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第18話 Hänsel und Gretel -eins-

 酷い話を見てしまった。九朗の脳裏には、魔導書グリモワールに記された童話メルヒェンが、まるで映画のように再生されていた。その物語のタイトルはヘンゼルとグレーテルヘンゼル・ウント・グレーテル。両親に捨てられた兄妹が森をさまよい、お菓子の家に辿り着く。そして、その家に住む魔女を倒して親元に戻る。自分の知っている話は、確かにそんな話だった。


 だが、この魔導書グリモワールに記されていた物語は、どこかが違う。この物語には『魔女』は出てこないのだ。そこに登場する老婆は、実は魔女などではなかった。彼女は子供たちを拾い、世話をしてくれた優しい人物だったのだ。だが、兄妹はその事実を勘違いしてしまった。


 いや、これは子供の無邪気さ故の絶対的な正しさによる殺人だ。子供は時に残酷だ。捕まえた虫の脚をもぎ取り、翅を毟り、頭をねじ切る。その行為に命の尊さなど微塵も意識されていない。純粋で、純朴で、純真であるが故に、残忍で、残虐で、残酷なのだ。


 この無邪気さは非常に危険だ。九朗は以前、赤ずきんの童話メルヒェンを見たことがある。その物語には残虐性など皆無だった。そこに描かれていたのは、ただただ悲しい恋の物語だった。だからこそ、赤ずきんは愛について狂おしいほどに拘るのだろう。

 では、このヘンゼルとグレーテルの物語はどうだろうか。罪の意識すらない殺人。その残虐性はもはや狂人サイコパスの域に達している。赤ずきんとは比べ物にならないほど危険な魔導書グリモワールだ。


 しかし、今はそれに縋るしかない。赤ずきんの元へ辿り着くためには、この道以外に選択肢がないことを九朗は理解していた。だからこそ、手綱をしっかりと握り、気を引き締めなければならなかった。


 辺りを満たしていた眩い光が次第に影をひそめていく。周囲が薄闇に包まれる中、ふとそこに立っている二つの小柄な人影が目に入った。綺麗な茶髪にハンチング帽を被り、緑のジャケットと短パンを身に着けた少年。そして、腰まで届く茶色の長い髪に緑のケープをまとい、それに合わせた緑の長いスカートと白いエプロンドレスを身につけた少女。赤ずきんより少し背が低いだろうか。そこに居たのは、絵に描いたようなヘンゼルとグレーテルそのものだった。


 二人が静かに目を開く。その瞳には深く、吸い込まれそうなほどの緑色が宿っている。その瞳が九朗の方をじっと見据えていた。


「あなたが……お父さんマスター……なの?」


 少女が静かに口を開いた。その声は、透き通るように美しく、どこか神秘的な響きがあった。


「ああ、そうだ。僕が君たちを解放した。一応確認するけど、君たちはヘンゼルとグレーテルで間違いないかい?」


 九朗が落ち着いた声で尋ねると、少年と少女はお互いの顔を見合わせ、無邪気に微笑んだ。そして次の瞬間、二人同時に九朗へと勢いよく抱きついてきた。


お父さんマスター! お父さんマスター! お父さんマスター! 兄さんヨハネス! 素敵なお父さんマスターよ!」

お父さんマスター! お父さんマスター! お父さんマスター! 姉さんマルガレーテ! 素敵なお父さんマスターだね!」


 二人の声は喜びと興奮で溢れ、その純粋さは場の空気を一気に変えた。突然の出来事に九朗は動揺を隠せなかった。赤ずきんは子供のような容姿をしているものの、その性格は子供らしさとは程遠く、せいぜい生意気な少女といった印象だった。しかし、この二人は紛れもなく子供そのものだった。無邪気で純粋な振る舞いが、九朗にはどうにも扱いづらく感じられた。彼はこれまで子供と接する機会がほとんどなかったのだ。


「……とりあえず、二人とも一度離れてくれるかい? ちゃんと自己紹介をしよう」


 九朗がそう促すと、少年と少女は素直に九朗から手を離し、彼の手の届く位置まで下がった。その動作には、どこか従順さと期待が混ざり合っているように見えた。


「改めて、キミたちの読み手マスターになったと思う久我九朗だ。九朗が名前だよ。頼りないかもしれないけど、これからよろしく」


 九朗が優しく柔らかな笑みを浮かべると、二人の顔にも自然と微笑みが広がる。


「はじめまして、お父さんマスター。私はグレーテル。末永くよろしくお願いします、お父さんマスター

「はじめまして、お父さんマスター。僕はヘンゼル。これから末永くよろしくね、お父さんマスター


 二人は言葉を交わすと、小さく頭を下げた。その仕草はなんとも愛らしい。まさか、これがあの魔導書グリモワールに描かれていたヘンゼルとグレーテルと同じ存在とは、とても思えないほどだ。


姉さんマルガレーテ、いい人に出会えてよかったね」

兄さんヨハネス、いい人に出会えてよかったわね」


 二人はまたお互いの顔を見合わせると無邪気な笑みを浮かべた。


「キミたちに、実は伝えておかなければならないことがあるんだ。僕はキミたち以外に、もう一冊の魔導書とも契約している。その魔導書の名は『赤ずきん』。彼女は今ここにはいないけれど、できれば彼女とも仲良くやってほしい。どうだろう?」


 九朗が慎重に話を切り出すと、グレーテルが一瞬考えた後、にっこりと微笑んだ。


「まあ、赤ずきんロートケップヒェンもいるのね。私、あの娘は嫌いじゃないわ。仲良くしてあげてもいいわよ。ねえ、兄さんヨハネス?」


 グレーテルの言葉を受けて、ヘンゼルも穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。


「そうだね、姉さんマルガレーテ。僕も赤ずきんロートケップヒェンは嫌いじゃないよ。仲良くするよ、お父さんマスター


 二人の素直な反応に、九朗は少しだけ肩の荷が下りた気がした。赤ずきんの方は、この二人を気に入ることができないだろう。浮気だなんだと癇癪を起すに違いない。だが、九朗が言い聞かせれば渋々でも了承してくれるだろう。この子たちが赤ずきんを毛嫌いしないのであれば、きっと何とかやっていけるはずだ。そう思うと、九朗の胸に少しだけ安堵の感情が広がった。


「それで赤ずきんはどこにいるんだい、お父さんマスター?」

「それで赤ずきんはどこにいるのかしら、お父さんマスター?」


 二人は声を揃えたように同じ質問を九朗に投げかけてくる。その言葉の重なりに、九朗はふと二人の特徴に気づいた。同じ言葉を繰り返すその様子は、まるで双子のようだ、と。


「その事なんだが……実は……」


 九朗は困ったように一度言葉を切ると、落ち着いた声で二人に事の経緯を語り始めた。シンデレラに襲われた出来事、音楽家とラプンツェルとの戦いの記憶、そしてエーミールから二人を託されたという話。そして何より、赤ずきんが失踪してしまったという事実を。

 二人はじっと九朗の話に耳を傾け、その深い緑色の瞳には純粋な興味と、不安の入り混じった感情が浮かんでいた。


「それで僕は赤ずきんを探しているのだけれども、キミたちで彼女の居場所がわかったりはしないかい?」


 九朗の問いかけに、二人はまた顔を見合わせた。その瞬間、少し困ったような表情を浮かべながら、肩を竦める。


「残念だけど、わからないよ。ねえ、姉さんマルガレーテ?」

「残念だけど、わからないわね。ねえ、兄さんヨハネス?」


 二人のやり取りには、どこか無邪気さと同期した調子が感じられた。九朗はその返答にため息をつきかけながらも、二人の素直な仕草を見て、少し笑みが零れた。


「そうか……それならばエーミールさんの居場所はわからないか? 君たちを託してくれたのはエーミールさんなんだ」


 二人は一瞬、その名前が誰を指しているのか分からないといった様子を見せたが、やがて思い当たったのか「あぁ」と呟いた。


「あぁ、叔父様ルートヴィヒのことね。あの小児性愛症者ロリコンね」

「あぁ、叔父様ルートヴィヒのことだね。あの小児性愛症者ペドフィリアね」


 九朗は思わず眉をひそめた。魔導書というのは、どいつもこいつも口が悪すぎるのではないだろうか? 侮蔑的な表現を使うのは赤ずきんだけだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。それとも、自分はそういう魔導書だけを引き寄せる星の下に生まれてしまったのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。


「あの小児性愛症者ペドフィリアの居場所なら、もしかしたらわかるかもしれないよ。この国にいるんでしょ?」

「あの小児性愛症者ロリコンの居場所なら、もしかしたらわかるかもしれないわ。この街にいるのでしょう?」

「本当か! なら案内してくれないか?」


 九朗は思わず声を弾ませた。か細い光ではあるが、彼にはそれが光明に思えた。しかし、二人は何か恥ずかしそうにもじもじと動き、案内をする気配は感じられなかった。


 九朗は不思議そうに二人を見つめた。その視線に気づいたのか、二人はやがて口を開いた。


「教えてあげてもいいけど……その代わり、ご褒美が欲しいなぁ……」

「教えてあげてもいいわ……その代わり、ご褒美が欲しいのぉ……」


 二人は舌ったらずな甘えたような口調で九朗に詰め寄ってきた。その仕草には子供らしい無邪気さがあるはずなのに、どこか妙に妖艶さを感じさせる。幼い顔が少し紅潮しているのが、その原因だろうか。


「ご褒美……かい? 僕は君たちに何をあげればいいのかな?」


 九朗は冷や汗をかきながら、恐る恐る尋ねた。すると、二人は同時に声を揃えて答えた。


「「抱き締めて、頭を撫でて欲しいの!」」


 その言葉に九朗は一瞬固まり、思わず自分の内面を振り返り恥ずかしくなった。自分は相当汚れているのではないか……そう思わずにはいられなかった。


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