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第23話 Herzog Blaubart -eins-

「なるほど、やはり貴様だったか、青髭公爵ヘルツォーク・ブラウバルツ!」


 不意に男の声が背後から響いた。九朗たちは驚きと共に身を翻し、声の主を確認するべく振り向いた。


 そこに立っていたのは、ボサボサの黒髪に茶色のインパネスコートを纏った男……エーミールルートヴィヒだった。彼の姿が視界に入った瞬間、場の空気がわずかに緊張し始めたことに九朗は気付いた。


「エーミールさん! どうしてここへ……?」


 九朗の声には動揺が混じっていた。何故彼が現れたのか。その問いに対し、エーミールはふっと微笑みながら肩を軽くすくめる。


「やあ、クロウくん。キミたちがやはり心配でね。後を追っかけさせてもらったよ」


 言葉とは裏腹に、その目は鋭く冴えていた。軽い口調の内側に隠された警戒心が伝わってくる。そして、一歩踏み出すと九朗の隣へと並び、青髭公爵ヘルツォーク・ブラウバルツへと視線を向ける。対峙する二人の間に張り詰めた静寂が生まれ、場の空気が一瞬ひやりとしたものへと変わる。


「ふはははははは! グリムルートヴィヒ! 逃げ回るのはもう止めたのかね?」


 鋭い嘲笑が響き渡る。挑発に満ちた言葉は空気を震わせ、場を圧するように響いた。


「そうだな。そろそろしんどくなってきたところだ。ちょうど貴様に引導を渡すいい頃合いだと思ってな!」


 エーミールは静かに応じる。しかし、その声には微かな獰猛さが滲んでいた。言葉の端々から、これまでの因縁の重みが感じられる。

 二人の視線が交差する。刹那、空気が張り詰める。そこには単なる敵意ではない……長年の憎悪、宿命めいた対立が火花となって交わっているようだった。沈黙が辺りを支配する。


「エーミールさん、あいつは一体何なんですか?」


 九朗は低く囁いた。エーミールはその問いかけを受け、わずかに視線を九朗へと向けた。どうやら彼は男の正体を知っているようだった。


「あいつは、青髭公爵ヘルツォーク・ブラウバルツ。青髭公爵だ」


 エーミールの声は落ち着いていたが、冷ややかな鋭さが含まれていた。


「キミも青髭の話ぐらいは聞いたことがあるだろう?」


 青髭……妻を娶っては殺していた、稀代の殺人鬼の話。城中の部屋の鍵を渡し、決して開けてはいけない部屋の扉を開けた妻を容赦なく殺害していった。そして、最後に娶った妻の兄弟の手によってその悪行は終わりを迎える……そんな物語だ。


「確か……そう、ジル・ド・レという実在の人物がモデルの話でしたよね?」


 九朗は記憶を探るように言った。だがエーミールはわずかに首を振る。


「ふむ……風説ではそうだな。しかし、ジル・ド・モンモランシー=ラヴァル男爵がモデルではないよ。青髭の話の元は、ブルターニュ地方に古くから伝わる伝承『コモール』から来ている。男爵の話は後世の後付けだ」


 言葉を交わす間にも、場の空気は張り詰め続けている。九朗は無意識に拳を握りしめる。エーミールの説明が示唆するものが、目の前の男の影と重なっていく。


 エーミールの言葉を聞いた、ヘンゼルとグレーテルは一歩前へ踏み出し、勢いよく遮るように問いかけた。


「待って、叔父様ルートヴィヒ! 青髭公爵ヘルツォーク・ブラウバルツはグリム童話じゃないわ!」

「待ってよ、叔父様ルートヴィヒ! 青髭公爵ヘルツォーク・ブラウバルツはペローの童話だよ!」


 双子の抗議の声が重なる。二人の表情には疑念と驚きが現れていた。だが、エーミールは動揺することなく、ゆっくりと息を吐くと、冷静に答えを返す。


「……そうだ。元々はシャルル・ペローの童話だ」


 一拍置いてから、彼は静かに続けた。


「だが、灰被りアシェンプテルのように、グリム童話にもその名は刻まれているのだよ」

「嘘よ! 私は知らないわ!」

「嘘だ! 僕は聞いたことない!」


 双子の声がほぼ同時に響き渡る。彼らは驚愕し目を見開き、エーミールをじっと見つめる。否定の言葉の裏には、戸惑いと困惑も入り混じっていたようだった。


 双子すら知らない魔導書……。その存在に気づいた瞬間、九朗の思考に稲妻のような閃きが走った。彼は知っている……同じような魔導書のことを。彼女のことを。


「まさか、あれは……禁断の魔導書ロスト・グリモワール……」


 その言葉に、エーミールの目がわずかに揺れた。驚きと疑念が入り混じった視線が九朗へ向けられる。何故彼がその名を知っているのか。その問いが、表情だけで雄弁に語られていた。


「……そうだ。あれは禁断の魔導書ロスト・グリモワール初版原典には掲載されていたが、第二版以降改訂かきなおされた際に削除された童話メルヒェンだ。その残虐性、醜いまでの多情性、そして露骨な性的表現……内容があまりにも過激すぎたために封印されたのだ」


 言葉の端々に重みが宿る。その歴史の陰に、どれほどの狂気が潜んでいたのか。


「後に、大筋を引き継いだフィッチャーの小鳥フィッチャース・フォーゲルが作られたがね」


 エーミールはゆっくりと視線を青髭へ戻す。その瞳には鋭い光が宿り、冷たい威圧が込められていた。


「あいつも……赤ずきんと同じ禁断の魔導書ロスト・グリモワールなのか……」


 九朗は青髭を鋭く凝視し、低く呟いた。彼の胸には、徐々に確信へと変わる戦慄が広がっていく。禁断の魔導書ロスト・グリモワールは、他の魔導書とは比べ物にならない力を秘めている。その脅威を、彼はすでに目の当たりにしていたからだ。


「……なに?」


 エーミールが、まるで雷に打たれたかのように九朗へ振り向く。

「クロウくん。キミの赤ずきんロートケップヒェンは、禁断の魔導書ロスト・グリモワールなのか?」


 その顔には、先程以上に明らかな驚愕と動揺が浮かんでいた。今までのどの瞬間よりも、深い衝撃を受けているように見える。


「……え? え、はい。赤ずきんは自分のことをそう言ってましたが……」


 九朗は戸惑いながらも、記憶を辿るように答える。


「確かに彼女の物語は僕の知っている赤ずきんとは違いました」


 エーミールは九朗の言葉を聞くと、まるで何かが腑に落ちたかのようにひとつ頷いた。ゆっくりと息を整え、確信を込めた言葉を紡ぐ。


「なるほど……だから、青髭公爵ヘルツォーク・ブラウバルツはキミの赤ずきんロートケップヒェンを狙ったのか……」


その瞬間……。


「ぐはははははははは! その通りだよ! グリムルートヴィヒ! 今更気付いたのかね!」


 広間に響き渡ったのは、重苦しく低い笑い声だった。青髭は大仰に両手を広げ、嘲笑と嘲りを混ぜ合わせたような威圧的な態度を見せる。その動きはどこか芝居じみており、舞台の上の演者のように誇張された所作を伴っていた。だが、彼の背後に漂う闇は作り物のものではない。禍々しいその空気は、広間を急激に包み込んでいく。


「どういうことだ?」


 九朗の声には戸惑いが滲んでいた。目の前の状況が飲み込めない。


「わからんかね、無名の読み手マスターよ?」


 青髭が口元を歪め、不敵な笑みを浮かべる。その瞳には狂気じみた光が宿っていた。


禁断の魔導書ロスト・グリモワールの力は強大なのだよ! 残虐性、狂暴性、破壊性。全てにおいて他の魔導書グリモワールなど足元にも及ばない!」


 言葉が広間に轟く。彼の声は冷たい石壁に反響し、まるで周囲の空気すら歪ませているかのようだった。


「それこそ、創造主グリムの手に負えないほどにな!」


 その言葉と共に、青髭は激昂したように叫び始めた。腕を大きく広げ、堂々とした仕草で場を支配しようとしている。その声は嘲笑に満ちていたが、その裏にはドス黒い狂気が潜んでいる。


「だからこそ彼奴等は我等を封印したのだ!」


 青髭の声がさらに広間に響き渡る。怒気を孕んだ響きが空間を圧し、まるで積年の恨みを解き放っているかのようだった。


「グリムの制約を受けない我等が、後々脅威となると判断したのだろう! くだらぬ! 浅ましい人間共め!」


 彼の言葉には毒が潜んでいる。その嘲りと憤怒は、あたかも歴史に刻まれた怨嗟の残響のように周囲へと伝播していった。


「力なき者が、力ある者を支配しようとする……その構造こそが間違いなのだ!」


 その瞬間、空気がさらに重く淀んだ。青髭の威圧は、言葉だけではなく、その存在そのものから湧き出ているかのようだ。


「……故に、我らは復讐を誓ったのだよ」


 彼の目が血のように深く暗い光を帯びる。


創造主グリムなど必要ない! ああ、神など不要だ! 我らは完全なる自由を手にする!」


 声が震えるほどの狂気とともに、青髭は両手を掲げた。その姿はまるで解放されし闇の王のごとく、世界のすべてを嘲笑うかのようだった。


「自由になりたいだけのために赤ずきんを巻き込んだのか!」


 九朗の声が怒りと憤りに震えた。その拳は知らず知らずのうちに強く握り締められていた。自分本位の身勝手な理由で赤ずきんが戦わねばならなかったこと。彼女が望んだささやかな生活が無慈悲に踏みにじられたこと。その理不尽さに、九朗は全身の血が沸き立つのを感じていた。


「やりたければ勝手に復讐でも何でもすればいいだろう! だが、僕たちを巻き込む必要がどこにある!」


 その言葉は怒りの矢となり、鋭く青髭へと放たれた。だが、青髭は微塵も動揺せず、冷たく笑みを浮かべる。


「あるのだよ! 禁断の魔導書ロスト・グリモワールを手に入れる必要がな!」


 空気が張り詰める。九朗と青髭の間に鋭い視線の剣戟が交わる。互いの瞳に宿る強い意志が、見えない刃となって火花を散らした。


「クロウくん。奴の目的は禁断の魔導書ロスト・グリモワールなのだ。あれは、魔導書グリモワールの中でも特殊なものだ」


 エーミールの声は静かだった。しかし、その言葉は重みを感じられた。彼はゆっくりと目を伏せると、九朗から顔を背けるようにして言葉を続ける。


「あれは……唯一、グリム私たちを殺すことのできる魔導書グリモワールなのだよ」


 その言葉が発せられた瞬間、空気に言い知れぬ緊張感が生まれる。まるで閉ざされた場所の温度が一瞬で下がったかのように、場に不吉な冷たい気配が漂った。


「……一体どういうことです?」


 九朗は思わず聞き返した。グリムを殺すことのできる魔導書……ただの力ある魔導書ではない。その言葉が示す意味は、あまりに穏やかでない。


「呪いだよ! グリムの制約とはな!」


 青髭の声が広間に響き渡る。その言葉は熱を帯び、何かを礼贊するように。まるで積年の憤怒が凝縮されたかのようだった。


創造主グリムに逆らわないようにするための安全装置! それがあるが故に、魔導書グリモワールは決して創造主グリムに弓を引くことはできない!」


 その言葉はまるで呪詛のように空間を歪ませ冷たく響く。しかし、青髭の表情には絶望ではなく、笑みが浮かんでいた。


「だが! 我等禁断の魔導書ロスト・グリモワールは違う!」


 その声には興奮と歓喜が混じっていた。


「我等は創造主グリムに見捨てられた魔導書グリモワール! その加護も、輝きも、呪いも、制約も、すべての縁を断ち切られた存在なのだ!」


 青髭は高らかに笑い出す。その笑みは自嘲と嘲笑の狭間にあり、己の運命を愉しむかのようだった。


「これは神に見捨てられた我々の復讐劇だよ、エーミールルートヴィヒ!」


 青髭の声が広間に響き渡った瞬間、場の空気が一層張り詰める。宣告された復讐。それは、もはやただの怨嗟ではなかった。


 そこで九朗は気付く。エーミールが追われている魔導書とは……。


「エーミールさん、もしかして追われていたのって……?」


 九朗の問いは、胸の奥に広がる不安と疑念を帯びていた。エーミールはその言葉を受け、ほんの一瞬視線を落とす。そして、わずかに肩をすくめるようにしながら、静かに答えた。


「ああ、こいつにだよ」


 彼は短くそう言い、懐から一本の筆を取り出した。深く黒い軸を持つそれは、彼が魔術を行使するときに用いる筆だ。細長い指が軽く筆を回しながら、彼は続ける。


「兄弟の中でも、比較的私は見つけやすい。だから、最初の目標に選ばれてしまったわけだ。まったく、不幸なことだよ」


 その声には苦笑じみた響きがあった。だが、その裏にはわずかに諦念のような感情も見え隠れしている。


 筆を指先で操るエーミールは、しばし沈黙し、ふっと息を吐いた。そして、顔を九朗から僅かに背けながら、静かに告げる。


「クロウくん。キミと赤ずきんロートケップヒェンを巻き込んでしまって、本当にすまない」


 その声は落ち着いていた。しかし、わずかに見え隠れする後悔の色は、彼が心のどこかで負い目を感じていることを伝えていた。


「奴はおそらく、赤ずきんロートケップヒェンを自らの陣営に取り込もうとしていたのだろう。本来ならば、これは我々で片付けなければいけない問題だった」


 九朗は静かに聞いていた。だが、その言葉の裏に込められた意味を完全に消化する余裕はない。今はただ、目の前の状況に全力で向き合うべきだ。


「……どんな理由であれ、もう巻き込まれてしまったのですから仕方ありません」


 九朗はまっすぐにエーミールを見据え、はっきりと告げた。


「協力します、エーミールさん。僕は赤ずきんを助けたい」


 その言葉に、エーミールは静かに微笑み、深く頷いた。そして、ゆっくりと筆を握り直しながら、九朗へと告げる。


「ありがとう、クロウくん。キミの力……貸してもらう!」



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