「お、ソラトくん」
アオイと二人、いつものファミレスを出たところで呼び止められた。
声のした方に視線を送ると、背の高い無精髭の男と、派手な模様のスウェットを着た若い女が立っている。203号室のカメさんと、その彼女だ。
アパート近くのファミレスなのだから、こんなふうに知人と顔を合わせる可能性だってないわけじゃない。ただ、ワースレスである自分と、アパートの住人の一人である自分という、今まで交わらなかった2つの人間関係が交差してしまったこの状況に、なんとも言えない居心地の悪さを感いていた。
「へぇー、ソラっち彼女いたんだ。やるぅ」
カメさんの彼女がニヤニヤしながらアオイを見ている。
「あ、いや、そんなんじゃ……」
お約束的展開だが、その勘違いは満更でもない。しかし横目で観たアオイの顔に不信感がベッタリと塗りたくられていたため、慌てて過剰なまでに首を振る。
「違います! ほらあの……俺のバディです」
通行人もいる街中で、自分たちが無価値者(ワースレス)である事を名乗るのも気が引けた。自分だけならまだしも、隣にはアオイもいる。カメさん達はその一言でわかってくれたようで、小さく何度も頷く。
「え、そうなの? ソラっちの話から発情期のゴリラみたいなやつを想像してたのに、まだほんの子供じゃん」
「私、子供じゃないけど」
「アオイは俺と同い年ですよ!」
俺はアオイとカメさんの彼女を交互に見比べながら必死にあいだを取り持とうとする。
歯に衣着せない発言をするカメさんの彼女と、気に入らない事があるとすぐ不機嫌になるアオイ。この二人の相性はおそらく納豆とコーラくらいには最悪だ。
「あ、じゃあアタシの方がちょっと年下じゃん。スイマセン、お姉さん!」
「は、はぁ……」
やばい、アオイがイライラしはじめている。
さすがに後ろに回り込んで締め落とす――なんて事はしないだろうけど、早くこの場を切り上げないと面倒臭い争いが勃発するに違いない!
「そうか、だったら大人には大人の付き合いというものがあるよね……」
今まで二人のやりとりを傍観していたカメさんが口を開く。俺は嫌な予感がした。
「面白い酒買ってきたから、とりあえず一緒に飲もうか」
予想通りの展開に、俺は反論する気力も起きなかった。
* * *
「そしたらソラトのやつ、ビビってバックパック頭に被りながら『もうムツキいないよね?』って何度も聴いてくるの!」
「あはは、ソラっち弱すぎ!」
もう、その話は3回目だ。俺の過去の失態を真似しながら、アオイはケラケラと笑う。それを見たカメさんの彼女も両手を叩いて笑う。
なんて不毛な飲み会なんだ。
カメさんの住む203号室に連れて来られた俺達は、小さなローテーブルを囲んで乾杯することになった。テーブルの上にはカメさんが見つけてきた珍しいウイスキーと炭酸水、そして適当なつまみが並べられている。
最初はソワソワしながら酒を舐めていたアオイだったが、30分もするとバカみたいに上機嫌になって、俺の恥ずかしい過去を有る事無い事並べ立て始めた。
まだコップの半分も飲んでいないってのに、こんなに酒が弱かったのか。調査の時はアルコールを持参していないのだから、わかるはずもない。
「『あおいぃいい、たすけてぇええ〜』」
「ぎゃははははははは!」
もう勘弁してくれ。
俺はカメさんちの冷蔵庫から氷をコップ一杯にぶっ込んで、その辺に転がっていた米焼酎を注ぎ込む。米の香りが芳しい。
「いやあ、酒っていいよね」
壁にもたれて座る俺の隣に、女子二人を傍観していたカメさんがやって来た。
「いや、こんなに酒ぐせが悪いとは思わなかったですよ」
「アオイちゃん、プライベートで会ったりはしないの?」
「そりゃ、仕事の付き合いなんで」
「かわいい子じゃん、ソラトくんのタイプでしょ?」
「……なんでそう思うんすか?」
「僕は色んな人間を見てるからね。その人の趣味嗜好くらい、なんとなくわかるの」
「仮にそうだとしても、どうにもならないっすよ。あいつ、婚約者いるんで」
「へぇ、じゃあ『永遠の片想い』って感じか。いいねぇ、美しいよ」
「どうとでも思ってください。それは、個人の自由なんで」
俺が不貞腐れてそう返すと、カメさんは心底嬉しそうに笑った。少し離れたところでは、女子2人がまだバカ笑いを続けている。
「だから、僕は酒が好きなんだよなぁ」カメさんはグラスに浮いた氷を見ながら呟く。「今じゃ世の中には『与えるために作られた物語』しか存在していないだろ? 小説だろうと、映画だろうと、漫画だろうと……、誰もが自分の物語を語ろうとしない。それを語るという行為自体が、さも無価値な事みたいに扱われてる」
カメさんはウイスキーで喉を潤した。
俺はよくわからないままコクコク頷く。
「僕はもっと『その人の物語』を聞きたいんだよ。混じり気のない、生の感情であり、瑞々しい思い出話さ。誰もがそれを軽視し、口を噤む事が美徳とされてるこの世界で、酒だけが唯一、その人の物語を引き出してくれる」
「たいそうな話ですね」
「大袈裟かも知れないけど、真理だろ? 現にあの2人は、楽しそうに笑ってる」
カメさんはアオイと彼女さんを顎で示す。
「君たちワースレスのやってる事って、最も『それ』に近いのかも知れないね。自分の物語(おもいで)を、他者へと解き放つという、その行為がさ」
俺の手の中、コップの氷が頷くように小さく鳴った。
「無価値者だなんて散々な言われ方をされているけど、もしかしたら君たちは、この世界で唯一生き残った『芸術家』って人種なのかも知れないな……」
* * *
「ソラトの部屋……行きたいな」
唐突な飲み会もお開きとなり、カメさんの部屋を出ると、ふらふらのアオイがそう呟いた。
廊下を照らす照度の落ちた明かりの中で、アオイの頬は上気し、目は潤んでいた。それは全て酒のせいで、それ以外の如何なる感情も含まれていない事はちゃんと理解している。
しかし理解と感情が常にリンクするとは限らない。カメさんの言葉じゃないが、酒の力によって脳は勝手に『自分の物語』を紡ぎ出そうとする。
「え、なんで?」
「……みたいから」
「だから、何を……?」
「ソラトの、絵」
「ああ」
俺は自分の中で膨らみ始めていた淡い物語に、ピリオドを打つ。
「散らかってるし、汚いけど」
「いいよ、別に」
フラフラ左右に揺れるアオイに苦笑いして、俺は部屋の鍵を開けドアノブを回した。
ドアの隙間から流れ出てくる絵の具の匂い。普段は全く気にならない匂いだが、そこに他人を招き入れるとなると、なかなか無礼な代物のように感じた。
「なんの匂い? 油?」
「絵の具の匂いだよ。悪いね、嗅ぎ慣れない匂いで嫌だろ?」
「ううん、結構好きな匂いかも」
照明をつける。
レイアウト中央のLDKは、手前半分が生活スペース、奥半分はイーゼルが置かれ、キャンバスがかけられている。
あらためて見ると、なんと殺風景な部屋だろう。俺はこんな町外れのゴミ捨て場みたいな部屋へアオイを招き入れてしまった事を、少しだけ後悔し始めていた。
しかしアオイは、そんな部屋の見てくれになんて興味がない様子で、フラフラと描きかけのキャンバスの前に立った。
「これ、もしかしてこの前の『蝶の鱗雲』?」
「そう」
「へぇ……」
溜め息のようにそう返して、アオイは黙った。
潤んだ大きな瞳は、俺の心を映す鏡へと向けられている。俺は自分の内面を覗き込まれているような、喜びとも恥ずかしさともつかない不思議な感覚だった。
「あの景色、ソラトにはこう見えてたんだね」
「うん、記憶の中の景色だけど」
「私には青一色にしか見えなかったけど、ソラトの絵にはところどころ赤や黄色が混じってる」
「朝日の反射が、そんなふうに見えたんだ」
「すごいね」
アオイは絵に向けていた大きな目をこちらに向けた。俺の絵が映り込み、飲み込まれそうなほどの深い青が彼女の瞳の中で波打つ。
「ほんとに、すごいよ。魔法みたいだ」
俺は口を開けた。
『ありがとう』の『あ』が出る前に、言葉が固まり喉で詰まる。言葉よりも体が、彼女の温もりを求めていた。
肩を抱いてしまえば、きっと俺は殺されるだろう。ならば、手を握るだけなら許されるだろうか? 指先が触れ合うだけならどうだ?
今のこの精神状態はきっと酒のせいだ。
でも、そんな夢物語を想像せずにはいられない。
外の世界にしか存在しなかったアオイが、いま俺の内側の世界に存在してる。少しだけ勇気を出せば、このまま俺の中に閉じ込めてしまう事だって、出来るんじゃないか?
「あ、あの……」
「なんだい! 帰ってたんらな顔ぐらい出しな!」
唐突に、玄関の方から響く野太い声。
見ると205号室のおばちゃんが、玄関のところで仁王立ちしていた。
鍵は……かけ忘れていたかも知れない。
「今日は煮物渡すから、取りに来いって言ってたろ!? ちゃんと来ないとなくなっちまうよ!! あ? なんだいそのお嬢ちゃん、えらく小ちゃい子だねぇ? もっと食べないと!! 最近の子はダイエットだなんだって見窄らしいったりゃありゃしないよ! その子にも煮物持ってきてやるから、ちょっと待ってな!!」
ひとしきりガヤガヤと叫んだ後、おばちゃんは勢いよくドアを閉めて、走り去っていった。
残された俺たちは、唖然としたまま誰もいなくなった玄関を眺める。
「誰?あれ。頭ピンク色だったけど、何処かの部族の人?」
アオイが問う。
「いや、普通に隣の部屋の世話焼きおばちゃん」
俺は答える。
「ただの世話焼きおばちゃんにしては、キャラが濃すぎるでしょ」
「異論はない。でも、親切で煮物は美味いんだ」
「はあ」
アオイは、はあと言う。
はあ、しか答えようがないよなと、自分でも思う。
「なんか、すごいところに住んでるんだね、笑える」
そう言ってアオイはケラケラと笑った。
肩の力が抜けた俺は、安堵とも落胆とも取れるよくわからない感情が込み上げてきて――その圧を抜くように、下手くそな笑い声を上げた。
* * *
その日の深夜。
カメさんと呼ばれるフリーの報道カメラマンは、寝息を立てる恋人を起こさないように起き上がると、床に放り投げていたTシャツと短パンを着てベランダに出た。
そしてタバコに火をつけ、肺の奥まで煙を吸い込む。
あのアオイと言う女性に、どこかで見覚えがあった。
今日はじめて会ったはずなのだが、ソラトの隣でこちらを訝しむその顔を見た時から、妙な違和感がずっと頭の片隅に引っかかっていた。
気のせいかも知れない。
でも、そうじゃないとしたら――何か不穏なものが、その記憶には張り付いているような気がした。
ベランダから見る夜の闇は深い。
一歩足を踏み出してしまえば、そのまま闇の中へと消えてしまいそうなほどに。