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第23話:一人の休日、二人の休日

 身体が宙を舞う感覚。


 一瞬の解脱感のあとに、全身を貫く衝撃と痛み。


 動かない視線の先には、投げ出された自分の左腕が映る。それは温かな血の中にどんどん沈んでいく。


 ゆっくりと震える手を持ち上げる。


 血で染まった、真っ赤な手。



   *   *   *



 悪い夢にうなされて目覚めたアオイは、枕元に置かれたまるいペンギンのぬいぐるみを抱いて、大きく息を吸った。破れた風船みたいな肺に、何度も酸素を取り込んでいると、次第に凄惨な夢は現実の外へと追いやられる。

 左手を見た。

 その手はいつもと同じで、青白い。

 その左手を再びぬいぐるみに沈み込ませて、アオイは呼吸が整うのを待った。


 大きくて丸いペンギンのぬいぐるみは、アオイが婚約者からもらった唯一のプレゼントだった。

 殺風景で味気ない部屋の中で、そのぬいぐるみだけが舌先ほどの甘みを生み出している。心が苦しくなった時に幾度となく抱きしめ続けた結果、その布地は黒ずみ、腕は取れかけ、縫い目のほつれからは綿がはみ出ている。


 ぬいぐるみを抱きながら、アオイは婚約者の事を想った。


 今ではもう顔も朧げで、その存在だけが深く心に刻まれている、最愛の人の事を想った。


 そこに自分の生きる意味がある。


 だから自分は生きていける。


 布団から起き上がったアオイは、トイレと歯磨きを済ませたあと、牛乳でココアを作り一口飲む。口いっぱいに広がる甘みが心地よい。そして先日の『創世の壁画』で着ていた服の洗濯がまだだった事を思い出し、洗濯機へと突っ込んだ。その時、汗の臭いと砂埃の臭いが衣服から漂い、あの時の情景が思い出される。

 ジョシュアとフィーダ。

 望まれない愛を貫こうとするあの二人は、果たしてこれからどのような道を辿るのだろうか。その道の先に幸せな結末が待っている事を、アオイはぼんやりと願う。

 それはきっと、このココア以上に甘ったるい思慮の未来に違いない。でもアオイはそれを信じてあげたかった。


 かつて自暴自棄で、死に急ぐような日々を送っていた自分が、愛の力で変われたように。


 再び婚約者の事を思い出す。


 必死に思い出そうとする。


 しかしその情景はどこか味気ない。一つ一つの思い出が箇条書きにされ、頭の内側に無造作に貼られているような感覚だ。愛しいはずのその表情には、白いもやがかかっている。


 頬の温度が冷たく奪われていくのを感じた。


 疲れているのだろう、とアオイは自分に言い聞かせた。今日は特に予定はない。研究所に行って、『創世の壁画』の記憶の抽出をしてこよう。アレをした後は、頭がスッキリして、不思議な安心感に包まれる。

 自分の中に、確固たる『婚約者との思い出』が存在していると実感できる。


 アオイは立ち上がり、パジャマを脱ぎ捨てると、大きく伸びをした。



   *   *   *



「なあ、ソラトくん。君は絵を描いてるんだよな?」


 記憶の抽出を終え、いつも通りの問診の時間。

 主任研究員のサクラコ先生に尋ねられて、俺は卑屈な笑顔を浮かべながら小さく頷いた。

 こんな化石のような趣味にうつつを抜かす人間の心情なんて、堅実で立派な仕事についているサクラコ先生のような『上級国民』には理解されないだろう。

 俺たちはキカイに使われる側の人間

 しかし彼女は、この世界で上位1%にも満たない『キカイを使う側』の人間なのだから。


「いやに卑屈な顔をするね」


「いや、その、この趣味を理解してくれる人、少ないですから。絵も、娯楽も、今やミューズの独壇場じゃないですか……」


 その独壇の一端を担う『ワースレス』である自分に呆れつつ、ミューズを使役する立場の人間に対して、皮肉混じりの言葉を吐く。


 サクラコ先生は勿体ぶるような溜め息を漏らすと、恥ずかしそうに声を顰めながら言った。


「私が作家を目指していたと知ったら、君は笑うかい?」


「え?」


 予想しなかった言葉に、俺は俯いていた顔をあげる。


「もっとも……私にはその才能がなかったわけだがね。書きたいものを書く才能も、書ける自分を目指し努力し続ける才能も」


「そう、ですか……」


 何と答えればいいかわからない。まごつく俺を哀れに思ったのか、サクラコ先生は笑顔を見せる。


「私は『愛』ってやつを書きたかったんだ。なにものにも揺るがず、それを得るためならどんな犠牲も厭わないような――『真実の愛』ってやつを」


 サクラコ先生は遠い目をする。そこに何を見ているのか、一介の調査員である俺は尋ねられる立場じゃない。

 ただ、閉じかけた唇の隙間から溢れる寝息のような、彼女の自分語りに俺は耳を傾ける。


「あいにく私には、その『愛』という感情を上手く言語化する事が出来なかった。でも、いやだからこそ、私はその不確実な感情を、『小説』という目に見えるカタチに置き換えたかったのかもしれない」


「なんか、意外です」


「そうか?」


「もっと、人の心を数値的に捉えてると思ってました。達観しているというか――」


「そんな事はない。だからこの歳にもなって独身なんだ。察してくれ」


「いやあの……」


 目上の人物の自虐ほど、反応に困るものはない。


「君はなぜ、絵を描くんだい?」


 サクラコ先生はデスクに頬杖をつき、小首を傾げながら俺に問う。その本質的な質問に、俺は何と答えていいか迷う。


「自分の中にある『理想の景色』を、みんなに見てほしいから……」


 絞り出した言葉が、俺の中にある意欲の全てを言語化出来ているかわからない。しかし明らかな的外れでもない事は、感覚としてわかっている。


「なるほど」サクラコ先生は頷く。「私も同じだよ。自分の中にある『理想の愛』というものを、作品として残したかったんだ」


「また、書けばいいじゃないですか。お仕事、忙しいかもしれないですが、もったいないです。それに――」


 当たり障りない提案をしながら、俺は考える。

 創作意欲というものは、もはや魂に刻まれた呪いのような物だ。何かを表現したいという感情は、薄まる事はあれど消える事はない。無理にそれを抑え込めば、内側から心を食い殺される。


「問題ないさ」


 サクラコ先生の目から輝きが消えた気がした。

 幼い夢に憧れる少女の目から、目の前の糧を食らう肉食獣の目に、一瞬でその様相を変える。


「私はこの理想を、文章で記すことは出来なかった。でも、私は手に入れた。名作を創作し得る、強く滑らかな筆・・・・・・・を……」


 言ってる意味がわからず、俺はサクラコ先生の目にその答えを探す。

 彼女は薄笑いを浮かべながら、まっすぐな視線を俺に向けていた。そのあまりの奥深さに、俺は知らないうちに固唾を飲んでいた。


「さて、今日の問診はここまでだ」


 そう言ってサクラコ先生は立ち上がる。


「あ、ありがとうございます」


 俺は慌てて立ち上がり、中腰の変な姿勢のままペコペコと頭を下げた。


「ソラトくん」


「はい」


「バディ――アオイちゃんと、仲良くな」


「は、はあ」


 最後の言葉は、言葉自体の意味を通り越して、やけに重苦しく響いた。



   *   *   *



 研究所を出て、近くのバス停へと向かう。

 そこに見知った後ろ姿を見つけて、俺は胸は高鳴った。黒いショートヘアーで、サイズの合わないダボダボのTシャツを着た、小柄な女性。


「アオイ?」


「ああ、ソラト」


 そして、次の言葉が見つけられないまま、訪れる無言。


 研究所の帰りにアオイと鉢合わせするのは初めてだった。調査の時は、いつも二人で行動しているはずなのに、会うシチュエーションが違うとこんなにも気恥ずかしいものなのか。

 アオイもまた、所在なさげな視線を道路の向こうに見える山並みへと移した。蝉の声がどこからともなく降ってきて、バスを待つ二人の沈黙に積もっていく。


 傾きかけの太陽。

 白とも赤ともつかない、曖昧な色合いの光の波が、俺たちの影を伸ばす。自分達が一枚の絵の中に閉じ込められたような、不思議な感覚だ。


 絵画のようなこの無言の時間が、なんだか俺には、とても愛おしく感じた。


「なあ、アオイ」


「んー?」


「これから一緒に、ご飯でも食べてかない?」


「え、調査の打ち合わせ? 次の調査まだ決まってないじゃん」


「いや、普通に、そいいうんじゃなく……えっと」


「何でそんなにモジモジしてんの?」


 何の目的も持たず女性を食事に誘うのが、こんなにも難しいなんて。俺はアオイを繋ぎ止める言葉を見つけられず、口をパクパクさせていた。


 やがて俺たちの前にバスが止まる。


「いつものファミレス」


 アオイが唐突に口を開く。


「え?」


「ハンバーグフェアやってるらしいから、行こうよ」


「あ……」


「選べるソースのハンバーグが2つついて、お値段そのままだって。最高じゃん」


 そう言ってアオイは屈託のない笑みを見せた。

 その表情は、俺の中に生まれていた言いようもない不安のもやを、書き消してくれるような気がした。


「……そうだな、最高だ」


 そう言って、俺とアオイはバスのステップを上った。



   *   *   *



 ソラトの部屋の隣、203号室に住むフリーの報道カメラマン――通称カメさんは、PCに保管している過去の写真データを見返していた。

 ソラトのバディである女――アオイ。初めて彼女に会った時に感じた既視感の原因が、この膨大な写真の中にあるような気がしたからだ。日付と案件ごとに整理されたフォルダを、新しい方から順に開いていく。

 そして一つのフォルダの前で、マウスを操作する指が止まった。


『ホメロス精神医学研究所』


 フォルダに書かれた名前で、過去の記憶が蘇る。


 それは『脳から記憶を抽出する技術』の副産物。倫理観を無視した非人道的な研究の記録。

 今から8年ほど前。正義感に燃え、社会の不条理を暴く正義のカメラマンだった自分は、この研究所で行われている悪魔の研究を、白日の元に晒そうとした。

 今思えば危なっかしくて独善的な正義だ。


 フォルダを開き、中の写真を一枚ずつ確認していたカメさんは、一枚の写真で指を止め、そこに映る小さな少女を凝視する。


 頭に包帯を巻いた少女が、訝しむような目をこちらに向けている。


 悪魔のような実験の被験者――


「アオイちゃん……」


 ベッドで眠る恋人の寝息に紛れるほど微かに、カメさんはつぶやいた。




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