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第24話 胸を張れ!

 ジムに戻ると、少年部の親が作ってくれた大量の握り飯が用意されていた。


 「しっかり食えよ。昼からもたないぞ」


 岡山さんがそう言って笑うと、ガシッと僕の肩をつかんだ。ラントレの終盤に少しだけ参加していた。もう着替えて帰る準備をしている。夜勤明けで目の下にうっすらとクマができていたけど、優しい笑顔は絶やさない。ひと汗かいて、これから帰って寝るわけだ。


 とてもじゃないが、そんな食欲はない。暑い中、大汗をかいて走り切った後で、水分しか喉を通らない。


 「城山! しっかり塩分と糖質を摂っておかないと、足がつっちゃうよ」


 千葉さんにもポンポンと背中を叩かれた。


 はい、ありがとうございます! ちゃんと食べます!


 本当に食べているのか気になるのか、真顔でめちゃくちゃこっちを見ている。ええい、仕方ない。食べるしかない。気力を振り絞って、おにぎりをほおばった。疲労でカラカラになった口の中で米粒が絡まって、喉を通りそうにない。なんとか水で流し込みながら、時間をかけて2つ食べた。昔ながらの超酸っぱい梅干しが入っていた。


 昼からはジムで技術練習という名の、スタミナ稽古だった。とにかくミット。ミット、ミット、またミット。代表いわく「集中力が切れないように」と1セット2分(本当は3分やりたいらしい)。2分でも僕には十分に長かった。


 ジャブ、ワンツー、ツーフックに始まってディフェンスから返しのストレート、返しのフック。いろいろなコンビネーションをひたすら打ち込む。すぐに疲労で腕が重くなり、肩に力が入る。息をするのが苦しい。チラチラとジムのタイマーを見る。まだ1分も経っていない。2分間が永遠のように感じられた。


 やっている最中に代表から「もっと胸張って」とか「腕、しっかり伸ばして」とか指導が入る。これがうれしい。なぜなら「押忍!」と返事をする時に一瞬、休めるからだ。パンチの後はキック。それぞれ10セットずつ、計20セット。


 終わったらフルコン対策でビッグミットが始まった。高さ1メートル強ほどある体を覆い隠すほど大きなミットに、ひたすら突きや蹴りを連打するのだ。これを2分10セット。もう普通のミット練習でヘトヘトなのに、手を止めるのは許されなかった。


 「は〜い、手、止めないよ!」


 「雅史、動いて!」


 「は〜い、ラスト30!」


 代表のかけ声が少し怒気を含んでいて、怖くて手が抜けない。とにかく連打、連打、連打。ミットにもたれかかるようにして、ひたすら手を出す。大きく口を開けてあえいでも、酸素が足りない。


 心臓が破裂しそうだ。


 「雅史、下向いたらダメ〜!」


 「雅史、胸張って〜!」


 「ま〜さ〜ふ〜み〜!」


 次第に代表の声のトーンが上がっていく。僕ばかり名前を呼ばれて、見られているのをひしひしと感じて、ますます手が抜けなかった。


 これ、真正館でも試合前にやっている人がいた。「ああ〜!」とか「そりゃ〜!」とか声を出しながらやっていて、キツそうな稽古だなと思っていたけど、実際にやってみると、とてもキツい。少しでも休もうとすると声がかかるし、何より疲れて手が止まりそうになると、ミットを持っている翔太が真顔で「ソイヤ!」と謎のかけ声を出すのだ。叱られているみたいで、手が抜けなかった。


 というわけで、午後はスタートから2時間ほど、とにかくミットばかり叩く。そして休憩。もぐもぐタイム。


 「食べる? っていうか、食べな。何か食べないともたないよ」


 千葉さんがタッパーを手に近寄ってきた。これだけミットを打つと、さすがの千葉さんも顔が上気して、赤くなっていた。


 めちゃくちゃうれしい。千葉さんみたいな美女が、僕のことを気にかけてくれている。ジムの隅でうつ伏せになってぶっ倒れていたけど、体を起こした。


 千葉さんは学生時代に結構、真剣に空手をやっていた。糸東流という流派で、伝統派なのにバンバン当てていたらしい。伝統派はみんな寸止めだと思っていたので驚いた。全国大会に出場したほどの選手だったそうで、午後のミット練習にも難なくついてきていた。なんだ、素人会員かと思いきや、めちゃくちゃ経験者じゃないか! そりゃラントレも離脱せずについてこられるよ。


 タッパーの中身は、あんこもちだった。


 昼のおにぎりは全く食べる意欲がわかなかったが、千葉さんがくれたものとなれば、話は別だ。僕はひと口でほお張った。うん、おいしい。甘い。千葉さんが恵んでくれたというだけで世界の全てが許せてしまうくらい、うれしかった。


 30分ほどの休憩時間の後は、組手が始まった。


 「は〜い、それじゃ、とにかくけがのないようにね〜。無理だと思った人は、抜けてくださいね〜」


 ミット練習の緊迫感はどこへやら、代表のいつもの気の抜けたような合図で、組手が始まった。


 代表も含めた10人ほどの参加者で、2分1セットでとにかくグルグルと回す。千葉さんはうまい。伝統派空手の出身らしく、左手のリードジャブが速くて、避けられなかった。面白いようにもらってしまう。


 「城山は下を向いてるからダメなんだよ。もっと胸張って。頭を高くして!」


 組手を中断して、アドバイスをくれる。自らグイと胸を張る。形のいいバストがTシャツを押し上げて、僕はヘトヘトにもかかわらず勃起してしまった。


 胸を張れ、頭を高くというのは代表にも口酸っぱく言われていたが、意味がよくわからなかった。グローブをつけてキックルールで1周すると、休憩。続いてグローブを外して、フルコンルールで1周する。


 また千葉さんが僕のところへやってきた。なんでそんなに僕のことを気にかけてくれるのだろう。もしかして、好かれてるの?


 「ちょっと、立ってみ」


 へばって座り込んでいるところに千葉さんが小走りにやってきて、僕の頭をポンポンと叩く。腕を取って、立たされた。体が重い。股関節から足がちぎれそうなほど痛かったが、憧れの人に立てと言われて立たないわけにはいかない。


 「はい、城山、深呼吸! 真似して!」


 僕の前に背筋を伸ばして立つと、胸を膨らませて、すうーはぁーと深呼吸をする。いや、だから、それヤバいっす。おっぱいが…。いや、スポーツブラだって知ってますけど、刺激が強すぎます。


 千葉さんは真剣な表情だ。股間が力んでいるのを悟られないように、少し腰を引いて、深呼吸する。


 「違う! もっとちんこ前に出して! 男の子やろ!」


 母さんが叱るときみたいな調子で、言われた。


 はぁ?! いま、ちんこって言いました?!


 プッと、そばで聞いていた翔太が吹き出した。ああ、もういいや。ちんこ立っているの気づかれても、構わない。好きにしてください。


 体をそらせて、大きく息を吸う。


 「そう。そうや。そこで止めて」


 千葉さんはニヤッと笑うと「ここでキープな」と僕の胸に手を置いた。


 「胸をきちんと開いた状態。それが空手のニュートラルポジション。城山はいつも背中が丸まって、胸が閉じてるねん。そう。そのまま、その状態で静かに息をしてごらん」


 千葉さんに胸を触られて妙なくすぐったさを感じるが、なんかすごく背筋が伸びた気がする。


 え、僕ってこんなに背が高かったっけ? 千葉さんの頭が、いつもより低い位置に見える。それに肩の力が抜けて、腕がすごく楽ちんだ。


 「ええよ。そのまま構えてみて」


 千葉さんは僕の胸から手を離すと、軽く構えた。僕も足を前後に広げ、腕を上げて構えてみる。


 「あ、なんか、すごい高いです」


 うまく伝わったかどうかわからないけど、とにかくひと言で言えば「すごく高い」のだ。視点もそうだし、構え方も高くなった感じがした。いつも足がひどく疲れるのに、膝にゆとりがあって楽だった。


 「え…すごい。全然違う」


 驚いた。これ、なんだろう。これが空手? 


 「いいね。城山は飲み込みが早くていいぞ。それでフルコンやってみよう」


 千葉さんはうれしそうに笑うと、僕の腕を乱暴にバンバンと叩いた。励まされて張り切ってその後のスパーに臨んだものの、1セット目で代表にボディーを効かされてダウンしてしまった。

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