これはきっと慰安旅行なのだ。
ワースレスの調査は危険なものが9割だ。
ムツキに襲われそうになったのも一度や二度じゃないし、土手を転げ落ちたり、ハチに追いかけられたり、怪しげな奴らに拘束されたりもしょっちゅうだ。
だから、極々稀に訪れる生ぬるい調査依頼を、俺は普段頑張っている自分に神が与えた慰安旅行なのだと思う事にしている。
そうしないと、普段の殺伐とした雰囲気とのギャップで、「こ、こんな事していていいのか?」という言いようもない不安感が襲ってくるのだ。
『調査対象:ハナペンギンの住む島』
「か、かわちい……」
猛獣ムツキにガンを飛ばし、気に食わない奴の頭に銃口を突きつける系女子のアオイが、目尻と口角がくっつきそうな笑みを浮かべ、何度も何度も呟いている。
今回の調査内容は、南の孤島『フォルツァン島』の固有種『ハナペンギン』の観察だ。
通常のペンギンより丸みを帯びたフォルムで、頭部に桃色の冠羽が花開いている。空を飛べず、海も泳げないこの鳥は、普段は地面に穴を掘って外敵である猛禽から身を守っている。しかし年に一度、地上に這い出して集団で交尾を行う。その時期になると、島はハナペンギンの桃色の花で埋め尽くされる。
この記憶や感動が、どのようなものとしてアウトプットされるのか想像出来ない。女児向けの可愛らしいキャラクターを創造するデータとして、使用されるのだろうか?
かわいいものが嫌いなわけではないが、残念ながら俺にとってそこまで強い感動はない。
アオイの方はどうかというと、柔らかな土の上にうつ伏せになり、ハナペンギンの親子と目線を合わせて、両足をバタバタさせている。
「あー、もう、かわちい」
またよくわからない呪文を唱える。
アオイがここまで可愛いものに目がないとは、普段の様子からは想像も出来なかった。
「こういうの、好きなんだ?」
「うん、大好き。え、なに? 意外?」
「鳥類は食料としか見てないと思ってた」
「はぁ? んなわけないじゃん。私、こういう小さくてまるっこいのが大好きなの」
「この前、血を吸って丸っこくなったヒルを踏み潰してたじゃん」
「あのさぁ……、え? 本気で言ってる?」
「いや、ごめん。ちょっとからかった」
俺は苦笑いを浮かべて自分のテントへと向かう。今日はこの島で一夜を過ごし、翌朝の船で帰る予定だった。
ムツキもいないし、無人島なので人も住んでいない。雨が降ったらちょっとやだな、くらいの懸念しか存在しない今回の調査は、アオイと二人でレジャーキャンプを楽しんでいるようなものだ。
俺はバーナーでお湯を沸かしてインスタントコーヒーを淹れる。拠点はハナペンギンの巣穴からは少し離れたところに構えた。
生物系の調査の場合、生息環境に影響がないよう行動することが義務づけられている。適性検査と2日間の講習を受講しなければ、依頼を受けることすら出来ない。生態系に対し意図的に悪影響を与えるような、粗暴なワースレスを排除するための仕組みだ。
アオイへコーヒーを持って行ってやろうと思ったが、ハナペンギンへの悪影響を考えて、やめた。
遠くに見える彼女は、まだうつ伏せのまま、両足をバタバタさせている。
* * *
調査時の食事は質素なものが多い。
保存性や携帯性が高く、簡単に食べられて、栄養価が高いものを各々で選定している。俺はチョコバーやクラッカー、サラミソーセージなんかがお気に入りだ。
ただ今回は、いつものように山の中を歩き回るわけじゃない。そのためちょっとした手間や贅沢を満喫しようと、野菜類や調理器具を持参していた。
「うわっ、やけにバックパックが膨らんでると思ったら、人参、ジャガイモ、玉ねぎ?」
大きな鍋の中に、根菜を詰め込んでいた。
「カレーを作ろうと思ってね」
流石に生肉は持参できなかったため、代替で常温保管が可能な魚肉ソーセージを持ってきた。母さんが作ってくれたカレーは、いつも肉ではなくソーセージだったよな、なんて昔を懐かしむ感情が湧き起こる。
ナイフで野菜とソーセージを切って鍋で軽く炒め、水筒に入った水を注いで蓋をする。しばらく煮込んだら火を止め、カレールーを割り入れる。
馬鹿みたいにシンプルな、なんの変哲もない家庭のカレーが完成した。
「調査でカレーを食べるなんて初めて」アオイはパンをカレーに浸し、口へと運ぶ。「ん! うまい!」
「普通のカレーのはずなのに、異常な美味さだな」
「いつもなら、もっぱら『栄養補給』って感じの食事だからね。なんかヘンな感じ」
「その非日常感がスパイスなんだろうな」
日が沈み始めた。
つがいを見つけ交尾を終えたハナペンギンは、再び巣穴へと帰っていく。メスは巣穴の中に卵を産み、単身で雛達を育てる。
巣穴に戻る前に、メス達は甲高い声で数回鳴く。
それは、動物行動学的には交尾の成功を群れ全体に共有するためと言われているが、センチメンタルを好む人間という生き物には、逢瀬を交わした相手との別れを嘆く声のようにも聴こえる。
「寂しそうだね」
アオイがボソリといった。
俺はスプーンを止めてアオイを見る。そして、彼女にとって『愛する者との別離』が、単なる鳥類の生態以上の意味を持つ事に思い至った。
彼女が婚約者を想う度に、俺は確かな胸の痛みを覚える。しかし、彼女が見せるこの哀しげな表情は、それ以上に俺の胸を痛めつけた。
「なあ、聞いていい?」
「なに?」
ハナペンギンの鳴き声がする方を見つめながら、アオイは返す。
「アオイの婚約者の事、もっと聞かせてくれよ。どんな人なんだ?」
胸の内に秘めた思い出は、言葉にする事で強固になる。
最愛の母を喪(うしな)ってから数年は、言葉の持つ力を実感しながら命を繋いできた。作業机の隅に飾った母の写真に語りかける度、すぐそばに母が存在しているような錯覚にまどろむ事が出来た。
だからソラトは、アオイに問う。
「どんな人……かぁ」
アオイはその視線をハナペンギンから俺へと移した。半開きの大きな目が熱っぽくとろける。
「イケメン?」
「うん、イケメン。背も高くて、頭が良くて、優しいの」
「完璧超人じゃん」
「すごいでしょ」
アオイは笑う。
屈託のない笑顔だ。
俺はアオイにそんな表情をさせる事は出来ない。俺の知るアオイはいつも憎まれ口を叩き、どこか満ち足りない笑みを浮かべている。
彼女の中にある、『婚約者』とやらの強大さを知る。
そして、そこまで無遠慮に彼女の中に居座っておきながら、数年ものあいだ彼女をほったらかしにしているそいつの不誠実さにイライラが募った。
「他になんかないの? 思い出話とかさ」
しかし今の俺は、アオイの寂しさを癒すために、不本意ながらもその婚約者の力を借りるしかない。
自分の無力さが情けなかった。
「え、どしたの? 今日はなんかグイグイくるね」
「会いたい人の事を言葉にすることで、寂しさってちょっとは和らぐと思うんだよ。アオイ、俺以外にそういう話できる相手、いなそうじゃん」
「うっさいなあ。まぁ、うん、いないけど……」
揺れる焚き火に照らされ、恥ずかしそうに俯くアオイがかわいらしく見えた。
「だから聞かせてよ」
「仕方ないなぁ、うーん……」
アオイは目を瞑り、星が瞬き始めた空を仰ぎ見る。
それは浜辺の透き通る水に手を浸し、キラキラと輝く貝殻を探しているかのような。
急に、アオイの表情に影がさした。
いや、実際はそんなふうに見えただけかもしれない。
焚き火の明かりは揺れ動き、照らされた人の表情を如何様にも変えてしまう。イタズラに舞い上がった煤と煙が、俺の視界に影を作った、ただそれだけの事なのかもしれない。
「そんな事より、ほら、おかわりちょうだいよ」
急に皿の上のカレーをかっ込んだアオイは、空っぽになったそれを俺の前に差し出す。
彼女の唇にこびりついたカレーは、橙色の灯りの中では口の端から流れ出た血液のようにも見えた。
「あ、ああ」
俺は皿を受け取る。
「ほんと、今日の夕食はちょー美味い」
そう言ってアオイは再び夜空を見上げた。
結局、アオイの口からそれ以上『婚約者』との思い出が語られる事はなかった。