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第12話:アオイと終の記憶②

 しくじった。


 体重をかけた瞬間に足元が崩れ、俺は急な斜面を転がり落ちていった。


 転がる勢いのまま鋭い岩へと打ちつけられた脛骨が、軋みをあげながらおかしな方向へとへし曲がる。赤熱した鉄の棒を突き刺したような痛みが、右足を襲った。


 土手の途中に生えていた樹木にぶつかり、かろうじて止まる。仰向けのまま、口の中に入り込んだ泥を吐き出した。


 痛みに目を細めながら空を仰ぎ見る。不自然なほどの青が目の前に広がっていた。



   *   *   *



 アオイとバディを組んで最初の依頼は、ファミレスでの一件から一週間後となった。


 調査対象はとある山岳地帯に生息する、美しい鳴き声の野鳥。繁殖期になると複数の雄がつがいとなる雌を求めて歌い出す。その音は一種類の楽器(こえ)でありながら、複雑に重なり合うことで荘厳なオーケストラの様な響きを生む。


 難易度的には大した事ない。

 駆け出しのワースレスが引き受けるような、危険も少なければ旨味も少ない、そんな調査のはずだった。


 しかし俺には別の懸念がある。


 俺の少し後ろを、「報酬が少ない」とか「眠い」とか「お腹空いた」とか、ブツブツ文句を言いながら着いて来るこのアオイという女の存在が、俺にとっては未知の恐怖であり障害だった。


 バディの首を持ち帰った女。


 死体であるとはいえ、知り合いの首を切断する事に対して、普通であれば抵抗感をもって然るべきだ。死んだバディを目の前にして、的確に頚椎の継ぎ目を切断し、動脈から緩衝液(バッファー)を流し込み、保管袋に入れてバックパックに収納する。そんな動作を冷静沈着に行える人間など、人の心を持たないとしか思えない。


 もしかしたら今この瞬間も、俺を崖へと突き落とすタイミングを見計らっているのかもしれない。

 突き落として俺を殺し、その頭を切断しようとしているのかもしれない。


 人の命と比較すれば、僅かばかりの報酬のために。


 そんな事を考え、後ろばかりを気にしながら歩いていた結果、俺は足を踏み外して土手を転がり落ちる事となる。



   *   *   * 



 冷静な状態だったら絶対にやらないミスだ。そんな言い訳を自分自身に述べてみたところで、事態が好転する訳ではない。

 とにかく痛い。

 へし曲がった足が痛過ぎて、意識が朦朧としてくる。

 こんな状態で歩けるわけがないが、だからと言ってここに留まり続ければ、やがて乾いて死んでしまうだろう。


 俺は仰向けに、土手の上を見た。

 アオイが慎重に土手を滑り降りてくるところだった。


 助け……を求めるべきなのか?


 バディの首を切り落とした女。

 そんなやつを信用できるのか?


 わからない! 痛みが思考の邪魔をする!


「なにやってんの」


 俺のそばまで降りてきたアオイが長い溜息を吐いた。


「うわぁ、足が変な方向に曲がってるよ。これじゃ歩けないよね」アオイは斜面にバックパックを下ろして、中から医療キットを取り出す。「ほら、気休めだけど痛み止め打ってやるから」


 アオイの手に注射器。

 そのシリンジに入っている液体は、本当に痛み止めなのか? 俺を自然死に見せかけて殺す、毒薬のような物に入れ替えられているんじゃないか?


 ちくしょう! 痛くてたまらない!


 痛みの津波に乗って、死の恐怖が防波堤を超えて押し寄せて来る!


「ほら、足だして――」


 アオイが右手を差し出す。


「触るな!」


 俺は叫んでいた。

 叫んだ後に、怪訝そうなアオイの表情を見て『しまった』と嘆く。俺に怪しまれていると勘づかれれば、次は強硬手段に切り替えてくるかもしれない。

 俺は今、戦うことも逃げることも出来ない。襲い掛かられたらひとたまりも無い。


「いや、痛いんだよ。触られると痛いから、自分でやる」


 俺の奥歯がガチガチと鳴った。

 痛みと、恐れ。

 バックパックを下ろして、震える手で自分の医療キットを取り出した。少し動くだけでも、足が捩じ切れるように痛い。太ももの辺りに注射針を突き刺し、プランジャを押す。徐々に痛みが和らいでいき、思考が少しだけクリアになる。


「さて、どうしよう」アオイは辺りを見回し、デバイスに視線を落とす。「ここデバイスが繋がらないんだよね。私、もう一回この土手を登って、レスキューを呼べるところ探してくるよ」


「ああ、わかった」


 期待してはいない。

 ただ、今すぐ殺されて首を刈られるよりも、ここから逃げ出すための時間的な猶予が必要だった。


 これ以上この女と一緒にいたら、俺の精神も肉体も殺されてしまう。


 俺は恐る恐る、アオイの表情を伺う。

 彼女は唇を固く結び、ガラス玉みたいに透き通る目で俺を見下ろしていた。その表情からは、何の感情も読み取ることが出来ない。


 それなのに、俺は悲しくなった。

 なぜなのかはわからない。きっと、痛みや不安が生み出した、感情のノイズに違いない。


「ここで大人しく待っててね」


「ああ……」


「……ちゃんと、待ってるんだよ」


 アオイが土手を登っていく。


 俺はその背中が見えなくなると、一息ついて上半身を起こした。

 現在は土手のやや下側にいて、50メートルほど下れば雑木林が広がっている。身を隠しながらこの場所を離れるには、あの雑然とした林に紛れるしかない。

 折れてない足で速度を調整しながら、慎重に土手を滑り降りた。乾いた土塊の凸凹した感覚が背中に伝わる。


 雑木林に入り込むと、背の低い樹木が生い茂った場所を選んで這った。手のひらや膝に突き刺さる小枝が鈍い痛みを放つが、薬を打ってもなお折れた右足にこびり付くこの痛みに比べれば、大したことはない。


 進みながら、俺は考える。


 新しくあてがわれた、アオイというバディの事を。


 確かに得体が知れない女だと思う。子供のような無邪気さを見せる癖に、時々全てを飲み込む大海のような透き通った目を見せる。

 しかしあれが、心の無い人間の目だろうか? バディの首を安易に切り落とせる人間の目だろうか?


 わからない。


 アオイという女の実態と、彼女に貼られた『首狩り』のレッテル。その重なり合わない2つに違和感を覚えながらも、俺は雑木林の中を這った。


 どのくらい進んだだろうか。


 俺は苔生した巨木の幹に背中をもたれさせ、バックパックから水筒を取り出して水を一口飲んだ。

 頭の上で、よくわからない鳥がガヤガヤと鳴いている。目当ての野鳥に出会うことは出来なかったが、今となってはそんな事どうでもいい。簡単なものと捉えていたこの調査で、まさか折れた足を引きずって這い回る事になるとは思わなかった。


 このまま林を抜け、デバイスの通じるところで救助を呼び、身を隠す。無事に戻れたら、会社にバディ変更の申請をしよう。

 自分にアオイとのバディは荷が重すぎる。頭のいかれた粗暴なワースレスの方が、首狩りの彼女と上手くやれるんじゃなかろうか。


 水筒をバックパックにしまい、再び地面に掌をつけた。


 背後で木の葉がガサガサと鳴る。


 野鳥が飛び立ったのだろうか。


「――あそこで待ってって、言ったよね」


 その声は、鳥の鳴き声よりも、風の音に似ていた。


 俺は振り返る。


 アオイが立っていた。


「あ、あの……」


「めっちゃ探したんですけど」


 そう吐き捨てたアオイは、腰に下げたサバイバルナイフを抜き取る。その刀身は、薄暗い雑木林の中で黒く滑(ぬめ)っている。


 俺は言葉も発せず、その鋭い先端を眺めていた。


 アオイがナイフを振り上げた。


 これが振り下ろされたら、きっと俺は死ぬ。


 反射的に目を瞑る。


 硬いものと硬いものがぶつかる音。


 痛みはない。

 何の感触もない。


 俺はゆっくりと目を開けた。

 振り下ろされたナイフの先端は、俺の左手側の地面に突き刺さっていた。そのナイフを支点にして、紐状のものがのたうち回っている。


 ヘビだ。


「これ、弱いけど毒持ってるやつじゃん。自分で気付いて対処しなきゃ。鈍臭いなぁ」


 アオイはヘビをナイフから抜き取り、マジマジと眺めた後、興味なさ気に茂みの中へと放り投げた。


 俺は全身の力が抜け、身体を起こす事も出来なくなっていた。

 さっきのナイフの一振りで、俺の緊張の糸は完全に切断されてしまった。恐怖とか、不安とか、そういう刺々しい感情も、真っ二つに切り裂かれて死んでしまった。


「ほら、こんな所に居ても、救助の人に気付いてもらえないよ。もっと開けた所に移ろう」


 そう言って、力の抜けた俺の右手を掴む。


「な、なに?」


 その一言だけが辛うじて口から溢れる。


「何って、おんぶしてあげるよ。そんなカメみたいに這いつくばって歩いてたら、夜になっちゃうよ。この辺りは、ムツキも生息しているみたいだし」


 俺は言われるがまま上体を起こすと、片足だけで立ち上がる。アオイは自分のバックパックから必要なものを取り出すと、俺のに無理やり突っ込んだ。


「曰く付きのやつだけど、これでさよならか……」


 そう呟いて、自分のバックパックを巨木の幹へと丁寧に置く。まるで長年連れ添った愛犬を埋葬するかのように。

 そして、俺の方に向き直った。


「ほら、早く乗って」


 小さな背中だ。俺は恐る恐る、彼女の背中に身体を預けた。布地を通して感じた彼女の皮膚は熱く、荒い息を繰り返している事に気付いた。まるで何かを探して、ついさっきまで全力で走り回っていたような息の切れ方だった

 首の後ろで2つに結った髪の間、白い頸から泥と汗の匂いが上がってくる。何となく、心地よい匂いだ。


「あ! ちゃんと掴まってくれるのはいいんだけど、胸触ったら殺すよ!」


「え、でもそんなの、ない……」


「はあ!?」


 デリカシーってもんがないのかよこの男は……そんな悪態をつきながら、ゆっくりと進む。

 俺が這って歩くのと大差ないんじゃないか? と思いながらも、全身の力が抜け切ってしまった俺は、その心許ない揺れに身体を預けた。


 首狩の女、アオイ。


 その言葉だけが俺の中で膨張し、その目を濁らせていたのだろうか。


 真実はわからないけど、少なくとも今の彼女からは、年相応の情緒が湧き出ている気がした。感情のないサイコパスになど、到底見えない。


「あのさ、一つ聞いてもいい?」


「なに!? 背負って歩きながら話すのしんどいんだけど!?」


「なら、開けたところで下ろしてからでいい」


「はあ、なんかさ、前回に続いて、今回も、男を背負って、歩かなきゃ、ならないなんて!」振動と振動の合間をめがけて、アオイは小さく区切った言葉を放り投げる。「私は、か弱い、女なんですけど!?」


「悪い……」


「おごれ!!」


「はい?」


「帰ったら、この前の、ファミレスで、パフェ奢れ!!」


「うん……」


 俺は、彼女の起こす揺れに、不本意ながら安らぎを感じ始めていた。

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