しばらくすると、『壁画』の警備にあたっていた『大地の母胎』の男数人が現れ、ジョシュアの父親とその部下を拘束した。
施設内の異変に気付いた段階で、管理人夫婦は壁画警備の人員に連絡を入れていたようだった。しかし彼らが到着した時には、件の夫婦は死体となって床に転がり、武装したテロリストが女の子に銃を向けている――そんな進退窮まる状況だった。
狼狽し、応援を要請し、石造りの小さな小窓から状況を伺っていた最中、突然暴れ出した女の子が一瞬にしてテロリストを制圧してしまう。
勝機とばかりに施設へと突入した『母胎』の男達は、テロリストを踏みつけるアオイに乾いた笑顔を向けるしかなかった。
警備の男達に連行される間、ジョシュアの父親は一言も言葉を発しなかった。
全てを突き抜け、夜空へと達するような鋭い視線で、固い石の天井を睨みつけている。あいつが信じる、聖星ハピポリスに祈りを捧げていたのかもしれない。
相手を殺す覚悟と、殺される覚悟。
銃を手にして躊躇する俺に、あいつはそんな言葉を吐いた。あいつ自身もまた、こうなる覚悟を決めていたのかもしれない。
『ハピポリス教』の信者の中には、教義を貫くためであれば、個人の命を投げ出すことだって厭わない者も多い。それは、仮に自らの自由が奪われようとも、誰かがその意思を継いで、大義を果たしてくれると信じているからだ。
心の中のハピポリスを見上げるジョシュアの父親は、息子のジョシュアに、一度として目を向けることはない。
ふと、部屋の隅で管理人夫婦の遺体を整えていた男が、低いうめき声を漏らした。
そして獣のような激昂の声を上げると、連行されるジョシュアの父親の胸ぐらを掴み、自動小銃の銃口を顎に押し当てる。
「よくもおじさんたちを……! この薄汚いハピポリスめが……!」
一瞬の緊張。
「もうやめて!!」
しかし甲高い声が、怒りに任せたその行動を制した。
声の主でああるフィーダは、目に浮かぶ涙を両の袖で拭うと、鼻水を啜りながら警備の男を睨む。
「もうこれ以上、殺し合わないで……」
フィーダの祈るような視線を向けられた警備の男は、その気迫に押し負け、ため息をついて銃を下ろした。
そして、俺達を襲った男3人は装甲車に乗せられ、何もない灰色の景色と、温度をもたない乾いた風の中へと消えていった。
終わった。
アオイがフラフラとやって来て、俺の隣に腰を下ろす。もたれかかった石の壁は、昼間の熱がすっかり抜けていて、緊張で汗ばんでいた背中をひんやりと冷やした。
「とんだ災難に巻き込まれたもんだね」
「ああ……」
言葉を続けようとしたが、そんな必要はないような気もした。ただただ長いため息が、二人の間の沈黙に響く。
さっきの心が通じ合ったような連携。
今の俺達に、余計な言葉は必要ないのかもしれない。
石造りの床を叩く、弱々しい足音。
気がつくと、目の前にジョシュアが立っていた。硬く噤んだ唇が小さく震えている。
俺とアオイは、その唇が開かれるのを無言で待った。
この青年は、自分の恋人を守るためとはいえ、アオイを身代わりに差し出そうとした。彼の放つ言葉次第では、俺は冷静さを放棄するかもしれない。
「……すみませんでした」
そう切り出したジョシュアの声は掠れていた。
昼間の太陽の下で花開いていた、自らの理想に裏打ちされた正義の花は、乾いた砂の上で枯れ果ててしまったようだった。
彼の中でどのような葛藤が生じ、振り回された思考の刃がどのように彼の心を傷付けたか……。その治癒不可能な傷跡を想像する事は容易い。
しかし、俺は彼を許す事が出来ない。
それはきっとアオイも同じに違いない――
「なにが?」
顔を上げたアオイが、ジョシュアを見上げて問いかける。ジョシュアは自分に向けられた真っ直ぐな目から目を逸らす。
「俺は、あなたをフィーダの身代わりにしようとしました……」
「なんで?」
「フィーダが、殺されると思ったから……」
「ふーん」
俺は部屋の隅に座り込んでいるフィーダを見た。彼女は何か言いたげな表情で、恋人とアオイのやり取りを見つめている。
その表情には疲労の色が濃い。目の前で人が死に、目の前で自分の代わりに人が殺されそうになったのだ。ごく普通の大学生にとっては、耐えられるストレスではないだろう。
あの男の言葉を肯定したくはないが、俺も、そして彼らも、この争いに首を突っ込むには覚悟が足らな過ぎた。
「俺は、バカでした。何もわかっちゃいなかった……。理想なんて、圧倒的な暴力の前じゃ何の意味もない。この争いを終わらせる事なんて、出来はしないのに、それなのに俺は……。本当に、すみませんでした」
絞り出したその言葉は、掠れて滲み、血の味がするような気がした。
「ほんとバカだね、君は」
アオイは立ち上がる。
立ち上がったところで、アオイの背はジョシュアの肩にも満たない。しかし先ほどの大立ち回りを知っている彼は、アオイの迫力に気押されて一歩退く。
アオイはジョシュアをぶん殴るんじゃないか?
そう感じた俺は慌てて立ちあがろうとするが、尻が地面に張り付いてしまい動くことが出来ない。
俺も、そしてきっとアオイも、疲労はピークだった。
「あのバカ親父の言うとおり、覚悟が足りないんだ」アオイは言う。「彼女は、君の愛する人なんでしょ? だったらああいう場面では、見ず知らずの女の命を犠牲にしてでも、彼女を守るっていう覚悟を決めなよ」
「え?」
てっきり、自分を身代わりにした事を咎めるものとばかり思っていた。俺の戸惑いと、ジョシュアの戸惑いがシンクロする。
「大事な恋人だったらさ、なにがなんでも守らなきゃダメだよ。だから、さっき私を身代わりに差し出した、君の判断は正しい」
アオイの声はいつになく優しかった。
愛する人を想うジョシュアの姿に、別の誰かを重ねるように。
「でも、今のウジウジしてる君は最低だね」そう言って、ジョシュアの胸に人差し指を突きつける。「理想とか、大事な人とか、そういうのを守る為には、切り捨てなきゃいけないものって、絶対ある。その決断が迫った時に、本当に大事なものを見失わない事。それが、君がこれからもたなきゃいけない覚悟だよ」
ジョシュアは後ろを振り返る。
そこではフィーダが、戸惑いの視線をジョシュアに向けている。
「ほら、恋人が心配そうに座ってんじゃん。私じゃなくて、彼女を気遣ってやりなよ」
「でも、俺はあなたを……」
「ほら、はやく!」
アオイは指先で、ジョシュアをフィーダの方へと押しやる。よろけたジョシュアは、何かに耐えるように奥歯を噛み締めた。
「あの、なんで……俺を責めないんですか? 俺はあなたの死を願いました。あなたにとって、俺は死神のようなものです。無知で、浅はかな……死神です」
ジョシュアは泣きそうな顔で呟いた。
できる事なら、言葉の鞭で自分の罪を罰して欲しい。そうしなければ、自分で自分を許すことが出来ない。そんな魂の揺らぎが、彼の嗚咽から滲み出ていた。
アオイは躊躇し、少し寂しそうな表情で言う。
「それは、さ……、もし私があの子の立場なら、愛する人に、そんなふうに想ってもらいたいからだよ」
囁くような小声でそう答えると、アオイは踵を返し、再び俺の隣に座った。
俺たちはきっと、最高のバディだ。
でも、アオイが愛する人に求めている関係性は、きっとそれとは異なる。
当たり前なのに、胸が苦しい。
「……殴らないんだな」
俺はアオイの方を見ずに言う。
「もう彼は、自分で自分をボコボコに殴ってるよ。怪我人をいじめる趣味はない」
アオイは、フィーダの元へと歩いていくジョシュアの背中を見ながら、そう呟いた。
ジョシュアと入れ替わるようにして、警備の男が一人、こちらに向かって歩いてくる。
「お二人は、調査員の方ですよね? 大司祭様から伺いました。こんな無様な争い事に巻き込んでしまい、申し訳ございません」そう言って深々と頭を下げる。「ここで夜を明かして頂くわけにもいきませんので、こちらで宿を手配しましょう。何かご希望はありますか?」
願ってもない申し出だったが、俺とアオイは顔を見合わせる。
「だったら――」
* * *
洞窟の中はひんやりと肌に貼り付くような空気で満たされていた。複数の蝋燭で照らされたその場所は、炎のゆらめきによって絶え間無くその姿を変える。
そして、最深の壁に描かれるのは『創世の壁画』。
この地に生まれし者が、その所有権をかけて二分し、殺し合う、悪魔の美しさを持つ壁画。
蝋燭の温かな光に照らされたそれは、様々な色が幾重にも重なり、言葉で言い表せない程の重層的な彩りを生んでいた。
その繊細さは見る者の心に、情愛まがいの感情を惹起させる。それはこの鮮やかな色の洪水が、各々の心に、違った色として映るからだろうか。
『この絵は、自分だけのもの』――鑑賞者の心の奥深くに入り込み、異常なまでの独占欲を惹起させてしまうこの壁画は、確かになんらかの魔力を帯びているのかもしれない。
俺とアオイは壁画の前に座り込んで、朝までの短い時間を過ごした。
死に際のうめき声みたいな、文章の体をなさない感想の言葉を、二言、三言交わしてからは、お互い黙りこくって壁画の彩りに呑まれていた。
愛とはなんなんだろうか、なんて流行曲の一節の様な答えのない問いが、俺の頭の中でぐるぐると回る。
この壁画を独占するため、争いを続ける二つの宗教。
その争いを傍観者視点で愚かだと唾棄するのは容易いが、俺の中で蠢くドロドロの感情と、争いの根元にある感情とは、一体何が違うのだろうか?
奪いたい。
手に入れたい。
独占したい。
考えれば考えるほど、わからなくなる。
俺はそれ以上考えるのをやめて、ただただ壁画の持つ色彩の波に飲まれる事を選んだ。
「うた」
「うた?」
唐突なアオイの呟き。
俺はオウム返しに聞き返す。
アオイはいつになくのんびりとした口調で、まるで歌うように言葉を紡ぐ。
「なんかこの壁画、音楽の波が広がって、世界を包んでいる様にも見えるな……って」
「確かに、ね」
俺は、異なる思想でありながら、一つの童謡で出会い、繋がった、ジョシュアとフィーダの事を考えた。
もしこの壁画で描かれているものが、二人の間に流れる『古の童謡』なのだとしたら――いつの日か、彼らの戦いにも終わりが来るのかもしれない。
それは楽観的な観測だろうか。
でも俺は、そう思わずにはいられなかった。