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第20話 Hänsel und Gretel -drei-

 気が付くと、九朗と双子は鬱蒼とした森の中に立っていた。辺り一面を覆うのは密集した針葉樹。だが、それは杉の木とは少し違う葉の形状をしているようにも見えた。空気は湿気を含み、薄暗い靄のような霧が立ち込めている。そのせいで視界は悪く、森の奥はまるで闇に溶け込むかのようだった。

 九朗は視線を上げた。時間を確認しようと太陽の位置を探すが、木々の枝葉が重なり合い、空を覆い隠してしまっている。わずかな隙間から覗く光も乏しく、時刻を知る手がかりは得られなかった。ただ、これが夜ではなく昼間であることだけは確かだった。その柔らかな光が、木々の間を縫うように差し込んでいるからだ。


「ここは……何処なんだろう?」


 九朗は辺りを見回しながら呟いた。薄暗い森の中、霧が漂う重苦しい空気が不安を煽る。双子も九朗に続くように周囲を見渡し、その視線が木々の細部に留まった。


お父さんマスター、これはトウヒの木だね。もしかしたら、ここはドイツドイチュラントかもしれないね」

お父さんマスター、これはトウヒの木だわ。もしかしたら、ここは黒き森シュヴァルツヴァルトかもしれないわ」


 二人が口にした『シュヴァルツヴァルト』。それはドイツ南西部、バーデン地方に広がる有名な森。フランスとの国境沿いに位置し、その名は『黒い森』を意味する。


 あの一瞬の出来事で、九朗と双子は海を越え、山を越え、国を越えて、遥か彼方の地に辿り着いてしまったというのだろうか。その現実は信じがたいものだったが、目の前の景色がそれを否定していた。


 ここが一体どこなのか。それは定かではないにしろ、この近くに赤ずきんがいることだけは確かだ。エーミールがそう言っていたのだから、迷っている暇はない。九朗はすぐにでも赤ずきんを見つけなければならないと決意した。


「……ヘンゼル、君の能力で赤ずきんの居場所を突き止めてくれるかい?」


 九朗は双子のヘンゼルに期待を込めて尋ねる。エーミールを見つけた時のように、ヘンゼルの『銀白に光る小石』なら、赤ずきんの居場所を見つけることができるに違いない。そう九朗は踏んでいた。

 しかし、ヘンゼルは申し訳なさそうに答えた。


「ごめんなさいお父さんマスター。それはできないんだよ。あれは月の綺麗な夜にしか効果を発揮しないんだ。それに、僕が赤ずきんのことを知っている必要があるんだ。僕はまだ彼女に会ったことがないから、彼女の居場所はわからないよ」


 九朗はヘンゼルの言葉に驚きつつも、事情を理解しようと努める。その能力に頼れないとなると、別の方法を考えねばならなかった。


 困ったことになったと九朗は思った。確かにこの近くに赤ずきんがいることはエーミールの言葉から間違いないのだろう。しかし、むやみやたらに探すのは愚の骨頂だった。見渡す限りの森は、まるで富士の樹海を想起させるかのような密度で木々が立ち並んでいる。方向感覚を失えば、彷徨い続ける可能性が高い。それこそヘンゼルとグレーテルの童話のように、何日もこの森の中で迷い続けることになるかもしれない。


 どうしたものかと九朗が考え込んでいると、服の裾を控え目に引っ張る者がいた。振り返ると、それはグレーテルだった。


「大丈夫よ、お父さんマスター。あそこ、ほら、見てみて」


 グレーテルが指差した方向には、最初はただ木々があるだけに見えた。しかし、よく目を凝らしてみると、木々の合間からぼんやりとした何かが浮かび上がっている。大きな黒いシルエット……。段々と目が慣れてくるにつれて、その正体が少しずつ明らかになってきた。

 それは、灰色の石と赤みがかった煉瓦で造られた荘厳な環状囲壁リングマウァーと、天を突くように聳える見張り塔ベルクフリート。その姿は、かの有名な新白鳥石ノイシュヴァンシュタイン城とは異なる趣を持ち、むしろロンネブルク城のような山城の風貌に近い。遠目からはその詳細まではわからないが、圧倒的な広さと大きさを備えた西洋の城であることが明らかだった。


「まさか、あの城に赤ずきんがいるのか……?」


 九朗はその荘厳な姿に圧倒されながらも、何かを確信したように呟く。


「ええ、お父さんマスター。おそらくあそこにいるんだと思うわ。ねぇ兄さんヨハネス?」

「うん、お父さんマスター。たぶんあそこにいるんだと思うよ。ねぇ姉さんマルガレーテ?」


 九朗は思案に暮れていた。手がかりがない以上、あの城が重要な意味を持つことは明白だった。だが、赤ずきんが何故あの城に居るのか、それが九朗の疑問を捉えて離さない。もしかすると、あの城には目的のグリム兄弟がいるのではないだろうか。そして赤ずきんは敵……であるかはわからないが、ともかくその本丸へと乗り込んだ可能性がある。


「二人に聞きたいんだけど、あそこにグリム兄弟がいる可能性はあるかな?」


 九朗は双子に問いかけた。双子は不思議そうな顔をしてお互いに目を合わせた後、慎重な様子で答えた。


「わからないよ……けれどもお父様グリムがいないとも言えないよ。彼らは変人だからね」

「わからないわ……けれどもお父様グリムがいないとも言えないわ。彼らは狂人だものね」


 明確な答えが得られるわけではなかったが、九朗は考えをまとめつつ決断した。とにかく城に近づき状況を確認するしかない。もしかすると罠である可能性も頭の片隅に残しておきながら、それでも城へ向かう以外の選択肢はないと感じていた。


「わかった。ともかく、もう少し近づいてみよう。今は少しでも情報が欲しいからね」


 そう言って、九朗と双子はゆっくりと慎重な足取りで、件の城へ向かって歩みを進めていった。



     ◇



 木々をかき分け、道なき道を進む九朗と双子。その足元には湿った土が広がり、枝葉が絡みつくたびに進むことの難しさを感じる道中だった。ふいに九朗は何かを思い出したように口を開き、双子へ問いかけた。


「そういえば、君たちの能力をまだ教えてもらっていないね。あの城では戦闘が起きるかもしれない。できれば事前にどんな能力を持っているか知っておきたいんだけれども……」


 その言葉に双子は、これまで九朗の腕にしがみついていた手をすっと離し、くるりと軽やかに九朗の前へと躍り出た。彼らの表情には、少し得意げな輝きが宿り、これから語る自分たちの力にわずかな自信と誇りを感じているようだった。


「うん、いいよ。僕の武器えものはこの斧だよ」


 ヘンゼルの手が一瞬、光に包まれる。その光が収まると、彼の手には七〇センチほどの大きさの斧が握られていた。ヘンゼルの身長からするとあまりにも大きいサイズだが、その斧は薄く鋭い両刃で、まるで木こりが伐採に使う斧のような無駄のないデザインだった。刃先に反射するわずかな光が、道具としての実用性を際立たせている。


「ええ、いいわ。私の武器えものはこの炎よ」


 グレーテルが柔らかく手をかざすと、掌から炎がぼわっと立ち上った。その燃え盛る炎を伴い、彼女はその場でくるりと軽やかに一回転してみせる。回転の動きに合わせて炎も軌跡をなぞるように燃え盛り、空気中で美しい痕跡を残しては儚く消えていった。


 九朗は二人の能力を確認すると、感心したように小さく呟いた。


「なるほど。ではヘンゼルが前衛で、グレーテルが援護支援といったところかな。二人の連携で戦う感じか……。……あれ、そういえば読み手マスターである僕には、一体どんな役割ロールが割り振られているんだい?」


 双子は一瞬、顔を見合わせてから無邪気に微笑み、次の瞬間には九朗へ抱きついてきた。


「えへへ、お父さんマスターお父さんマスターだよ。ねぇ、姉さんマルガレーテ?」

「うふふ、お父さんマスターお父さんマスターだわ。ねぇ、兄さんヨハネス?」


 幼い子供のような答えに、九朗は少し戸惑いを覚える。赤ずきんは自分の能力についてはもちろん、敵の能力さえも詳細に把握し説明してくれていた。それと比べてこの二人の言葉は、隠しているわけではなさそうだが、どこか曖昧で要領を得ない。


「……詳しく聞きたいところだけれども、役割ロールがわかったところで、いきなりは使いこなせないだろうし、今はいいとしよう。それよりも、君たちに知ってもらわなければいけない。僕のもう一つの、役割ロールについて……」


 九朗の声にはわずかに陰りがあった。彼は心を決めたように、静かに語り始める。それは自らに課せられた呪われた役割について、双子が未だ知り得ない真実だった。


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