依然としてヘンゼルは青髭との激しい剣戟を繰り広げていた。互いに譲らず、
じわじわと削られ、徐々にその動きに余裕がなくなるヘンゼル。このままでは
銃声。
辺りに重く響き渡る、一発の銃弾の音。
それは青髭の体を掠りもしなかった。だが、その鋭い音が注意を逸らすには十分だった。
ヘンゼルはすかさず後ろへと飛び退き、間合いを取る。息を整える間もなく、影のような存在が彼の横を通り抜けた。黒いオーラを纏った異形の狼。
その姿が青髭の視界に飛び込んだ瞬間、彼の瞳に微かな戦慄が走った。無意識のうちに、剣を握る手に力がこもる。
鋭い爪と化した黒いオーラを纏った右手が、一閃。青髭へと突き出される。慌てて剣を振るい迎え撃つが、その一撃は重い。衝撃が全身に走り、剣を握る腕に軋むような痛みが走る。それまで余裕の笑みを浮かべていた青髭の顔から、笑みが消える。
「ぐぬぅ……。なるほど……」
青髭は歯を食いしばり、剣を握る手にさらに力を込めた。
「汝が
低く唸りながら、青髭は九朗の姿を注視する。黒いオーラを纏ったその異形。これが、
「確かに、これは難儀だな……!」
その言葉に余裕の色はなかった。青髭は大きく力を込め、九朗の腕を剥ぎ取るように振り払った。が、九朗は一瞬の隙も与えない。瞬時に距離を詰め、再び爪と剣が激しくぶつかり合う。
衝撃が広間に響き渡り、青髭の足元にわずかな亀裂が走る。これまでの剣戟とは違う。咆哮する獣の爪そのものが彼を襲っていた。それまで優位を保って慢心していた青髭の顔に、わずかに険しさが滲む。
ヘンゼルはただ、その光景を見つめるしかなかった。
九朗と青髭の激突。異形の狼と化した九朗の猛攻が、戦場の空気を一変させていた。
「おい、
唐突な声が、ヘンゼルの意識を引き戻す。気づけば、ヘンゼルの隣には同じ背丈ほどの金髪の少女が立っていた。赤いフードを被り、横柄な態度を崩さぬまま、片手には銃を握りしめている。
「……
ヘンゼルの声は低く、しかし鋭く響いた。その眼光は、今にも相手を射殺しかねないほどの殺気を孕んでいた。
赤ずきんがほんの一瞬、口角を持ち上げる。
「おいおい、そう睨むな
軽く笑うような口調で、彼女は銃口を弄ぶように指を滑らせる。
「あれがあたしらの
視線を戦場へと向ける。今まさに獣となった九朗が黒いオーラを纏い、異形の狼として蠢いている。
「
その目は焦点を交えず、理性の痕跡を完全に失っていた。獣のような息遣い、歪んだ笑み、口からは涎が零れ落ちる。確かに、これはもう人間ではなかった。
「ぞくぞくしてきやがる。最高の
赤ずきんが邪悪な笑みを浮かべる。その笑顔に、ヘンゼルはわずかに戦慄する。
……狂っている。
ヘンゼルは自分が決してまともな人間だとは思っていなかった。だが、目の前の赤ずきんは、それをはるかに超えている。この女は、生まれついての狂気を持っている。そう本能的に理解せざるを得なかった。
「んで、
彼は無言のまま、先程まで赤ずきんたちがいた方向へと指を伸ばす。そこには、静かに横たわるグレーテルの姿があった。
赤ずきんはその光景を一瞥すると、舌打ちを一つ。
「ちっ……。んだよ、居たのかよ」
ふてぶてしく呟く。
「さっさとくたばってりゃいいものを……」
その言葉が発せられた瞬間、空気が張り詰めた。ヘンゼルの視線が鋭く跳ね、赤ずきんを睨みつける。
「……口の悪い赤ずきんだな」
その声は低く、しかし静かに煮えたぎっていた。
「お前……殺すよ?」
二人の間に、冷たい沈黙が流れる。ヘンゼルの目には確かな怒りが燃えていた。だが、赤ずきんはそんな視線を受けても微塵も気にする様子はない。彼女はただ、興味なさげに肩をすくめるだけだった。
「てめぇらと仲良くするつもりはさらさらねぇよ」
赤ずきんは乱暴に銃を弄びながら吐き捨てるように言った。
「やれるもんならやってみろや? だが、お前の大事な
その言葉に、ヘンゼルの目が細くなる。
「……お前嫌い」
短い言葉に、剣戟よりも鋭い棘が込められていた。だが、赤ずきんはその敵意を楽しむように笑う。
「それで結構!」
彼女は唇を歪め、ヘンゼルを指さした。
「てめぇはさっさと
ヘンゼルの眉がピクリと動く。
「
赤ずきんはゆっくりと、冷たく告げた。
「奴も本能的に炎を恐れるはずだ!」
その瞬間、ヘンゼルの胸に電流のような衝撃が走った。はっと目を見開き、赤ずきんを凝視する。
「だから
状況が線となって繋がる。グレーテルは炎の魔法を使う。だから、その炎を恐れ最初に戦闘から除外をしたかったのではないか。
「……わかった、起こしてくるよ」
ヘンゼルは躊躇なくグレーテルの元へ駆け出した。だが、走る足の裏には奇妙な寒気がまとわりついていた。赤ずきん……こいつには、危険以上の恐ろしい何かが潜んでいる。そう感じざるを得なかった。
ヘンゼルを見送った赤ずきんは、すぐに戦場へ意識を戻すと、青髭と対峙する九朗の援護射撃を開始した。銃口から放たれる閃光……眩い
だが、奇妙なことに、その銃弾は一発たりとも青髭公爵に届くことはなかった。
……軌道が歪む。
まるで見えない手が弾丸の進路を捻じ曲げるかのように、赤ずきんの射撃はことごとく外れていく。赤ずきんは舌打ちした。
……弾かれている。
青髭が何かしらの干渉を行っているのか、それともこの空間そのものが歪められているのか。援護は通じない。
その間にも、黒い狼と化した九朗は苦戦を強いられていた。彼の身体は荒々しい動きで飛びかい、爪を振るう。しかし、青髭は未だ戦技で九朗を圧倒していた。剣の動きは鮮やかで無駄がない。巧みに刃を翻し、九朗の鋭い爪を薙ぎ払い、隙あらば鋭い一閃を浴びせていく。九朗は狼化していることで、細かな戦術を考えることはできなかった。ほとんどが力任せ……本能のままに襲いかかるだけ。だが、それは青髭にとっては容易く対処できる戦法だった。九朗の動きが鈍るたび、深紅の血が黒いオーラを汚し、傷痕が刻まれていく。
「ふむ……」
青髭は剣を軽く回しながら、九朗の獣じみた動きを見据えた。口元にはまだ余裕がある。
「驚きはしたが、所詮はやはり獣か」
まるで舞踏会でステップを踏むかのように、彼は優雅に身を滑らせながら九朗の攻撃を躱した。
「我が恐れるのは洗練された策略と計算された攻撃だけだ」
刃先をわずかに傾け、戦況を見定めるように目を細める。それは、熟練した剣士の余裕そのものだった。
「残念なことに、我は
淡々としたその言葉には、余裕と優位性がまた舞い戻っていた。青髭の作品のルーツは諸説あるものの、その原典はいずれもフランス。そのためか、青髭自身はフランス人として描かれることが多い。
だが、それが赤ずきんの癇に障った。
「けっ……。
彼女は銃口を軽く傾けながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「戦場の経験は誰よりもあるんだろうよ。でもよ……」
その瞳が鋭く輝く。
「それが何の役に立った? お貴族様よ、お前は結局『英雄』になれたのか?」
その瞬間、青髭の目がわずかにぴくりと動く。赤ずきんはそれを見逃さない。
「そういや、英雄と悪党は紙一重って言うよな」
銃口を青髭に向け、薄く嘲笑う。
「お前はどっちだ? ただの化け物か? それとも英雄気取りの殺戮者か?」
「悪党か、だと? それならば、お前たちも同じだろう。殺戮を重ねた血に飢えた狼。その違いはどこにある?」
赤ずきんは青髭の言葉を聞くなり、肩を揺らして笑った。
「はっ……何言ってんだ、お貴族様」
愉快そうに、青髭へと侮蔑の眼差しを送る。
「違い? ……あるだろうが」
視線を戦場へ向ける。黒い狼と化した九朗。獣のように唸るその姿が、まるで答えを体現しているかのようだった。
「英雄か悪党か、てめぇはどっちだっつったよな」
彼女の笑みがさらに歪む。
「そりゃあ簡単さ。お前は、英雄に『なれなかったヤツ』だよ」
その言葉に、青髭の表情が変わる。触れられたくない個所を触れられたような驚愕の表情へと。
「なれなかった者の末路は決まってんだよ。ただの化け物だ」
赤ずきんは銃を握る手に力を込め、鋭く言い放つ。
「違いはそこだ。てめぇは、とうの昔に道を踏み外した」
その瞬間、青髭の剣先がわずかに揺れる。赤ずきんはそれを見逃さず、さらに言葉を重ねる。
「だからよ、てめぇは狼の餌になるんだよ!」
銃声が響く。
それに合わせるように、九朗が獣の如く吠え、青髭へと猛然と飛びかかった。