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第12話 「俺、きのう」

 試合が終わってから1週間、僕は初めて空手の稽古を休んだ。


 体が痛かったというのは言い訳だ。何もなければ翌日からすぐに道場に行きたい気分だった。だけど、大失態があったあとで顔を出しづらかった。


 みんなに馬鹿にされたら、どうしよう。道場で教えてもらった通りに畳んだ道着を見つめながら、ため息をつく。


 そんなことはないと思う。道場の先輩や仲間たちは、黒沢を除けばみんないい人ばかりだ。礼儀正しくて優しくて、面倒見がよくて。でも、逆にそんな人たちだからこそ「試合で漏らしたやつだ」と冷ややかな目を向けられでもすれば、立ち直れない。


 黒沢から「近づくな」と言われていたけど、相変わらず毎日、マイとは電車を降りるまで一緒に登校していた。マイはそこで黒沢と合流し、仲良く手を繋いで登校する。かなり離れているつもりでも、駅から学校までほぼ一直線なので、嫌でも目に入った。


 下校は完全に一人になった。今頃、マイはどこかで黒沢と楽しく過ごしているに違いない。道場に行かないと、その妄想が頭の中を占領してモヤモヤした。早く空手を再開しないと気が狂ってしまいそうだった。


 金曜日に帰宅すると、母さんが「空手の先生から電話があったわよ」と言った。


 「え…。なんて…?」


 沖名先輩が、なんの用事だろう。


 「後遺症でも出ているんじゃないかって心配してくれていたみたいよ。『全然大丈夫です、また行かせます』って返事しといたわ」


 そうなんだ。気にかけていてくれたんだ。


 それならきっと道場に行っても「漏らしたやつ」とか、後ろ指をさされることはないだろう。勝手に納得して、少し気が楽になった。


 ところが月曜日に道場に行ってみると、想像していたのと随分と雰囲気が違った。黒沢の周りに高校生と中学生の道場生4〜5人が集まって、何やら顔を寄せ合ってヒソヒソ話をしている。僕が入り口で「押忍、お願いします!」とあいさつをすると、彼らがこちらを向いて、クスクスと笑い出した。


 「押忍、モラシさん! お身体はもう大丈夫ですか!」


 確か中学生の上川くんという男子が、僕の方を向いて大きな声で言った。


 え。今、なんて言った?


 耐えきれないように、そこにいた生徒たちがドッと笑い出した。肩を震わせ、手を叩いて、もう爆笑と言ってよかった。笑いすぎて、しゃがみ込んでいるやつもいる。よく言った上川とか、モラシさんとか超ウケるとか口々に言い合って、すごく盛り上がっている。


 えっ、何これ。


 呆気に取られて立ち尽くしていると、更衣室から沖名先輩が現れてパンパンと手を叩き「ほおら、仲間を馬鹿にするのはやめろ!」と大声で言った。


 楽観的過ぎたのかもしれない。社会人はそうでもなかったけど、1週間休んでいる間に、道場の高校生と、そして中学生も黒沢側についてしまっていた。


 試合の前までは、そんなことなかった。僕側でも黒沢側でもなく、分け隔てなく仲良くしていた。なのに、たった1週間で状況がすっかり変わっている。黒沢が圧倒的勝利で実力を見せつけたせいだろうか。とにかく未成年組はみんな、僕のことを「モラシくん」と呼んで、蔑みの目で見るようになった。


 黒沢は狡猾だ。学校で暴力を振るうとき、絶対に顔は殴らなかった。「跡が残るから」という理由だ。そして、顔を殴りたい時には新田や岩出にやらせた。


 道場でもそうだった。ニヤニヤして見ているだけで、自分はみんなの前では僕のことを「モラシくん」とは呼ばなかった。実に嫌ないじめの立案をするが、自分は手を汚さない。僕のいないところで情報を吹き込み、手下を実行犯にする。黒沢が実に楽しそうにニヤッと笑いながら目で合図すると、彼らが僕を攻撃する。本当に卑怯だった。


 ただ、堂々と暴力が振るえる組手の時には、相変わらず容赦なかった。真正館のルールでは道着や髪の毛をつかむのは禁止だ。だけど、黒沢は長身を生かして膝蹴りを多用するので、よく道着や髪の毛をつかんできた。そして耳元で「漏らすなよ、クズ」とささやきながら、強烈な膝蹴りを叩き込んできた。


 組手でどんなにボコボコにされても、道場のみんなが味方だったら、なんとか耐えられた。だけど、同年代の道場生がみんな黒沢サイドについてしまい、僕の居場所は道場内になくなりつつあった。黒沢は道場のある京橋の出身で、同年代の道場生の多くが小学校時代からの知り合いだった。彼らは稽古が終わると近くのコンビニの前にたむろして、家路を急ぐ僕を嘲笑ったり、馬鹿にしたりすることが日課になった。


 こんな惨めな思いをするために、空手を始めたわけじゃないのにな。


 稽古をすれば頭の中はすっきりしたが、帰り道でまたモヤモヤを溜め込む日が、圧倒的に多くなっていった。


 そんなある日、6月も終わろうかという日の帰り道だった。コンビニの前は通りたくなかった。だけど、ここを通らないと駅まで遠回りになって、帰宅が遅くなってしまう。


 黒沢グループよりも早く道場を出られればいいのだが、彼らは服を隠したり、奪ったりして僕が着替えるのを邪魔した。その度に沖名先輩に叱られていた。僕をいじめるのが楽しいのか、一向に収まる気配はなかった。


 何を言われても、無視して突っ切るだけだ。


 その日も、彼らの前を黙って足早に通り抜けようとした。いつもなら「モラシ、また明日な」とか「モラシ、おむつは忘れずに履いたか」とか、からかいの言葉が飛んでくるのだが、珍しくそれがない。代わりに黒沢本人が薄笑いを浮かべながら僕に近づいてくると、例によって肩を組んできた。こちらを見ているが、僕は視線を合わせない。何を言われても、無視だ。


 「おう、モラシ。俺、きのう、マイとセックスしたわ」


 思わず、足が止まった。


 「いや〜、お願いしたら、思ってた以上に簡単にヤらせてくれたわ。あ、そうそう。処女やったで。お前ら、ホンマにやってへんかったんやな!」


 僕の肩を手のひらでポンポンと叩いて、きれいな顔をほころばせてアハハッと笑った。白い歯がこぼれる。なんて爽やかなんだ。俺と友達になってくれてありがとう。言っている内容がそんな感じのことだったら、バッチリな笑顔。だけど、違う。そんなこと、言ってない。


 何を言っているんだ?


 こいつ、何を言っているんだ?


 混乱した。頭の中が真っ白になって、黒沢の言葉が理解できない。指先が冷たくなって、足に力が入らなかった。このまま地面に沈み込みそうだ。


 セックスした? マイと? エッチしたってこと? 


 「おお〜、いいね、モラシくん! 俺は、君のそういう顔が見たかってん。ええ感じやんか。どうや、ショックか? ああ?」


 黒沢は僕の正面に回り込むと、両肩をつかんでグラグラと揺さぶりながら、心の底から楽しそうに微笑んだ。


 そんなに人を傷つけることが、楽しいのか。


 「最初は痛がっとったけど、最後はアンアン言いながら、自分から腰、振っとったわ。最後は俺のチ◯ポをきれいにしゃぶってくれたし、初めてやったのに3回もした! あの女、だいぶ淫乱やで!」


 鼻の奥が、ツンとする。耳鳴りがして、何も聞こえなくなった。


 黒沢の手を払い除けると、走り出した。稽古の後で、黒沢に散々蹴られた足は思うように動かなかった。だけど、それをもつれさせながら必死に動かして、ただ前に進んだ。早くここから逃げ出さないと、僕の世界が終わるように思えた。


 背後から黒沢の声が追いかけてくる。


 モラシくん、明日、学校でな!

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