8年前――
ナルカミ•アオイ
15歳。
男は壊れてしまったおもちゃを見るような心底退屈そうな目で、目の前のベッドに横たわる少女を見下ろした。
少女の頭に巻かれた包帯からは、細い黒髪が覗いている。その下には白く小さな顔。輪郭の中央に開いた空洞のような目は、星のない夜空のようになんの揺らぎも見せる事なく、ただ惰性的に白い病室の天井へと向けられていた。
男ーーこの研究所の所長であり、精神科医でもあるツツミ•セイシロウは、視線を少女の顔から手元の資料へと移し、細身のハーフリムメガネを掛け直す。若くして所長の座に就くほどの器量を示すような、その鋭い眼光は資料の上に書かれた文字を追う。
両親は幼い頃に他界。
孤児院に預けられるも、院長から性的な暴行を受け、10歳の時に施設を出る。
それからは似たような境遇の子供達と徒党を組み、自暴自棄な生活を送る。日雇いバイトで日銭を稼ぎ、橋の下で肩を寄せ合い眠る。
無防備な彼らの生活は、時に理由もない暴力に見舞われた。自分達を脅かす者へ暴力で対抗する事で、争いの火種は徐々に大きくなる。同じような逸れ者集団との抗争や、反社会組織との対立。
彼女は擦り減っていた。
止まり木もないまま飛び続ける小鳥は、やがて力尽きて地面へと落ちる。
羽ばたく事に疲れたこの少女もまた、終わりない争いから解脱するための唯一の手段として、雑居ビルの屋上に立ち自ら地面へと吸い寄せられていった。
しかし彼女は死に損ねた。そして、今はこのベッドの上に居る。
「この資料、やけに詳しいね。どこ情報?」
「あ、えっと……」セイシロウの後ろに立った若い看護師の女が、慌てて手元の書類をめくる「先日検挙された……仲間の数人から聴取した情報らしいです」
「ふうん」
ほんと、最低の人生だな。
セイシロウは左手の資料を看護師の女性へと手渡す。女性はその資料と自分の手元の資料を重ねて、胸の前で抱える。そして不安そうな顔で、上司の後ろ姿を見つめた。
溜め息をついた、セイシロウは左手を伸ばして少女の首に触れる。
温かい。
命を持たない人形のような表情にも関わらず、その首は生きた人間のように温かい。アンバランスだ。いっそ、このまま永遠に眠ってしまった方が、自然な気もする。
セイシロウは左手で少女の首を掴み、その指に力を込めた。5本の指が、少女の白い肌に食い込む。
「え? あの、所長……あの、それ、あ……」
背後からは若い看護師の珍妙な鳴き声が聞こえる。セイシロウは反応してやるのも面倒なので、それを無視した。
少女の顔が赤く染まる。
見開かれた目では、血管が血液を走らせる。
しかし少女は呻き声一つ上げない。自分を死に追いやろうとする左手に、抗おうとするそぶりすら見せない。
生きる事に疲れてるのかよ。
こんな、ガキが。
セイシロウは左手を離す。
少女は激しく咳き込み、口の端から大量に流れ出た涎を病衣の袖で乱暴にぬぐった。そして焦点の合わない目でセイシロウの左手を一瞥してから、再び病室の天井を仰ぎ見る。
ああ、こいつ、いいな。
セイシロウは心の中で微笑んだ。
きっと、いい検体になる。
* * *
その療法を『命の道標(みちしるべ)』と読んだ。
過剰にエモーショナルなネーミングはセイシロウの趣味ではなかったが、無知な連中が振り翳す『倫理観』という伝家の宝刀から身を守る盾として、渋々そのネーミングを承諾した。
この技術の基礎を発見したヤマダ・サクラコは大学の同期でもある。もっとも、彼女が研究するのは『脳から記憶と感情をデータとして抜き出す』技術であり、セイシロウが譲り受けたものはあくまでその副産物にすぎない。
人間の脳への、記憶の上書き。
現在、この国の自殺者数は年間10万人を超えている。その理由は様々だが、生きる希望や喜びを見失った結果として命を断つ者の比率は、年々増加傾向にある。
何が人々にそうさせるのか。
セイシロウは『ミューズ』の台頭に、その原因を見た。
10年前に芸術専用AI『のミューズ』が開発された事で、創作というナイーブな趣味は、未来のない無価値な児戯へと変貌した。
画家を目指すもの、音楽家を目指す者、漫画家を目指す者……社会の歯車に適さない者達の間で、かつてはそれらの職業は逃げ道として機能していた。しかし今や、その道は完全に閉ざされてしまった。
行き場を失った情熱は、自身の魂も燃やし尽くす。
エビデンスはないものの、心を蝕まれた人々に対面していたセイシロウは、肌感としてその事実に気付いた。そして増え続ける絶望は、今まで主流であった薬物による療法だけでは、対処しきれない水位にまで達している。
『命の道標』は、そんな生きる希望を失った者達を生き存えさせる術だった。
生きる希望を失った者には、その脳に直接『生きる希望』を書き込んでやればいい。
それはある意味では洗脳に近い。人の頭の中を他人が勝手に弄り、ましてや存在しない記憶を植え付ける事など、倫理的にあってはならない行為だ。
しかし、今ある技術だけでは、自殺者数は増え続ける一方であることも無視できない事実だった。さらに、死までたどり着いてしまう者の背後には、その何千倍もの心を壊した者達が列をなしている。
誰もが触れるのを躊躇する現代の病巣。
しかし、誰かが画期的な解決策を見出さねばならない。
そこはまさにブルーオーシャン。
その大海に、セイシロウは大きな旗を掲げた。
苦しむ人を守りたい――そんな教科書通りの理想は、今となっては流した汗で滲んでしまった。金と、名誉と、会社から下された命令のために、セイシロウは研究を続けている。
* * *
検体の一人であるナルカミ・アオイの病室を訪れる。
少女は数日前と同じ体勢で、白い天井を眺めている。
セイシロウは窓を開けると、加熱式タバコを取り出しスイッチを押した。
研究所内は禁煙であるが、この部屋にだけは煙感知器が設置されていない事をセイシロウは知っている。だから、いつも喫煙所として使用させてもらっていたのだが、検体置き場所にされてしまった。
迷惑しているのはこっちの方だ。
明日はどこかの人権派団体が、ハイエナのような報道カメラマンらを引き連れて、研究所の査察に来るらしい。今まで本社が突っぱねてくれていたが、いよいよ制止が効かなくなってきたと漏らしていた。
閉ざされた箱の中で行われている研究は、どこからか溢れた情報によって人権を無視した洗脳実験との噂を招き、今や巷では『悪魔の研究』などと揶揄されているらしい。
ここらで一度、空気の入れ換えをしておかなければ、世紀の大発明もカビの生えたガラクタになり得る。
「上手くいなしとけと言われてもね……」
吐く煙と共に、セイシロウはぼやく。そしてベッドの上で無気力な表情を見せる少女の顔を見た。
当事者じゃない奴らは、感情に任せてこの研究を非難するだろう。
倫理だとか、人権だとかいう物差しで、杓子定規に他人の価値観を図ろうとするだろう。
「でも、お前は、早くそこから逃げ出してえよなぁ」
セイシロウも孤児だった。
口下手で協調性のない性格のため、学生時代は常に謂われない暴力に晒されていた。
その人生には、夢も希望もない。
ただその日を生きる為に学びを続けた結果、今の地位に辿り着いてしまっただけだ。
金とか、名誉とか――そんなありきたりな言葉を口にする事で、セイシロウは自身の研究の目的を誤魔化している。
彼もまた、この希望のない世界から救われたかった。
* * *
カメさん――カメヤマ・カズキは、ホメロス精神医学研究所の前に並ぶ列のしんがりに立っていた。
この箱の中では、人権を脅かす悪魔の研究が行われている。同席する人権団体は、自分の報道カメラマンとしての仕事にいつも苦言を呈しているいけすかない奴らだったが、今回はその陰湿さが頼もしかった。
この場所で行われている『悪魔の研究』を白日の元に晒し、法の元で適正な判断を仰ぐべきだ。
ミューズ、無価値者(ワースレス)……本来進むべきではない領域に足を踏み入れた事で、この世界は明らかに狂い始めている。
カメヤマは、正義の一歩を踏み出した。