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第16話:桜の子

「桜のように、色々な物語を持つ子に育ってほしい」


 そんな理由で、私の事を『サクラコ』と名付けた父は、自身の『真実の愛』というものを完遂する為に、私達の元を去った。


 父が言うには、桜の花にはたくさんのストーリーが内包されているらしく、桜の木の下には死体が埋まっているらしい。

 父の言葉は時にひどく感覚的で、子供だった私は理解に苦しんだ。それはさながら、人智を超えた力で奇跡を起こす魔法使いの詠唱のようだった。

 だからそんな父が、知らない女の人と知らない街に消えたとて、まあそういうものなのかもしれないと妙に納得してしまった。


 悲しみと怒りで泣き叫ぶ母をよそに、私は父の書斎で、彼の脳内の写し鏡のような数々の本達を眺めた。

 それはまだキカイの手が加えられる前の、古い過去の遺物だった。


 父の書斎で、ぺったんこの座布団を敷いたロッキングチェアに座り、カビとヤニの匂いに包まれながら――私は父の遺していった本を読む。

 そこに父の求めていた『真実の愛』が書かれていると信じながら。


 きっとそれは、幼い私を見捨ててもなお追い求めてしまうほど、素晴らしいもののはずだから。



   *   *   *



 そんな経緯から、物語に触れることが多かった私は、物語が好きな少女へと育った。


 書斎の本には、たくさんの愛が記されていた。私はその一つ一つを舐め尽くすようにして読み、舌の根元に残る余韻に胸を熱くさせた。

 その熱は消える事なく、日々強まっていく。

 いつしか私も、自分の信じる『真実の愛』の物語を記したいと思うようになっていた。


 しかし残念ながら、私には物語を生み出す才能はなかった。


『桜のように物語を持つ子に育ってほしい』そんな父の願いは、強風に煽られた一本の枝みたいに公園の隅に落っこちて、一度も花開く事なく、終わった。


 しかし幸いにも、私は『勉強』ができる子だったらしい。


 特に努力する事もなく、比較的偏差値の高い大学を卒業し、とても専門的で、しかし今後が期待される分野の研究職に就いた。

 私たちの研究によって、喜怒哀楽を司どる扁桃体や感情を司る海馬の活動をデジタルデータに置き換え、『人の心』を機械的に再現する事が出来るようになった。

 この技術は精神医学の分野や、娯楽分野――芸術特化型キカイであるミューズの進歩に大きく貢献した。


 自分の物語を生み出す事が出来なかった私は、いつしか他人の物語を取り出して眺めるような、倒錯的な存在となっていた。


 でも――あの頃の熱は、40を過ぎた今でも私の胸の中にある。



   *   *   *



 日付が変わる前に研究所を出ると、光源の少ない田舎道を車で走る。


 途中のコンビニで明日の朝食のパンをカゴに入れ、少し悩んでからハイボールの缶を入れる。家なんてものは単に風呂に入って横になる場所でしかなかったが、明日は久しぶりの休みだし、たまには少量のアルコールで脳をふやかしてもバチは当たるまい。


 家に着いた私は手早くシャワーを済ませ、髪の水分をヘアキャップに吸わせつつ、冷蔵庫のチーズを小皿に切り分ける。そして、アルコールを傾けながら、テーブルの上に置かれた一冊の文庫本を手に取った。


 それは父の書斎にあった、まだ人間が書いていた頃の古い小説。幼い私が初めて感動した『愛の物語』の一つだ。

 父の書斎の本は、私が進学で家を出た後にほとんど処分されてしまったが、この本だけは書斎から持ち出し、今でもお守りのように手元へ置いていた。


 一人の少年が、一人の少女を愛し続ける物語。

 やがて少女が別の誰かを愛しても、少年の愛は変わらず、彼女との間に存在し続ける。

 見返りを求めない、独占欲でも、支配欲でもない、研ぎ澄まされた真実の愛。


 私はその本をペラペラとめくり、クセのついたページに記されたお気に入りの一文を読むと、照度を落としたシーリングライトを見上げた。


 物語を作りたいという欲は、今も心の中にある。


 そして私は、ついに手に入れてしまった。


 


 


 この二つを使って、ミューズという用紙に描く物語は、さぞ素晴らしいものに違いない。

 それは私が望み、叶わず、それでもなお熱に晒され続けた結果、水気を失ってしまった粘つく『真実の愛』の物語。


 私が生み出した手法で、私が作り出した物語。


 罪悪感はある。

 でも、やっと膨らみ始めた蕾を、握り潰す事なんて私には出来ない。


 私の桜は、きっともうすぐ花開く。



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