身体が宙を舞う感覚。
一瞬の解脱感のあとに、全身を貫く衝撃と痛み。
動かない視線の先には、投げ出された自分の左腕が映る。それは温かな血の中にどんどん沈んでいく。
ゆっくりと震える手を持ち上げる。
血で染まった、真っ赤な手。
* * *
悪い夢にうなされて目覚めたアオイは、枕元に置かれたまるいペンギンのぬいぐるみを抱いて、大きく息を吸った。破れた風船みたいな肺に、何度も酸素を取り込んでいると、次第に凄惨な夢は現実の外へと追いやられる。
左手を見た。
その手はいつもと同じで、青白い。
その左手を再びぬいぐるみに沈み込ませて、アオイは呼吸が整うのを待った。
大きくて丸いペンギンのぬいぐるみは、アオイが婚約者からもらった唯一のプレゼントだった。
殺風景で味気ない部屋の中で、そのぬいぐるみだけが舌先ほどの甘みを生み出している。心が苦しくなった時に幾度となく抱きしめ続けた結果、その布地は黒ずみ、腕は取れかけ、縫い目のほつれからは綿がはみ出ている。
ぬいぐるみを抱きながら、アオイは婚約者の事を想った。
今ではもう顔も朧げで、その存在だけが深く心に刻まれている、最愛の人の事を想った。
そこに自分の生きる意味がある。
だから自分は生きていける。
布団から起き上がったアオイは、トイレと歯磨きを済ませたあと、牛乳でココアを作り一口飲む。口いっぱいに広がる甘みが心地よい。そして先日の『創世の壁画』で着ていた服の洗濯がまだだった事を思い出し、洗濯機へと突っ込んだ。その時、汗の臭いと砂埃の臭いが衣服から漂い、あの時の情景が思い出される。
ジョシュアとフィーダ。
望まれない愛を貫こうとするあの二人は、果たしてこれからどのような道を辿るのだろうか。その道の先に幸せな結末が待っている事を、アオイはぼんやりと願う。
それはきっと、このココア以上に甘ったるい思慮の未来に違いない。でもアオイはそれを信じてあげたかった。
かつて自暴自棄で、死に急ぐような日々を送っていた自分が、愛の力で変われたように。
再び婚約者の事を思い出す。
必死に思い出そうとする。
しかしその情景はどこか味気ない。一つ一つの思い出が箇条書きにされ、頭の内側に無造作に貼られているような感覚だ。愛しいはずのその表情には、白いもやがかかっている。
頬の温度が冷たく奪われていくのを感じた。
疲れているのだろう、とアオイは自分に言い聞かせた。今日は特に予定はない。研究所に行って、『創世の壁画』の記憶の抽出をしてこよう。アレをした後は、頭がスッキリして、不思議な安心感に包まれる。
自分の中に、確固たる『婚約者との思い出』が存在していると実感できる。
アオイは立ち上がり、パジャマを脱ぎ捨てると、大きく伸びをした。
* * *
「なあ、ソラトくん。君は絵を描いてるんだよな?」
記憶の抽出を終え、いつも通りの問診の時間。
主任研究員のサクラコ先生に尋ねられて、俺は卑屈な笑顔を浮かべながら小さく頷いた。
こんな化石のような趣味にうつつを抜かす人間の心情なんて、堅実で立派な仕事についているサクラコ先生のような『上級国民』には理解されないだろう。
俺たちはキカイに使われる側の人間
しかし彼女は、この世界で上位1%にも満たない『キカイを使う側』の人間なのだから。
「いやに卑屈な顔をするね」
「いや、その、この趣味を理解してくれる人、少ないですから。絵も、娯楽も、今やミューズの独壇場じゃないですか……」
その独壇の一端を担う『ワースレス』である自分に呆れつつ、ミューズを使役する立場の人間に対して、皮肉混じりの言葉を吐く。
サクラコ先生は勿体ぶるような溜め息を漏らすと、恥ずかしそうに声を顰めながら言った。
「私が作家を目指していたと知ったら、君は笑うかい?」
「え?」
予想しなかった言葉に、俺は俯いていた顔をあげる。
「もっとも……私にはその才能がなかったわけだがね。書きたいものを書く才能も、書ける自分を目指し努力し続ける才能も」
「そう、ですか……」
何と答えればいいかわからない。まごつく俺を哀れに思ったのか、サクラコ先生は笑顔を見せる。
「私は『愛』ってやつを書きたかったんだ。なにものにも揺るがず、それを得るためならどんな犠牲も厭わないような――『真実の愛』ってやつを」
サクラコ先生は遠い目をする。そこに何を見ているのか、一介の調査員である俺は尋ねられる立場じゃない。
ただ、閉じかけた唇の隙間から溢れる寝息のような、彼女の自分語りに俺は耳を傾ける。
「あいにく私には、その『愛』という感情を上手く言語化する事が出来なかった。でも、いやだからこそ、私はその不確実な感情を、『小説』という目に見えるカタチに置き換えたかったのかもしれない」
「なんか、意外です」
「そうか?」
「もっと、人の心を数値的に捉えてると思ってました。達観しているというか――」
「そんな事はない。だからこの歳にもなって独身なんだ。察してくれ」
「いやあの……」
目上の人物の自虐ほど、反応に困るものはない。
「君はなぜ、絵を描くんだい?」
サクラコ先生はデスクに頬杖をつき、小首を傾げながら俺に問う。その本質的な質問に、俺は何と答えていいか迷う。
「自分の中にある『理想の景色』を、みんなに見てほしいから……」
絞り出した言葉が、俺の中にある意欲の全てを言語化出来ているかわからない。しかし明らかな的外れでもない事は、感覚としてわかっている。
「なるほど」サクラコ先生は頷く。「私も同じだよ。自分の中にある『理想の愛』というものを、作品として残したかったんだ」
「また、書けばいいじゃないですか。お仕事、忙しいかもしれないですが、もったいないです。それに――」
当たり障りない提案をしながら、俺は考える。
創作意欲というものは、もはや魂に刻まれた呪いのような物だ。何かを表現したいという感情は、薄まる事はあれど消える事はない。無理にそれを抑え込めば、内側から心を食い殺される。
「問題ないさ」
サクラコ先生の目から輝きが消えた気がした。
幼い夢に憧れる少女の目から、目の前の糧を食らう肉食獣の目に、一瞬でその様相を変える。
「私はこの理想を、文章で記すことは出来なかった。でも、私は手に入れた。名作を創作し得る、
言ってる意味がわからず、俺はサクラコ先生の目にその答えを探す。
彼女は薄笑いを浮かべながら、まっすぐな視線を俺に向けていた。そのあまりの奥深さに、俺は知らないうちに固唾を飲んでいた。
「さて、今日の問診はここまでだ」
そう言ってサクラコ先生は立ち上がる。
「あ、ありがとうございます」
俺は慌てて立ち上がり、中腰の変な姿勢のままペコペコと頭を下げた。
「ソラトくん」
「はい」
「バディ――アオイちゃんと、仲良くな」
「は、はあ」
最後の言葉は、言葉自体の意味を通り越して、やけに重苦しく響いた。
* * *
研究所を出て、近くのバス停へと向かう。
そこに見知った後ろ姿を見つけて、俺は胸は高鳴った。黒いショートヘアーで、サイズの合わないダボダボのTシャツを着た、小柄な女性。
「アオイ?」
「ああ、ソラト」
そして、次の言葉が見つけられないまま、訪れる無言。
研究所の帰りにアオイと鉢合わせするのは初めてだった。調査の時は、いつも二人で行動しているはずなのに、会うシチュエーションが違うとこんなにも気恥ずかしいものなのか。
アオイもまた、所在なさげな視線を道路の向こうに見える山並みへと移した。蝉の声がどこからともなく降ってきて、バスを待つ二人の沈黙に積もっていく。
傾きかけの太陽。
白とも赤ともつかない、曖昧な色合いの光の波が、俺たちの影を伸ばす。自分達が一枚の絵の中に閉じ込められたような、不思議な感覚だ。
絵画のようなこの無言の時間が、なんだか俺には、とても愛おしく感じた。
「なあ、アオイ」
「んー?」
「これから一緒に、ご飯でも食べてかない?」
「え、調査の打ち合わせ? 次の調査まだ決まってないじゃん」
「いや、普通に、そいいうんじゃなく……えっと」
「何でそんなにモジモジしてんの?」
何の目的も持たず女性を食事に誘うのが、こんなにも難しいなんて。俺はアオイを繋ぎ止める言葉を見つけられず、口をパクパクさせていた。
やがて俺たちの前にバスが止まる。
「いつものファミレス」
アオイが唐突に口を開く。
「え?」
「ハンバーグフェアやってるらしいから、行こうよ」
「あ……」
「選べるソースのハンバーグが2つついて、お値段そのままだって。最高じゃん」
そう言ってアオイは屈託のない笑みを見せた。
その表情は、俺の中に生まれていた言いようもない不安のもやを、書き消してくれるような気がした。
「……そうだな、最高だ」
そう言って、俺とアオイはバスのステップを上った。
* * *
ソラトの部屋の隣、203号室に住むフリーの報道カメラマン――通称カメさんは、PCに保管している過去の写真データを見返していた。
ソラトのバディである女――アオイ。初めて彼女に会った時に感じた既視感の原因が、この膨大な写真の中にあるような気がしたからだ。日付と案件ごとに整理されたフォルダを、新しい方から順に開いていく。
そして一つのフォルダの前で、マウスを操作する指が止まった。
『ホメロス精神医学研究所』
フォルダに書かれた名前で、過去の記憶が蘇る。
それは『脳から記憶を抽出する技術』の副産物。倫理観を無視した非人道的な研究の記録。
今から8年ほど前。正義感に燃え、社会の不条理を暴く正義のカメラマンだった自分は、この研究所で行われている悪魔の研究を、白日の元に晒そうとした。
今思えば危なっかしくて独善的な正義だ。
フォルダを開き、中の写真を一枚ずつ確認していたカメさんは、一枚の写真で指を止め、そこに映る小さな少女を凝視する。
頭に包帯を巻いた少女が、訝しむような目をこちらに向けている。
悪魔のような実験の被験者――
「アオイちゃん……」
ベッドで眠る恋人の寝息に紛れるほど微かに、カメさんはつぶやいた。