研究所の中はやけに静かで、消毒液のような刺激臭と、老人の吐息のような生ぬるい臭いが漂っていた。
フリーの報道カメラマンであるカメさん――カメヤマは、眉間に皺を寄せながら、前を歩く人権団体に続いて、白い壁に囲まれた狭い廊下を歩いた。
廊下の所々には、専門家に向けての対外的な説明資料なのか、謎のグラフや写真が掲示されている。専門用語が多すぎて、歩きながら眺めるだけではその内容を読み取れない。
一団を誘導していた女性が足を止め、一枚の資料を指し示しながら、芸術専用キカイ『ミューズ』についての説明を始めた。
10人ほどの人権団体のメンバーの中には、そういった知識に疎い者もいる。前提条件としての知識を揃えておかないと、これからされるであろう研究の説明が、無自覚な悪意を持って捻じ曲げられかねないからだろう。
殊勝な対応だが、カメヤマにとってその手の知識は、近所のスーパーの安売りチラシ程度には見慣れたものだった。しばし暇を持て余し、周囲を見回す。
そして、左側の部屋の引き戸が少し開いている事に気が付く。好奇心に駆られたカメヤマは、その隙間から中を覗き込んだ。
そこには少女がいた。
10代半ばか、もしかしたらそれよりも幼いかもしれない。少女はベッドから上体を起こし、空な目でこちらを見ていた。
病的に青白い肌と、幼さを際立たせる細く艶やかな黒髪。しかし、その表情には同年代の少女達が持つような生気がない。隙間から覗くカメヤマを見ているというよりは、ただ単にその辺りの空間を視覚で捉えているにすぎない、そんな表情だった。
あんな小さな少女も、実験体なのか?
カメヤマの腹の底から、怒りに近い感情が湧き起こる。
その感情は彼の右手に乗り移り、無意識のうちに彼の『正義の鉄槌』とも言える撮影機器のスイッチを押していた。
何枚かの画像が、彼のデジタルカメラに収められる。
本来であれば、撮影の際には同伴者の許可をとる必要がある。しかし、彼らが対外的に見栄えを整えた景色のどこに、自分が捉えたい『真実』が存在してるのだろうか?
カメヤマはカメラから記憶媒体を取り出し、腰バッグのポケットへと隠した。そして予備の記憶媒体を差し込むと、何事もなかったかのように同伴女性のつまらない説明へと向き直る。
全てを諦めた少女の目が、カメヤマの眼底にこびりついていた。
* * *
ホールにはパイプ椅子が並べられ、カメヤマ達含む10数名はそこに座らされた。
ホールの前方では、メガネをかけた長身の男が、つまらなそうな顔で手元のデバイスを読み上げている。
歳はカメヤマとそう変わらないだろう。もっとも、自分はなんの後ろ盾もない一介の報道カメラマン。対する目の前の男は、国家を左右する権力を持つ民間大企業の研究施設を任された研究者。その発信力の差は歴然であった。
「えー、この研究は、人心を惑わす『悪魔の研究』と巷では揶揄されていますが、それはこの研究の本質を理解していないと言わざるを得ません」所長の男は面倒臭そうに後頭部を掻く。「人の心は余りにも弱い。柔らかな土壌に根を張った、一本の草花のようなものです。それが花を咲かす為には、衣食住を保証された生活と、そして『希望』という水が必要です」
説明の方向性は悪くない、とカメヤマは思う。人々の感情に訴えかけるようなストーリー展開は、エモーショナルなものに飢えている眼前の猿達には効果的だろう。
一つ問題があるとすれば、それを読み上げている所長が、明らかに苦虫を噛み潰したような表情をしている点だ。下手すると自分以上に、この男は自身の読み上げる『美談』を嫌悪しているのかもしれない。
「皆さんも、絶望の味は知っていると思います。大切な人の死や、命をかけて目指していた目標の消失。希望というものの存在を知らないまま、死ぬために生きているような人々は、この世界に大勢います。皆さんが助けようとしているのは、まさにそんな方々なのではないですか? そして今までの活動の中で、救えるべき人を救えなかったという苦い経験も当然あるでしょう。思い出してみてください、皆様の懸命な尽力も虚しく、絶望の中で死んでいった方々の顔を……」
所長の男は、そこで言葉を切って目の前のカボチャを眺めた。そして、無表情のまま、再び説明を続ける。
「私達の研究は、そんな人々を救うためのものです。言葉や、物質だけでは与えられない『希望』や『生き甲斐』を、絶望で喘ぐ人々に与えるものです。それは、ほんの一時でも構わない。眠れぬ夜を過ごしていた人々が、しばしの安眠を享受できる間。生きる意味を見失った人々が、新たな生きる意味を見出すまでの間……。私達の生み出した『命の道標』という技術は、彼らに再び立ち上がる意思を与えるものなのです」
所長の男はそこでデバイスを置き、再び目の前のカボチャを見た。女性所員が質問を促すが、誰一人として口を開こうとする者はいない。
感情で動くものは、感情によって流される。
所長の語る美談に、理詰めで反論できる者はこの場にはいないようだった。
カメヤマの脳裏に、先程の少女の顔が過ぎる。
「でもそれは、あなた達の企業のマッチポンプでしょう」
沈黙を穿ち、カメヤマは言った。本来は撮影担当であるカメヤマに発言権はない。しかし、このままなあなあで査察が終わるのであれば、自分がここにきた意味は何一つ無くなる。
「その絶望を生み出したのもまた、あなた達でしょう? 例えば芸術専用キカイ『ミューズ』。あれの台頭で、自己表現の場を失い、絶望を感じている者だって大勢いる。そんな人々を『無価値者(ワースレス)』と読んで技術の発展のために使い捨てて、心を壊せば『命の道標』で洗脳する。全ての金や利権が、あなた達を中心に回ってるじゃないですか?」
「不適切な発言は撤回してください! 無価値者(ワースレス)ではなく、我々は彼らを『調査員』と呼び、相応な報酬を支払っています!」
所長を通り越して、女性所員が叫んだ。
カメヤマはその女性社員を一瞥すると、所長の男を見た。彼の口角が少し上がったような気がした。
カメヤマは続ける。
「先程、ベッドに座る少女を見ました。彼女もまた、この研究の被験者ですよね? あの年代の子供には、大それたものじゃなくていい、些細な喜びが日常にあるべきだと思いませんか? ご飯が美味しいとか、クラスの男子がかっこいいとか、そんな小さな『喜び』の積み重ねが、大きな『生き甲斐』に繋がっていくんです。それを無視して、記憶を弄られ、偽りの希望を植え付ける事が正しいと、私は思わない。ちゃんと彼女の話を聴き、寄り添ってあげる事で、ちゃんと自分の意思で立ち上がる事が出来るはずなんです」
「146箇所」
黙って話を聞いていた所長が呟く。
カメヤマは言葉を切る。
「なんの数字かわかるか?」
「……わかりません」
「お前の言ってた『少女』の古傷の数だよ。切創、裂傷、骨折の跡。身体の表面だけじゃない、膣内や直腸にもいくつかの傷があった。あの少女はそういう生活を送ってきた。戦ってきたんだよ、自分を絶望に突き落とそうとするものとな。傷ついて、歪んで、捻れてしまった人間を立ち直らせる為に、一体何百個の些細な喜びが必要なんだ? 少なくとも、彼女の古傷の数よりは、必要だろうな」
所長――セイシロウの言葉は、聴くものの言葉を奪った。誰も、カメヤマさえも何も言えず、ただ次の言葉を待った。
「あんたの言う事も一理ある。予防的観点から考えれば、こんな脳みそを弄る方法なんてやらないに越したことはない。でもな、それじゃ間に合わない人間だって、この世界には大勢居るんだよ」
* * *
そして、アオイは目覚めた。
そこは見慣れた病室だった。
見慣れているはずなのに、なぜかいつもよりも輝いて見えた。
シーツの目が覚めるような白も、照明の煌めきも、窓ガラスの艶やかさも、窓の外に見える雲の荘厳さも。
かわいらしい声の女の人が、携帯デバイスで誰かに連絡を入れる。暫くすると眼鏡をかけた男が現れた。その男は、この研究所の所長。元から知っていた人物のはずなのに、初めて知ったかのように記憶の真綿へと染み込む。
そしてアオイは、自分の心の中に、熱い想いが滾っている事に気付く。その熱は心臓から指の先まで広がり、今まで感じた事のないような活力を生んだ。
「彼は……」
そう、自分には大事な人がいる。
その人がいれば、世界が虹色に変わる――そんな最愛の人が。
「私の、その……恋人は?」
忘れるわけがない。
それは、自分が生きる希望なのだから。
所長は優しい笑みを浮かべながら、諭すようにアオイへと語りかける。
「君の婚約者なら、仕事の都合でどうしても離れなければならなくなったらしい。でも、必ず帰ってくると、そう言っていたよ」
そして、床に置かれた大きな紙袋から、大きくて丸いペンギンのぬいぐるみを取り出した。
「これは、君の恋人からの預かり物だ。君が目を覚ましたら渡して欲しいと、そう頼まれていたんだ」
アオイはぬいぐるみを受け取り、抱きしめる。
うっすらと、恋人の匂いがするような気がした。
「お腹、空いたな。美味しいものが食べたい」
安堵と共に、優しい空腹を感じる。
「ああ、もちろん」
所長は頷いた。