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第14話 Rapunzel -vier-

 生き物の根底にあるのは恐怖だ。恐怖とは、すなわち死を意味する。死を恐れる本能があるからこそ、生き物はそれを回避しようとし、結果として恐怖を感じるのだ。ラプンツェルもまた、恐怖を抱いていた。

 彼女の物語に狼は登場しない。ラプンツェルの物語には狼の姿は描かれていないにも関わらず、彼女は根源的な恐怖に怯えていた。それはまるで、童話メルヒェンに宿命づけられた運命のようなものだった。ドイツに広がる黒い森、その奥底に潜む死の担い手。その象徴が狼であり、あるいはそれは性的欲望に満ちた男の姿を取ることもある。だが、それは本質的に些細な違いに過ぎない。それらすべてに、警鐘を鳴らすための教訓という名の伝承、それが童話メルヒェン存在理由レーゾンデートルなのだ。それゆえに、狼は恐ろしい。


 黒いオーラを纏った九朗が赤ずきんの元を離れ、ゆっくりとラプンツェルたちへと近付いていく。その異様な姿は見る者に圧迫感を与え、ラプンツェルも思わず身を強張らせた。しかし、彼女は恐怖を抑え込むように意を決し、九朗と真正面から対峙した。


 ラプンツェルの黄金の髪が伸び、鋭い切っ先となって九朗を襲う。九朗が腕を振り上げるたびに、ラプンツェルの髪は切り刻まれ、周囲には黄金の残滓が舞い散った。

 ならばと、ラプンツェルの読み手マスターである男の能力である茨の蔓も加勢し、黄金の髪と茨の蔓が連携して九朗を襲う。しかし九朗は人間の動きとはかけ離れた姿勢で、深く上半身を前に落としたかと思うと、異様な速さで駆け出し宙を舞った。その両腕と両脚から黒い爪を作り出し、四肢を余すことなく使って髪と茨を悉く切り落としていった。


 獣の咆哮が辺り一帯に響き渡り、空気の揺れる振動が肌を刺すように伝わってくる。


 さすがのラプンツェルも焦りを隠せない。それでも、彼女は黄金の髪を伸ばし九朗への追撃を試みた。ラプンツェルは自らの髪を円錐状に形作り、それをドリルのごとく高速回転させる。下手に触れば攻撃を仕掛けた側も無事では済まない。しかし、九朗は自らが傷付くことを一切顧みず、大胆にも回転するドリルを掴み、その爪を深々と埋め込んで回転を強引に止めてみせた。


「なっ……! なんてことを!」


 ラプンツェルは思わず驚愕の声を上げた。その言葉には彼女の動揺が隠しきれなかった。



 その瞬間だった。



 重い音が響いた。それは何かが炸裂する音、一発の銃声。その行為をこの場で成し得る者は、赤ずきん以外にあり得ない。


 ラプンツェルは、まるで周囲の時間が遅く流れるかのように感じた。スローモーションの世界の中で彼女は目撃する。ズタボロになった赤ずきんが、その小柄な体躯には不釣り合いな長い狙撃銃スナイパーライフルを腹這いの姿勢で構えている。その銃口から発射された凶弾だんがんは、ラプンツェルの目の前を掠め、空気を震わせながら後方へと放たれた。狙いはラプンツェルではない。その標的は、彼女の読み手マスターだった。


 気付くのが遅すぎた。ラプンツェルが後ろを振り返るよりも早く、凶弾だんがんは男の眉間を正確に貫いていた。男の顔は大きくのけ反り、その傷穴から血液と脳漿が溢れ出す。流れ出る赤と白の混ざり合った液体が、彼の倒れ込む動きに合わせて地面を染めていく。男はその反動に導かれるように、後方へと大きく崩れ落ちた。


王子様マスター!」


 ラプンツェルが男の方へと身体を向け駆け寄ろうとした。それは、致命的な判断だった。彼女は目の前の敵を完全に忘れてしまっていた。その隙を狼が見逃すはずもない。

 肉が抉れる音が響く。ラプンツェルは背後から九朗の黒い爪に貫かれていた。胸から腹、臍に至るまでを爪が貫き、彼女のドレスは深紅に染まっていく。

 ラプンツェルは最後の力を振り絞り、黄金の髪を九朗へと向けた。しかし、それよりも早く九朗は彼女の背中を蹴り飛ばした。ラプンツェルの身体は宙を舞い、豪奢な玉座へと激突する。激しく身体を打ち付けられた彼女は、大量の血を口から吐き出した。もはや勝負は決した。


 ラプンツェルにはもはや戦う力は残されていなかった。辛うじて這いつくばりながら、玉座の横に倒れている自らの読み手マスターの元へと向かう。男は既に事切れていた。それでもラプンツェルは彼の元へ辿り着き、その頭を優しく胸に抱きかかえた。



     ◇



 赤ずきんがよろめきながらラプンツェルの元へと辿り着いた。その右手には拳銃ハンドガンが握られている。そして、彼女はその銃口をラプンツェルの頭に突き付けた。


「終わりだ髪長姫ラプンツェル。悪いがあたしに殺されろ。今の所有者あいつじゃお前の尊厳なんか関係なく犯し尽くすだろうよ。愛した男が他の女を犯すとこはさすがに見たくねぇ。それに、同じように愛した男との平穏な生活を望んだお前を、そんな目に合わすのも忍びねぇ……」


 ラプンツェルが億劫そうに赤ずきんの方へと視線を向ける。


「赤ずきん……あなたは本当に読み手マスターを愛しているの?」

「またそれかよ!」


 赤ずきんは、何度も繰り返されるこの問答に、明らかな苛立ちを見せた。


「……正直に言えば、わかんねぇ。それが『本当』なのか『偽物』なのか。でも、そんなことはどうだっていい。今のあたしの気持ちがすべてだ。あたしが愛していると思うなら、それで十分なんだ! たとえそれが偽りだったとしても、今のあたしの気持ちを否定する権利は誰にもねぇ! 例え神にだって、あたしのこの気持ちを否定させはしねぇ!」


 ラプンツェルは静かに目を閉じ、微かに微笑んだ。


「……そう。それでいいのよ、赤ずきん。でも、グリムおとうさまはそんなに甘くはないわ。……気を付けなさい。……貴女もきっと、呪いに苦しむことになるわ」


 銃声が響き渡り、ラプンツェルは光の粒子となって魔導書グリモワールへと戻っていった。残されたのは、愛された男の冷たい遺体だけだった。


 赤ずきんは静かにラプンツェルの魔導書グリモワールを回収すると、九朗の方へと向き直る。九朗は黒いオーラを纏い、低く唸り声をあげながら頭を抱え、しゃがみこんでいた。その姿を見つめながら、赤ずきんはそっと九朗へと歩み寄った。


「わりぃな……。さすがに髪長姫ラプンツェル犯させるやらせるわけにはいかなくてよ。尊厳プライドぐらいは守ってやりたくてな……」


 そう言うと赤ずきんは九朗の顔を両手で抱き留めた。


「さすがに欲求不満だろ? 灰被りアシェンプテルの時と違ってお預けだからな。いいぜ。犯しやりたいなら犯せやれよ。苦しいだろ? お前の好みの身体じゃないかもしれねぇが、お前になら喜んで股開いてやるよ」


 しかし、赤ずきんの意図とは裏腹に、九朗は赤ずきんの両手を振り払った。そして、雄叫びを上げながら自らの頭を地面に繰り返し打ち付ける。その衝撃音が辺りに響き渡り、異様な光景が場の空気をさらに重くした。


「お、おい! 何やってんだ! やめろ! あたしを犯せやればそれで済むだろ? 我慢する事ないんだぞ!」


 赤ずきんは慌てて九朗の頭を抑え込むが、しかし九朗は尚も暴れ続ける。


「なんでだよ……なんでなんだよ! お前はそんなにあたしが嫌いか? こんな粗野で下品な女は嫌いか? 赤ずきんの処女はじめてを散らしたのは狼だろうが! なんであたしに手を出さない! このままじゃ壊れるぞ!」


 そんな赤ずきんの気持ちを知ってか知らずか、九朗は変わることなく暴れ続けていた。その姿を見つめる赤ずきんの胸に、得体のしれない違和感が湧き上がる。本能的に、狼がその欲望に耐え続けることなどあり得ない。殺戮衝動が常に存在するのに、性的衝動だけを抑え続けることなど不可能だ。現に、シンデレラの時にはその衝動を発散していた。おそらくラプンツェルでも同じことが起きていただろう。だが、自分にだけその対象が及ばない……。一切手を出さない。


 いや、手を出さないのではなく、手を出せないのではないか?


「まさか……まさかまさかまさか! お前……、あたしを抱かないんじゃなく……抱けないのか? 手を出したくても出せないのか? あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!」


 赤ずきんは気付いた。気付いてしまった。何故、九朗が、狼が赤ずきんを犯すことができないのか。それは所有者マスター魔導書グリモワールの関係だからではない。九朗が赤ずきんに興味がないからではない。


「これか……! これが、あたしの『呪い』なのか! 愛する者に『永遠に愛されない』呪い! 決して報われることのない、否定された愛! 拒絶された愛! グリムおやじ童話メルヒェン筋書シナリオから逸脱したあたしへの『呪い』だというのか!」


 赤ずきんは絶望の淵に立たされていた。愛すれば愛する程、相手を苦しめる。それは当然のことだった。本来の『赤ずきんの筋書シナリオ』では、狼を愛するようには作られていない。だから、その愛が叶うことはない。そう定められているのだ。


「グゥゥゥゥゥゥリィィィィィッィィィィムゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ!」


 赤ずきんが吠えた。その声には、自らの創造主へのこの世のすべての憎しみと怨嗟が込められていた。


「殺してやるぞ、グリムおやじ! 殺す、殺す、殺す、殺す、殺す! コロス、コロス、コロス、殺してやる!」


 目を見開き、地獄の底から湧き出るような恨みと嘆きに支配されながら、赤ずきんは絶望の雄叫びを上げた。


 ひとしきり叫んだ後、赤ずきんはその目に涙を溜めながら九朗の頭を抱きかかえるように飛びかかった。


「ごめん……ごめんなさい……あたしのせいでお前は……! この償いはきっとする! あたしの命だって、なんだってくれてやる! だから……だから……!」


 そう言うと、赤ずきんは九朗の顔にそっと近づき、優しく口づけをした。その瞬間、九朗を包んでいた黒いオーラが徐々に消え、その目が静かに伏せられる。意識を失ったように九朗の身体から力が抜け、その場にだらんと倒れ込んだ。


 赤ずきんは九朗の側に座り込むと、その頬にそっと手を添えた。意識のない彼の顔には、安らぎと痛みが交錯しているように見えた。


「どうしてお前は……こんなにも苦しんでるんだろうな?」


 赤ずきんは問いかけるように声を漏らしたが、当然返事はない。ただ九朗の呼吸の微かな音が響くだけだった。彼女の胸に、重苦しい思いが押し寄せる。


「もし、あたしがいなければ……お前はもっと楽に生きられただろうか?」


 手を握りしめる赤ずきんの中で、愛と自責の念が入り乱れる。


「それでもお前を手放せないあたしは……結局自分勝手なんだよな」


 小さな声でそう呟くが、その言葉には愛しさも滲み出ていた。


 しかし、彼女は再び顔を上げ、九朗に優しく微笑みかける。


「だから、絶対に終わらせる……お前がこれ以上傷つかないように。……この落とし前は、きっちりグリムおやじにつけさせる。……だから、わりぃ。今はここでさようならアウフ・ヴィーダゼェンだ。帰ってきたら……いっぱい可愛がってくれよな、所有者マスター……」


 そう言うと、赤ずきんは意識を失った九朗をその場に残し、静かに立ち去った。



 九朗が意識を取り戻した時には、赤ずきんの姿は何処にもなかった。


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