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第13話 雅史、空手やめるってよ


 電車に乗ってから家に帰るまで、頭の中が真っ白だった。何も考えられない。何も耳に入ってこない。どこをどうやって帰ったのかさえ、記憶になかった。


 マイが、黒沢とセックスした。


 本当かよ、嘘だろう。嘘だ。また、僕をいじめるための嘘に決まっている。


 マイにLINEして聞こうかと思った。だけど、本当だったらどうする? というかマイはただの幼馴染で、僕の彼女でもなんでもない。一方、黒沢とマイは付き合っている。高校生だけど、セックスしても不思議じゃない。


 それでも、信じたくなかった。


 目を閉じれば黒沢にベッドに押し倒され、激しく突かれているマイの姿が浮かんできた。明日斗の家で、親に隠れてこっそり見たエロ動画とそっくりだった。だけど、男の顔は黒沢で、女の顔はマイだ。強烈な嫌悪を感じる一方で、なぜか激しく勃起した。黒沢に犯されているマイを想像して、その夜はオナニーした。


 僕は、最悪だ。


 次の日は、学校に行かなかった。いや、行けなかった。


 まず、朝イチでマイに会うのが嫌だった。どんな顔をすればいい? 何を話せばいい? 怖かった。以前のように、普通に話せるわけがない。


 毎朝、マイは僕の家の前で待っている。カーテンの隙間からのぞくと、やはり家の前でスマホをいじりながら待っていた。


 さっさと先に行けよ。


 「雅史、マイちゃんが待ってるわよ!」


 台所の方から母さんのいらだった声が聞こえる。うるさいな。一緒に行きたくないんだよ。


 「今日は一緒に行かへんねん!」


 僕は部屋でもたもたと着替えながら、返事をした。僕の準備が遅いと、マイは先に行ってしまうことがある。それを待っていた。


 はよ行けや。


 マイは結構、ギリギリまで僕を待っていた。時々、2階の僕の部屋を見上げながら。カーテンは開けなかったが、見ていることに気がつかれたかもしれない。


 マイとセックスしたわ。


 黒沢の声が耳元で甦る。ドスの利いた、おなかの底まで響くような声だ。


 やめろって。こんな朝っぱらから。意思に反して、勃起した。マイが他人と、それも大嫌いな黒沢とセックスした。それが事実かどうかもわからないのに、こんなに興奮する自分が気持ち悪くて仕方がなかった。


 マイの姿が見えなくなってから家を出る。ギリギリだ。今から乗れる電車では校門が閉まる前に学校に入れるかどうか、微妙なところだった。


 だけど、想像より早く、僕の足は止まってしまった。電車に乗り、降りて、駅の改札口の手前で、もう学校には行けないと思ってしまった。


 いつも黒沢がマイを待っている柱が見えた。今朝もここで待っていたに違いない。駆け寄るマイが見える。キラキラしたあの笑顔で。いつも通り仲良く手を繋いで、学校に行ったに違いない。大声で叫び出したくなる衝動が腹の底から突き上げてきて、それをなんとか飲み込んだ直後、今後は猛烈な吐き気に襲われた。


 うっぷ


 顔面から冷や汗が噴き出す。膝が震え、手にも力が入らない。ゆっくりと深呼吸して、なんとか吐き気はおさまった。


 僕は改札を出ると、回れ右して、また電車に乗った。そのまま家に帰った。足先が冷たくて、ふわふわして、地面を踏んでいる感覚がしなかった。


 次の日も、その次の日も学校に行けなかった。学校だけじゃない。あんなに好きだった道場にも行けなくなった。


 黒沢と会うのが、怖かった。


 次に会えば、何を言われるのか。


 マイと何をしたのか。どんなふうにしたのか。


 それを聞かされれば、正気を保てる自信がなかった。もう何も聞きたくないし、全て忘れてしまいたかった。だけど、学校を休んで部屋にこもっていると、頭の中に湧いて出てくるのは、黒沢とマイが激しいセックスをしている妄想ばかりだった。その度に勃起して、半泣きでオナニーした。


 僕は最悪だ。


 空手の稽古をして、頭の中をきれいさっぱりリセットしたかった。だけど、黒沢には会いたくない。できれば二度と会いたくない。道場に行けば、黒沢がいる。そして、道場の同世代は今や、みんなやつの取り巻きだ。


 「雅史、明日はどうするの?」


 母さんの、すっかりあきらめたような声が聞こえる。小学校時代からいじめでしょっちゅう学校を休んでいたので、父さんも母さんも僕が学校に行かないことを今更、あれこれ言わなかった。一応、母さんが学校に行って、宮崎先生と話をしたようだった。


 「何かあったの?」


 聞かれたのは、それだけだった。いじめられっ子の親として、年季が入っている。無理に聞き出そうとしたり、学校に連れて行こうとしても、逆効果だということをよく知っている。心の中の嵐が過ぎ去るまで、そっとしておいてくれるのは、本当にありがたかった。だけど、今回の嵐は僕の中に居座って、簡単に消滅しそうになかった。


 学校と道場を休んで1週間が経った頃、学校の先生よりも先に、沖名先輩から電話がかかってきた。


 「雅史、空手の先生から電話よ。代わってほしいんだって」


 母さんに呼ばれて、受話器を受け取った。沖名先輩はスマホではなく、家の固定電話にかけてくる。僕が未成年だから、親を飛ばして直接、連絡するのはいけないことだと思っているようだった。


 「押忍、雅史。俺だよ」


 いつもより低く、感情を抑えた声だった。


 「…押忍」


 午後3時過ぎ。母さんがパートから戻ってきた直後だった。台所には昼過ぎの黄色い日差しが入ってきていて、妙に暑かった。


 「雅史、芳樹たちにいじめられているのは知ってるよ。ごめんな、ちょっとこんな感じになるまで放っといて」


 はぁ…とため息がまじる。申し訳ない気持ちが、伝わってきた。


 やっぱり、わかっていたんだ。まあ、あれだけ露骨にやっていれば、わかるよな。


 「せやけどな、雅史。道場におるのは芳樹だけやない。お前のことを応援している道場生もおる。ほら、社会人の工藤さんって、わかる? 雅史のこと、気にしていたぞ。そういう人と一緒にやったらええやんか。な、また稽古に来いよ」


 そうできたら、どんなに楽だろう。だけど、道場という閉鎖された空間で、どうやって黒沢を無視できる? 学校からも道場からも1週間離れたというのに、頭の中は黒沢でいっぱいだ。本人と直接、会っていないのにこの状態なのだ。実際に会ったら、どうなる? 


 「待ってるわ。一緒に頑張ろう」


 普通なら、ありがたい言葉だ。だけど、それを聞いた瞬間、僕はもう道場に戻るのは無理だと確信した。


 「……押忍、ありがとうございます」


 電話を切った後、スマホを触っていた母さんに、空手をやめると言った。


 「えっ、あんなにはまってたのに、なんで?」


 顔を上げて目を丸くして驚いていたけど、それ以上は追求しなかった。

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