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第19話 :創世の壁画③

 彼の語る理想は空虚に響いた。


 それは雪の冷たさを知らぬ者が、その美しさだけをすくい上げて語るように、どこか現実感を欠いていた。


 想像だけで描く絵は、きっと何かが欠けてしまう。


 彼の言葉を聞きながら、俺はそんな事を思った。



   *   *   *




「今の『ハピポリス教』は宗教ではない。もはやただの過激派組織です。壁画の所有権を取り戻す事を大義名分にしていますが、ただ暴力を振るうために暴力を振るっている。そんなイカれた集団の中で、俺は生きて来ました」


 先を歩くジョシュアの声は次第に熱を帯びる。


「でも俺は、教団から離れ……フィーダに出会って、気付いたんです。自分達の親が行ってきた行為が、人の道を外れたものだって事に――」


 先程、目の前で古巣であるハピポリスが起こした『虐殺行為』への苛立ちを露わに、ジョシュアは「彼らは最低だ」と繰り返した。


 俺達が向かっている『大地の母胎』の施設は、何もない荒野を歩いて3〜4時間ほどのところにある。

 平時であればバスや車が、この整備不良な砂だらけの道路を行き交ってるらしいが、今のところそれも途絶えているようだ。『ハピポリス』の連中に出くわさないよう、俺達は道路から少し離れた土手の上を歩くことにした。


 歩きながら、俺達は互いの齟齬を埋めるようにポツポツと言葉を交わした。

 やがてジョシュアは、恋人であるフィーダとの出会いについて語り始める。


 異国の大学に通いながら、ジョシュアは孤独を深めていたらしい。


 ハピポリス教の幹部である父親に指示され、異国の大学で化学を学んでいた彼だったが、そこに学友と呼べる存在は誰一人いなかった。

 ハピポリスの掟では、食べれる食材も様々な制限があり、口にできる飲み物は水のみ、アルコールなんてもってのほか。さらには読書や映画、音楽などの娯楽も厳しく制限されていた。

 嗜好品の類は身体や心の純度を低下させ、聖星(せいせい)ハピポリスの波動を遮ってしまう、そうジョシュアは教え込まれている。そんな彼に、他の学生達と共有できるものは何一つなかった。

 しかし悲しみはなかった。

 むしろ、欲を貪る他の連中に憐れみすら感じていた。


 彼はその日も一人だった

 講義を終え、いつもの通路を通り、講義棟を出る。その途中で、ふと懐かしい歌が聞こえた気がした。


 その歌は、彼の故郷に古くから伝わる童謡だった。

 遠く離れた土色の街。その埃っぽい匂いと、夕暮れの温かな日差しを感じさせるような、優しい歌声。


 引き寄せられるように、ジョシュアはその歌声のする方へと向かう。


 そこで彼は運命の出会いを果たした。


 講義机に腰掛けた数名の女学生。楽器を弾く3人の端で、金色の髪の女が透き通る歌声を響かせていた。


 フィーダだった。


 こうして二人は出会った。

 同郷のよしみで、励ましの言葉を積み重ねていく二人だったが、当然彼らは、故郷が二つの思想に分裂している事も知っている。

 しかしそこにはあえて触れなかった。

 お互いがどちら側の人間なのか、敢えて詮索することはないまま、ただ日々が二人の絆を強めていく。


 孤独を紛らわすための友愛の感情は、やがて何者にも変え難い恋愛感情へと変わる。


 初めて2人で入ったレストランで、水とパンケーキのみを注文するジョシュアを見て、フィーダは初めて自身が『大地の母胎』の教徒である事を告げた。

 普段の行動や嗜好から、彼女はジョシュアが『ハピポリス』である事を見抜いていた。見抜いた上で、より2人の距離を縮めようとしていた。

 その頃の2人にとって、宗教の違いなど、もはやどうでも良かった。彼が彼であり、彼女が彼女である事が全てだった。

 その日ジョシュアは規律を破り、生まれて初めてアルコールを口にした。そして、衣装ケースと小さな机しかない彼の部屋で、2人は互いの愛を確かめ合った。


「フィーダに出会って、俺は知ったんです」昔を思い起こしながら、ジョシュアは言う「宗教の違いなんてものは、本物の愛の前じゃ膝丈の砂山でしかない。簡単に踏破出来るはずなのに、老人達はその小さな山に尻込みして、お互いを憎み、嘲り、殺し合っている」


「そうです。みんな、分かり合えると思うんです。私達が愛し合えたように」


 先頭を歩くフィーダが振り向き、恥ずかしそうな顔で俺たちに言う。


「俺達が大学の夏休みを利用してこの国に帰ってきたのは、その事を実証するためなんです。『ハピポリス』と『大地の母胎』、二つの思想は違っているけど、その根底には懐かしい故郷の歌が流れています。私達が、その真実を伝えて、みんなに平和の夢を与えてあげたい――」


「立派な、考えだよ」


 何となくしっくりこないものを感じながら、俺は曖昧に頷いた。そして、隣を歩くアオイの顔を見る。


 アオイは目を輝かせて、二人の話に聞き入っていた。


「愛……。そう、美しい、愛、なんだよ……!」


「え? 二人が言ってるのはアイだぞ? アイスじゃないぞ?」


「はぁ? んなこと知ってるし! それに私だって、美しい愛を知ってるし!」


 顔を真っ赤にして怒鳴るアオイは、どうせどっかにいる婚約者のことでも思い出していたのだろう。なんて間抜けな表情だ。俺は長い溜め息を吐いて、「無事戻ったら、いつものファミレスで美しいアイスでも食おうぜ」と、どうでもいい話でお茶を濁す。


 気付くと、フィーダがクスクスと笑っていた。


「あの、どうしました?」


 俺は困惑する。


「すみません、なんだか、二人のやり取りがおかしくて」


「そっすか?」


「とても仲がいいんですね」


「別に、仕事の付き合いですし、それ相応には仲良くしとかないと……」


 何となくの恥ずかしさで、語尾が窄んでいく。

 このフィーダという女性から漂う穏やかさは何なのだろうか? ハピポリスの過激派が近くの街で暴れ回り、行き場所をなくしている抜き差しならない状態のはずなのに、そんな悲壮感は全く感じられない。


「怖くないんですか?」少しだけ迷ったが、俺は尋ねる「もしかしたら、さっきの連中がこっちに向かってきてるかも知れないんですよ」


「大丈夫」


 フィーダは振り向き、俺たちの後ろを仏頂面で歩いているジョシュアに目配せした。


「その時はきっと、ジョシュアが守ってくれるから」


 その頬が赤く染まる。


「はぁ」


 彼女の言葉や仕草が、なぜか俺の胸に引っ掻き傷を作る。もし愛する人の身に危険が迫った時、俺はその人を守る事ができるのだろうか。


「あ、こいつ、まごう事なき陰キャだから、『愛』というものがのよくわからないんだよ」


 アオイがイタズラっぽい笑みを浮かべている。このやろう、誰のせいでこんなモヤモヤした気持ちになってると思ってんだ。



   *   *   *



 その施設は石材で作られた広めの平屋だった。遠方から壁画を拝みに来る信者や一部の観光客が寝食する為の場所として『大地の母胎』が管理している。


 管理人である中年の夫婦を前にして、ジョシュアは自身が敵対組織である『ハピポリス』である事を告げた。困惑と嫌悪の視線を向ける二人に対し、ジョシュアは声高らかに告げる。


『俺は必ずこの争いを止めて見せる』


『そして絶対に、誰も傷付けさせはしない』


 血気盛んな男の口から繰り返される、その力強い正義の言葉に、いつしか夫婦も諦めたような――しかし慈愛に満ちた笑みを向けるようになっていた。


 浴室で水浴びをさせてもらい、振り分けられた個室の木製の椅子に座って、買っておいたパンを齧る。すでに外は夜を纏い、格子窓から流れ込む夜風は涼しかった。

 俺はベッドに放り投げていたホルスターから会社支給の回転式拳銃を取り出し、シリンダーをスライドさせて中の銃弾を確認する。

 38口径の、生き物に対して明確な殺傷能力があるこの鉄塊のトリガーを、俺は今まで一度として引いた事がない。引く場面に遭遇しなかったとも言えるが、引く勇気と、命を奪う覚悟を持ち合わせていなかったとも言えた。


 仮にアオイを守る為だとして、俺はこの銃の引き鉄を引けるのだろうか。


 不意にドアが叩かれる。

 返事を返すと、アオイが顔を覗かせた。


「明日の行動について、打ち合わせしようと思って」


「あ、うん」


 アオイが俺の部屋のベッドに座り、マットレスの柔らかさを確かめる。


「うーん、こっちの方が硬め。私、硬い方が好きなんだよね」


「部屋、交換するか?」


「え、いいの? よろしく!」


 アオイの髪が湿って束になり、数本が頬に張り付いている。きっと今さっき水浴びを済ませてきたのだろう。日常の営みの中にアオイが存在している感覚が、俺にはもどかしかった。


「なあ、どう思う?」


 込み上げた疑問が口をついて溢れた。


「あのジョシュアって青年、本当にこの紛争を止められると思うか?」


 俺が意見を求めると、アオイは指先で頬を掻いた。


「いや、無理だと思うよ。思想の違いが生む争いの根は深い。あれは現実を直視していない、熱に浮かされた理想論だよ」


「だよな」


「でも――」肯定する俺の言葉に被せるようにして、アオイは続ける。「でも私は、その熱を信じてあげたいな、とも思う」


 俺は無言でアオイを見た。

 手の中にある回転式拳銃が重い。


「誰かを愛する気持ちっていうのは、時にものすごい力と勇気を生むんだよ。私だって何度も『死ぬかも』って目にあったけどさ、その度に『彼』の事を思い出して乗り越えて来た。愛ってのはさ、何だってできる、そんな気持ちにさせてくれるんだよ」


「……愛、ね」


 喉に引っかかった言葉が転がり落ちるように溢れ出る。

 俺の気持ちは、きっと相手に届かない。

 それでも俺は、その場面になったら、この燻る種火みたいな『愛』とやらの力を行使できるのだろうか。


「ソラトもきっと、誰かを好きになったらわかるよ」


 そんなアオイの言葉が、痛かった。


 その時――


 物音がした。


 日常にキリで孔を開けるような、不気味な音。


 一瞬でアオイの表情が変わる。ドアに駆け出す彼女を追って、俺も走り出した。


 ドアを開ける。


 異質な人影が、廊下の向こうのホールに佇んでいる。


 男が3人。


 中央の男は、右手に拳銃をぶら下げて、振り向き様にこちらを見ていた。


 男の両隣には若い男が2人。彼らは管理人の夫婦を拘束して、手にしたナイフを彼らの首に当てていた。管理人の夫の手には自動小銃が握られているが、自由を奪われたこの状態で反撃を試みる事は難しいだろう。


「すまん、人を探してるんだ」中央の男が言った。「街で見かけて、ここに入ったと連絡があってな。どこにいるんだ?」


 急転直下する展開に俺は状況を飲み込めない。

 何か尋ねられてるが、答えようもない。


「匿ってんなら、探させてもらうよ? くれぐれも、こいつらみたいに邪魔しないでもらいたいな」


 俺は頷く。

 アオイは冷たい目を男に向けている。


「親父……」


 背後から声がした。

 振り返ると、ジョシュアが引き攣った表情で立っていた。


「おお、ジョシュア。戻って来たって聞いたから、会いにきたぞ」


 そして男は、気味が悪いほど嬉しそうな笑みを浮かべた。



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