成功し、価値を得ていく過程というのは、階段状ではないのかもしれない。スロープのような緩やかな傾斜が道の途中に存在していて、それと気付かず上昇していく感覚なのだろうか。


 成功を経験したことのない母親にはよくわからなかった。


「すごい絵が描けそうなんだ! 展示会が開催されたら、母さんも一緒に観にいこう! それまでは、勝手に見ちゃだめだからね!」


 弾んだ声でソラトは言う。

 そんな無邪気な息子の声を聞いたのは、おそらく幼稚園の頃以来だろう。母親は胸の前で両手を握り、何かに祈るようなポーズをした。



   *   *   *



『絵画の歴史展〜ヒトからミューズへ〜』


 地方都市の外れに建てられた市立美術館は、小学校の頃に遠足か何かのイベントで行って以来だった。目の悪い母親の手を引いて、ソラトはバスを降りる。小高い丘の中腹に建てられたその美術館は、優しい緑に満たされている。


「緑が綺麗だよ」


 ソラトは母親に語りかける。


「そうね、ぼんやりだけど、空が緑に染まってる」


 仰ぎ見た母親の頬の上で、木漏れ日が踊っている。


 美術館の入館口には沢山の人々が吸い込まれていった。この人々全てが自分の絵を観て、そして何かしらの感想を抱くのだろう。そう思うと、ソラトは母の手を握る指先が震えた。


 美術館の奥の広々とした企画展展示スペースがパーテーションで仕切られ、いくつもの絵画が飾られていた。

 歴史の授業で習ったような偉大な芸術家のレプリカ、昔の画家の描いた作品、芸術専用AIである『ミューズ』が生み出した絵画。様々な絵が等間隔で並び、人間社会における芸術の歴史を濃縮したような空間だった。

 そのどれもが尊重され、そのどれもが美しい。

 ソラトは息が苦しくなった。

 今や誰からも見向きもされない絵を描くという活動だが、昔はその活動に命を燃やし、生涯を捧げていた人々が確かに存在したのだ。


 そしてその作品の中に、自分の描いたあの『太陽』の絵も飾られている。


 ソラトは喜びと感動とで頭がおかしくなりそうだった。


 近づけるギリギリまで絵画に近づき、目を凝らしてそれらを眺めている母親の手を引き、ソラトは先に進もうとする。

 この美しい舞台に立った自分の絵画を早く見たかった。

 母親に見せたかった。


 いくつもの絵を素通りし、足早に奥へと進む。


 パーティションの壁を抜けると、広々とした部屋。


 人だかりが、壁にかけられた絵画に足を止めていた。


 、巨大な太陽の絵。


 ソラトは立ち止まる。


 母親の手を握っていた右手が、力なく離される。


 ソラトの描いた黒い太陽は、ミューズが描いた鮮やかで鮮明な赤い太陽の横に、窮屈そうに貼られていた。

 人々の視線はソラトの絵を抜けて、巨大な赤い太陽に至る。そんな風に計算されて配置されている事は、素人であるソラトにもわかった。


『絵は進化しています。例えば人々には最も身近な光である太陽。その絵もヒトの手からAIに変わり、ここまで鮮やかに進化しました』


 そんな煽り文が赤い太陽の下に書かれている。


 来館者たちは黒い太陽を一瞥すると、ミューズの描いた赤い太陽を見上げ、感嘆の声を漏らす。

 誰一人、ソラトの太陽を眺め続ける者いない。


 それは古臭い人間が描いた、淘汰されるべき過去の絵だった。

 ミューズの描く赤い太陽を引き立てるための、小道具の一つに過ぎなかった。


 あの学芸員は、最初からミューズのお膳立てとして、ソラトに絵を依頼したのだろう。今の時代に絵を描ける人は少なく、その数少ない画家に頼むのは費用がかかる。それにこの展示のコンセプトを考えれば、引き受ける者など誰もいない。

 だからあの男は、河川敷で偶然見かけた、そこそこ見栄えのする絵を描ける、一人の少年に目をつけた。


「ソラト、どうしたの?」


 ソラトの手から力が抜けたことで、母親はソラトに尋ねる。しかし返事はない。荒い息遣いが、すぐそばで聞こえる。


「帰ろう、母さん」数十秒の沈黙の後、ソラトは震える声で呟く。「ここで展示は終わりみたいだ。俺の絵は、どうやら手違いで展示されなかったみたい。俺の絵は、ないんだよ。残念だけど仕方ない。帰ろう」


 そう言って強引に手を引こうとするソラトの手を、母親は振り解いた。


「母さん、帰ろう」


「ううん、まだこの絵を観ていないから。すごく綺麗な、太陽の絵」


「母さん……」


 ソラトの声は泣き声に変わっていた。

 母親までもがこのミューズの赤い太陽に見惚れてしまったら、ソラトはもはや立つ瀬がないような気がした。

 全てが崩れ去るような、そんな気がした。


 しかし、母親はミューズの描いた太陽を通り抜け、ソラトの描いた見窄らしい黒い太陽の前で止まる。


「この絵」


「その絵はただの落書きだよ……なんの価値もない……」


 ソラトは声を絞り出す。


「なんだろうね、この絵からすごく温かさを感じるのよ」


 母親はソラトの言葉を遮るように言う。

 自分で自分を傷つける言葉を、打ち消すように言う。


「よく見えないはずなのに、この絵だけは鮮やかに輝いてた。隣の絵も確かに綺麗なんだろうけど、違う。この絵からは、本物の太陽みたいな光を感じる」


 母親は微動だにせず、ソラトの描いた黒い太陽を見つめる。普段は弱々しい母親の背中がとても力強く、包み込むような温かさを感じた。


「母さん、俺は……」


 涙が溢れてきて、それを他人に見せまいと必死に袖で拭う。そんなソラトの様子を、母親は薄い視界の隅で気付く。いや,小さな頃から見てきた息子の気持ちなど、例え両目が潰れていたとて察することが出来るだろう。

 だから母親は、ソラトが今一番欲しい言葉も知っている。

 それは、絵の出来や、技術や、第三者の評価とは結びつかない。しかし今日までのソラトの全てを総括した言葉だ。


「よく頑張ったね、ソラト」


 その一言でソラトは崩れ落ちそうになる。

 描くことの苦しみ、孤独、全てがその一言で浄化された気がした。ぬかるみに溜まった泥水が、太陽の熱で温められ、綺麗な蒸気となり上っていくように。


 ソラトは自身の書いた黒い太陽の根底に、母親の姿を見た気がした。


「作品って、作者を通り抜けたその先にあるものだと、私は思うの」


 項垂れるソラトの肩に手をあてて、母親は言った。


「誰でもない、『あなた』の描いた絵を見たい――そう思ってくれる人が1人でもいれば、あなたの絵は価値を持つのよ」



   *   *   *



 あの展示会から数年が経つ。


 母親は翌年の夏に体調を崩し、呆気なく逝ってしまった。


 まだソラトは絵を描き続けている。

 命を賭してミューズへ感動を食わせる調査員――無価値者(ワースレス)という職につき、それで得た金で一応はまともな画材を手に入れる事が出来た。

 しかし、夢である『個展』を開くための資金にはまだまだ程遠い。


 自分の描いた絵を見たい。


 世界中のどこかに一人はいるかもしれない、自分の絵を見てくれる誰かを探すために、社会的に無価値な青年は今日も危険へと赴く。


「新しいバディか……」


 今までバディだった中年の男がワースレスを辞めたらしく、それに伴い新しいバディのマッチングが行われたらしい。

 予告のないその変更に、不満などない。

 ただ会社の指示に従うだけだ。


 しかし、電子メールに記された新しいバディの名には、不吉な噂がこびり付いていた。


 アオイ――ワースレスで数少ない『首狩り』をした女。


 薄暗い部屋で、ソラトは朧げに光る携帯端末をじっと眺めていた。



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