ミューズにとって最も希少価値の高い記憶とは何か。
それは、死の間際の記憶だ。
一人の人間に、死は一度しか訪れない。人が死の間際に何を見て何を思うのか、それは言葉を交わせぬ死者だけしか知らない。
その貴重な『記憶』は、手を加えなければ――南極の氷に閉じ込められた太古の空気のように、小さな気泡となって水面ではじけ、誰にも知られぬまま消えてしまう。
死の間際の記憶を機械で読み取る事は、今の科学技術をもってすれば不可能じゃない。しかし倫理的な問題や、残された者への配慮がハードルとなって、実現することは殆どない。
ただ、一つだけ例外がある。
俺達、無価値者(ワースレス)の保有する記憶だ。
ワースレスの命は真っ白な羽毛のように軽い。社会的に価値のない人間の集まりなのだから、倫理の盾は持ち合わせていないし、その死を憂うものも存在しない。
そして、危険地帯に赴き、勝手に死んでいく。
鴨がネギを背負って、勝手にやってくるようなものだ。
ワースレスに支給されるバックパックには、冷凍保管機能が搭載されている。死んだ人間の頭部を切断し、5分以内に適切な処置してバックパックに突っ込めば、記憶を抽出できる状態のまま24時間保管する事が可能だ。
そして、死んだバディの頭部を会社に持ち帰ったワースレスには、特別な報酬が支給されるらしい。
『ワースレスは首だけになって帰ってくる』
『ワースレスの背負う大きなバッグの中には生首が入っている』
しかしそうは言っても、俺達は訓練された兵士でも、血に鈍感なサイコパスでもない。
高額な報酬が得られるとはいえ、さっきまで行動を共にしていた人間の生首を持ち帰れるような、頭のイカれた奴などほとんどいない。
いない、はずだったのに。
少し前に、このエリアで唯一『首狩り』を実行したワースレスが現れたと、界隈で話題となった。
それがアオイ――俺に充てがわれた新しいバディ。
一体、どんなバケモノみたいな女なんだ……?
* * *
正直、会いたくなかった。
会いたくなかったが、これからバディを組まなければならない相手だ。命を預ける場面だってあるだろう。多少は親睦を深め、どんな人間か見定めないことには、冷静に調査に取り組めない。
俺は近所のファミレスで配膳機械にコーヒーを注文し、運ばれてきたそれで唇と口腔を湿らせた。そうしないと口の中がカピカピに乾いて、舌が上顎に張り付きそうだ。
アオイという首狩り女と待ち合わせている。
会社から伝えられた情報では、歳は俺と同じらしいが、ワースレスとしては1年先輩にあたるらしい。
顔写真のデータも添付されていたが、子供の頃の写真を使い回しているからか、中学生くらいの陰気な目をした女の子が写っているだけで、なんの参考にもなりはしない。
あの写真の子供も、成長したら平気で人の首をかっ切れる鬼婆みたいな女に変わるのだ。
時の流れとは無情である……。
そんな事を考えていると、待ち合わせの時間になった。
自動ドアが開き小さな影が店内に入る。
はぁ?
俺は口を開けてその人物を眺めた。
それは添付されていた写真と全く同じ、陰気そうな目をした中学生くらいの女の子だった。女の子はあたりを見回し、俺と目が合うと、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
おかっぱみたいな短い黒髪は、寝癖なのかわざとなのか所々はねている。薄紫のパーカーを着ているが、サイズが大きすぎるのか首元がだらしなく開いていた。
俺が座るテーブルまで来ると、ポケットに突っ込んでいた手を頭に持っていき、後頭部をガリガリと掻く。その手は小さく、腕は枯れ枝みたいに細い。
訝しげな視線を向ける女の子に、俺は恐る恐る名乗る。
「あの、俺、ソラトです」
「知っているよ」
声変わり前みたいな、妙に甲高い声。
「あの、アオイさん、ですか?」
「うん、そうだけど」
「は、はあ」
全く予想してなかった容貌だった。
首狩りの噂から推察する彼女は、長身で筋骨隆々、目はナイフのようにギラギラと尖っていて、頬には十字傷くらいありそうな、そんなアウトローな姿だった。
しかし目の前の彼女は小柄で華奢、しかし目は陰気でどんより濁っていて、子供みたいなツヤツヤの頬をしている。まるで、教室の隅っこで怪しげな本を読んでそうな奴だ。
なんというか――
「なんか君、弱そうだね」
それは俺が思っていた言葉だったのに、先に言われてしまった。
唖然とする俺の事など意に介さず、アオイは対面の椅子に腰掛けると、配膳機械を停止させて注文を入力した。
「はじめまして」
今度こそ会話の主導権を取られまいと、俺は先んじてとりあえずの挨拶を繰り出す。
「うん、はじめまして。私、このファミレス来た事ないんだよね。なんかいい感じの店だね。適度に雑な感じとかさ。あ、適当にミックスフライプレートを頼んじゃったけど、オススメとかあった?」
まずは様子見として、挨拶だけ返されると想定していたが、10倍近い文量で返されてしまった。
「いや、特にオススメは、なくて」
「ふーん」
そこでお冷が運ばれてくる。それを一気に半分ほど飲むと、頬杖をついて俺の顔をジロジロと見る。
「ソラト、くん。資料は読んだけどさ、君、大した調査してないよね? まあ、私の方が先輩だから、何でも聞くといいよ」
そう言って大袈裟に胸を張る。しかし、その胸部は明らかにぺったんこだった。
「いや、そうだけども」
確かにワースレスとしての歴は彼女の方が長いけど……とは言えこんな露骨な上から目線は、なんだか妙に気に障る。
バディである以上、余程の経験の差がない限り、明確な上下関係は不要だと俺は考えている。上下関係があれば、考え方は自ずと片方に寄ってしまう。それじゃ二人だって一人と変わらない。多様性が失われる。
――と、そんな建前的な苛立ちが半分。でももう半分は、年下の子供に生意気言われてるような、理不尽さを含んだ苛立ちだった。
しかし大人な俺は、言い返そうとした言葉を無理やり飲み込む。そして目の前の女の姿をマジマジと眺めた。だらしない髪型で陰気そうな目をしているが、顔立ちは整っている。まるで精巧な人形のようだ。
こんな女が、本当に死んだバディの首を切り取って、持ち帰ったのだろうか? 報酬という、私利私欲のために……
「ねえソラト、私に確認したい事、あるでしょ?」
アオイが唐突に尋ねる?
俺はドキリとして咄嗟に目を逸らした。そして再びゆっくりと彼女に視線を戻す。
アオイは目を細め、口の端を吊り上げて、嘲るような顔で俺を見ていた。全てを見透かすような、恐ろしい目だ。俺は目を逸らせず、手探りでコーヒーを掴み、恐怖を飲み込むように黒い液体を胃へと落とした。
「ほら、あの噂とか」
「うわさ?」
「首狩りの事」アオイはイタズラっぽい笑みを浮かべながら、今夜の献立でも話すように平然と曰う「疑ってるっぽいけど、確かにやったよ。死んだバディの頭を持ち帰った」
「マジで?」
「うん、マジで」
「あ……そう」
俺は夕食の献立が嫌いなピーマンだった時みたいな、興味ない様子を装うしかなかった。俺の懸念は簡単に肯定されてしまった。
あの噂が本当ならば、彼女はきっとバディを利益のあるなしでしか判断しない、サイコパスに違いない。
ミックスフライプレートが運ばれてくる。相変わらず、料理の提供までの時間がべらぼうに短い。味と単価を抑えている代わりに、回転率で利益を得ている雑な店だ。
アオイは「おお美味しそう、いただきまーす」と言って、大きなエビフライを咥え込んだ。
パリパリ、ボリボリと軽快な音がする。
「ソラトの事も聞かせてよ」
音がしそうなほど大袈裟な動作で飲み込んだ後、アオイはエビフライの尻尾をフォークの先で玩びながら言う。
「これからバディとしてやっていくんだから、相方の情報は正確に知っとかないと、でしょ?」
そう言って、フォークの先を俺の方に向けた。
取って喰われるような恐怖を覚える。
「ああ、そうだな」
湧き起こる不安に気押されまいと、俺はゆっくりコーヒーカップを持ち上げ、唇にあてた。
そこで、もうカップには何も入っていない事に気付く。