そしてお話は冒頭に戻る。
舞洲アリーナで行われた、真正館大阪南支部主催の関西選手権が、僕たちのデビュー戦だった。
なんだか大層な名前がついているが、ざっくりというと支部内の交流戦だ。とはいえ真正館は多くの道場を抱えているので、各部門にたくさんの選手がエントリーしていた。メインアリーナに6つの試合場を設営して、大会は一日がかりで行われた。中級以上の試合で好成績を収めれば、7月の全日本選手権への出場権が獲得できるらしい。でも、僕が出るのは高校生初級の部なので、関係ない。会場に到着してトーナメント表を見てびっくりした。初戦の相手は、いきなり黒沢だった。
「ああ、すまんな。高校生重量級の部って思ったよりもエントリーが少なくて、いきなり同門対決になってしまったんや」
沖名先輩が、申し訳なさそうに頭をかいている。
決勝はともかく、初戦はできるだけ同門対決にならないように配慮する。だけど、高校生重量級の部は、出場選手が4人だけだった。うち3人が京橋道場生。2人をいきなり対戦させざるを得ず、くじ引きで僕と黒沢が対戦することになったらしい。
どんな人と対戦するのだろうと、1週間前くらい前からめちゃくちゃ緊張して過ごしてきた。稽古をしている間だけ試合のことを忘れることができたが、それ以外では家でも学校でも、常に試合のことを考えて、緊張しすぎて疲れてしまった。誰と戦うのだろう。どんな選手だろう。どんなに強いのだろう。不安ばかりしか浮かんでこない。試合がこんなに緊張するものだなんて、知らなかった。
ところが、蓋を開けてみれば相手は黒沢だ。いつもボコボコにされているので、今回もボコボコにされるのは目に見えている。
ヤバい。母さんだけではなく、マイまで連れてきてしまった。あわよくば勝ち名乗りを受けているところを見せられるかもと思っていたけど、甘かった。でも、今更「帰ってくれ」なんて言えない。
それからサブアリーナで目を覚ますまでのことは、記憶が曖昧だ。極度に緊張したままアップをした。緊張でお腹が痛くなって、何度もトイレに駆け込んだ。口の中がカラカラに乾いて、何度もペットボトルの水を口に含んでみたけど、収まらない。寒くないのに指先が冷たくて、いくら正拳突きを繰り返しても、体が温まった感じがしなかった。脳裏には黒沢の獰猛な微笑みが浮かんでは消えて、その度に息が詰まって苦しくなった。
試合前に黒沢に何か言われた気がするけど、全く覚えていない。観客席から「まあくん、頑張れ!」とマイの声が聞こえたのは覚えている。審判に促されて黒沢と向き合って、一礼した。それから…。黒沢が視界から消えた。次の瞬間、ガツンという鈍い音が脳内に反響した。視界が黄色く反転して、体がフワッと浮き上がる感覚に襲われる。そのまま、意識が途切れた。
あとで母さんに聞いたところによれば、秒殺だったらしい。ファーストコンタクトで黒沢の上段膝蹴りが炸裂し、僕は気絶。道場で一度も漏らしたことなどなかったのに、ああ、なんでだよ。よりにもよって大勢が見ている前で、それもマイの前で漏らしてしまった。漏らした瞬間に意識がなかったのだけが、救いかもしれない。それを差し引いても、カッコ悪いなんて言葉では片付けられない。もう、消えてなくなってしまいたい。
黒沢はデビュー戦で2回勝って優勝した。決勝戦も膝蹴りでKO勝利だった。たった2回しか勝ってないのに、こんなに大きなものがもらえるんだなと思うほど大きなトロフィーを手に、なぜかもう一方の手でマイの肩を抱いて、記念撮影をしている。満面の笑みだ。爽やか大爆発。
「ワーオ、俺って天才じゃね? 天才空手家・黒沢芳樹、ここに爆誕! なんつって!」
芳樹、あんまり調子に乗るなよ。まだ白帯の試合だぞと沖名先輩が釘を刺しているけど、全く聞こえていないようだ。
ため息をついた。勝者と敗者。ここまで明暗が分かれるのか。それにしても黒沢は先ほどからなぜあんなにマイと親しげにしゃべっているんだ? いつの間に仲良くなった?
僕の疑いの視線に気がついたのか、マイが黒沢に何か言って、小走りで駆けてきた。
「まあくん、ごめん! ウチ、これからヨシくんの祝勝会に行かなアカンねん。先に帰っといて。おばさん、お母さんにはLINEしてあるから」
え?
「何…? 黒沢といつの間に、友達になったん?」
僕の質問にマイは一瞬、固まった。少し目を泳がせてから、改めて僕をキッとにらみつけると、腕を取って母さんから離れた。
「あんな、まあくん。ウチ、今、ヨシくんと付き合ってんねん。彼女やねん」
一気にまくし立てた。
…。
え? なんて?
「今、めっちゃ幸せやねん。せやから、応援してほしいねん。幼馴染やろ?」
マイはそういうと、ニコッと笑って僕の背中をポンポンと叩いた。
「漏らしたん、気にせんときや」
そう言うと、身を翻して黒沢の方へと駆けて行った。黒沢が「マイ〜! はよ来いや〜!」と大声で呼んでいた。
翌朝は、いつも通りマイと一緒に登校した。昨日は黒沢とその応援団(主に学校のやつら)と一緒にファミレスに行き、あまりにも盛り上がったので、そのままカラオケに行ったのだそうだ。
「めっちゃ楽しかった! まあくんも来ればよかったのに」
と本当に楽しそうに言ってから、あ、しまったという顔をする。
行くわけないだろ。
初戦で秒殺されただけではなく、大衆の面前で漏らすという耐えがたい失態を犯したやつが、そんな祝勝会に参加できるわけない。
「…ごめん」
マイは僕から視線を逸らして、さすがにバツの悪そうな顔をした。
別に謝ってもらわなくても構わない。マイは僕の知る限り、初めてできた彼氏と2人きりではないとはいえパーティーに行って、大いに盛り上がった。そりゃ、楽しかっただろう。それを「楽しかった」と言うのはマイの勝手であって、どう受け止めるかは僕の問題なのだ。聞かなかったことにすればいい。
駅を出たところで黒沢が待っていた。もちろん、僕ではなくてマイを。
「おう、マイ。おっはよー」
試合翌日というのに、元気一杯だ。僕はものの数秒しか戦っていないというのに、なぜか全身筋肉痛だった。
「おはよう、ヨシキ。じゃあ、まあくん、またあとでね」
ヨシくんが、ヨシキになっている。そのまま2人で歩き出すのかと思いきや、黒沢は僕の方にやってきた。肩に腕を回す。こいつ、本当にこの体勢が好きだな。耳元に口を寄せて、声をひそめて言った。
「俺のマイに近づくんじゃねえよ。この漏らし野郎」
笑っていた。一見すると、爽やかな笑顔だ。この笑顔だけで、教室中の女子がときめく。だが、発した言葉の内容は残酷だった。こいつ、いじめるやつの目をしている。陰湿で冷酷な闇。まとわりつくような、冷たい視線。小中学校の頃、ずっと僕を見ていた視線。ゾッとした。いじめをするやつは、みんなこの目をしている。
「だって…」
何か言い返そうと口を開くと、さえぎるかのようにポン!と強く肩を叩かれた。顔を寄せてくる。息がかかるくらいの距離まで。
「てめーみたいなキモいクズと直接、口をきいてやっているだけでも、ありがたいと思えよな。城山モラシくんよ」
肩に置いた手で、そのまま僕を突き放した。少しよろけて2、3歩後退する。黒沢は僕に背を向けると、軽く手を振ってマイの方へと歩いていった。