教室に着くと、僕の椅子の背に何か白いものがかかっていた。
なんだこれ?
教科書やノートで膨れ上がった通学鞄と、スケッチブックと空手着でこちらもパンパンになった補助バッグを机の脇に置く。ぞうきん? それにしてはきれいだな。
手に取ってみた。すぐになんだかわかった。一瞬、頭の中が真っ白になって、背筋に寒気が走る。怒りと恐怖のそのどちらでもない、あの感覚。戸惑いのような、不快な感覚。大人用のおむつだ。介護が必要な老人が使うやつ。ドラッグストアで見たことがある。
僕が昨日、空手の試合で漏らしたことを茶化しているのだろう。
でも、誰が? 黒沢か? 黒沢ならば、駅からずっと僕の前をマイと一緒に歩いていた。そんな暇はなかったはずだ。
クスクスと笑う声が聞こえた。反射的に顔を上げると、クラスメイトの女子数人と目が合った。全員、サッと僕の視線を避ける。肩がかすかに震えている。口元を押さえている子もいた。下を向いて、笑いをこらえている。
一瞬で状況を判断した。誰か、昨日のことをクラスに言いふらしたやつがいる。おそらくみんな知っている。
また始まった。寂しさとか、いたたまれなさとかって絶対、ヒリヒリしているという言葉で表現するのが相応しいと思う。だって今、胃袋のあたりが引きつって、ヒリヒリしているもの。
黒沢に昼休みに暴行されるだけなら、まだ耐えられる。稽古の一環だと思えば、まだ耐えられた。明日斗の言葉を思い出す。
いじめって、要するに煽られるのが嫌なわけやんか。どつかれるとか、そういう痛みよりも、煽られて傷つくのが辛いわけやん?
そうだ。僕はよく知っている。実際に殴る蹴るの痛みよりも、こうして尊厳を傷つけられる痛みの方が何倍もきつい。堪える。
でも、そこまでダメージは深くなかった。中学時代のオナニー野郎の方が堪えた。今回は性的ではない分、まだ我慢できる。それとも、これが空手を始めた効果だろうか。道場で黒沢と組手をするときのストレスに比べれば、まだましだった。
ドンッと背中に衝撃あった。振り向いて見ると、岩出と新田だった。
「おはよう、モラシくん!」
岩出はやけにはっきりと、大きな声で言った。
新田は岩出とともに、黒沢の舎弟の一人だ。丸刈りでニキビだらけで醜男の岩出と違い、イケメンだった。ふわふわの柔らかそうな前髪に、金色のメッシュが入っている。ちょっと俳優の吉◯亮に似ている。ただ、表向きはパリピ優等生を装っている黒沢と違って、新田はふわりとしたアイドルっぽいイケメンのくせに、露骨に武闘派の不良だった。よく大人しい男子を殴ったり蹴ったりしていて、すぐ手が出るタイプだった。
なぜ狂犬のような新田と学年一の人気者の黒沢がつるんでいるのか。それは、黒沢が本質的には陰湿ないじめっ子で、新田を鉄砲玉として使っているからなのだが、先生や他のクラスメイトはそれに気がつかない。なので、2人がよく一緒にいるのは、清栄学院の七不思議の一つと言われていた。
「いや〜、君にはこれが必要やろ? 今朝、うちのじいちゃんが使っているやつを、拝借してきたんや」
岩出は僕の腕に手を回した。馴れ馴れしい。引き抜いて、振り払う。身構える間もなく新田の張り手が飛んできて、ほおをぶたれた。
バチン!
焼けるような痛みが走る。耳がツーンとして、時間が一瞬、止まったような感覚があった。目の端で、新田が開いたままの手をゆっくりと引っ込めるのが見える。表情は一切変わらない。ちり紙をゴミ箱に投げ入れた時のような、淡々とした顔をしている。
「なんやねん。人が親切でやってやっとんのに。モラシくんにはおむつが必要やろ? はよ着替えへんと、また漏らしてまうんとちゃうんか?」
岩出が続ける。
新田は一度、手が出ると止まらなくなるタイプらしい。ふくらはぎのあたりを2発、3発と蹴ってくる。
「おう、ズボン脱げよ。おむつ履かせてやるからよ」
新田は僕のブレザーの襟首をつかんだ。岩出が止めに入る。
「新田、自分でやらさへんと意味ないやんけ。ヨシキくんも言うてたやろ」
岩出はアホだ。言わなくてもいいことまで言ってしまう。今の言葉で、このいじめ大作戦を立案したのが黒沢であることがバレてしまった。だが、それがわかったところで何になる? 黒沢は僕の見えないところ……窓際の自分の席に座っているに違いない……で素の顔をしながら、内心でニヤついているだろう。この場にいないのに、新田の背後に立っているような圧力がある。
「お、そうだったな。おい、モラシ。自分で履き替えろ。で、おむつのままで授業な。早くしろよ」
先ほどまでの馬鹿にしたようなクスクス笑いは完全に消えた。緊迫したいじめ現場に否応なく立ち会わされて、遠巻きに見つめているクラスメイトが、ゴクリとつばを飲む音が聞こえてくる。
従うべきか? いや、これは時間が解決してくれるパターンだ。黙って、少し斜め下を向いてモジモジする。早く、早く。タイムアップよ、早く来てくれ。次の暴力が来るんじゃないかと、心臓が早鐘を打つようにバクバクし始める。殴られて蹴られることには慣れてはいるけど、いつだって嫌なものは嫌だ。
「おう、はよせえや。チャイム鳴るやんけ!」
ジリジリした岩出が声を荒げる。体がビクンと反応する。その瞬間、チャイムが鳴って担任の宮崎先生が教室に入ってきた。40代の英語の教師で男子バレーボール部の顧問。屋内スポーツのはずなのに年中、色黒だ。背が高くてガッシリとしていて、にらみが効いた。
「おーい、もうチャイム鳴ってんぞ。岩出、はよ座れ! はい、出欠!」
手にしたバインダーをバンバンと叩く。新田はチッと露骨に聞こえるように舌打ちをすると、僕の足元に唾を吐いた。
「新田! 汚い真似すんな!」
宮崎先生の声が教室に響き渡る。あ〜はいはいと気だるそうな返事をして、新田は教室を出ていく。別のクラスなのだ。
全身の力がスッと抜けた。冷や汗ってこんなに出るんだなというほど、背中をドッと冷たい汗が伝う。
助かった。とりあえず、この場面は。