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第23話 走る走る

 合宿は7月の最終週の金、土、日曜日に行われた。


 何だかスケジュールが緩い。好きな時に合流して、好きな時に帰っていいと書いてある。料金は1日だけなら1万円、2日で1万8000円、3日で2万円。


 「まあ、金取るだけのことは教えるから。有料セミナーに行くと思って、存分に吸収して帰ってよ。あ、金曜の最初から来るなら、集合は朝7時な」


 代表は真顔でサラッと、とんでもない時間を口にした。


 え、朝7時集合って…。


   ◇


 初日の朝は午前5時半に起きた。母さんが食事を用意してくれたけど、緊張であまり食べられなかった。大して食べてないのにお腹が痛くなり、家を出るまでに3度もトイレに座り込んだ。


 ジムに到着する。朝日がジリジリと暑くて、もう汗が吹き出していた。階段の下にすでに数人、集合している。翔太や千葉さんの姿もあった。みんなTシャツに短パンやショートスパッツだ。


 「雅史、荷物はジムに入れといて。水だけ持ってきて。すぐに出発するぞ」


 すでに自転車にまたがっている代表に促されて、着替えが入ったリュックをジムに放り込む。ミネラルウォーターのペットボトルだけ持って行った。


 「じゃあ、今から鶴見緑地まで、アップ代わりのランニング〜。朝イチだから、けがには気をつけてな。じゃあ、出発〜」


 代表は手のひらをメガホンにして構えると、少し声を大きくして呼びかけた。


 え?


 聞き間違いではないだろうか。鶴見緑地って言った? ここから電車で4駅か5駅、離れたところだ。走れる格好で集合と言われていたが、いきなりそんなに走るとは思ってもいなかった。


 心の準備が整わないうちに、走り出した。


 救いだったのは、みんながみんなハイペースではなかったことだ。翔太をはじめアマチュアの試合に出ている会員たちはあっという間に姿が見えなくなってしまったが、千葉さんら普通の会員は、なんとか付いていけるペースだった。


 とはいえ、しんどい。週6で練習しているとはいえ普段、走ることなんてないので、あっという間に脛が痛くなってきた。そもそも走るのは小さい頃からずっと苦手なのだ。夏の日差しはどんどん強くなり、シャツはあっという間にびしょびしょになって、裾から汗がポタポタとこぼれ落ちる。


 「城山くん、大丈夫? ちゃんと日焼け止め塗ってきた?」


 隣で走っている千葉さんが、話しかけてきた。表情は涼しい。まだ余力がありそうな口調だった。


 千葉さ〜ん。千葉さんが心配してくださるなら、どこまででも走りま〜す。


 夢みたい。千葉さんと隣同士で走っている。フードのついた帽子をかぶって、シャツの下は長袖のラッシュガード。短パンの下もロングスパッツで、日焼け対策は万全だった。すみません、僕は何もしてきていません。


 「日焼け止め塗ってきてないけど、大丈夫です!」


 息が苦しくて、しゃべっている余裕はなかったけど、僕は声を振り絞った。


 千葉さんと会話できる機会なんて、そうそうない。しかも、隣同士で。深呼吸しているふりをして、千葉さんの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。と言っても、自分のシャツから立ち上る柔軟剤の匂いしかしなかったけど。それでも僕は、天にも昇る心地だった。


 鶴見緑地に到着すると、ミユちゃんがいた。こちらも日焼け対策なのか、長袖のラッシュガードにロングスパッツだ。薄手のパーカーを着て、帽子もかぶっている。女の人はやっぱりしっかり対策するんだな。


 「いつもお世話になっています」


 一緒にお母さんが来ていた。小柄で、よく似ているのですぐわかった。息を整えていると、笑みを浮かべながら「城山さん?」と近寄ってきた。


 「はい。城山ですが…」


 「ミユの母です。いつも娘がお世話になって、本当にありがとうございます」


 丁寧な言葉遣いで、深々と頭を下げる。ミユちゃんはいつもツンとすまして人を寄せ付けない雰囲気なのだけど、お母さんはニコニコしていて人当たりがよさそうだった。


 お世話したかな?


 むしろ毎日、ボコボコにされて、何がダメかを容赦なく(代表経由で)指摘されているので、世話になっているのは、僕の方だ。


 「あ、いえ。そんなことありません。ミユちゃんは本当に強くて、いつも僕の方が勉強させてもらっていますんで」


 しどろもどろになりながら、返事をする。


 「城山さんも学校行けてないんでしょ?」


 お。不意を突かれて、ドキッとした。そこか。そう来たか。


 「はい…まあ…」


 なんと返事していいのかわからなくて、苦笑いをして頭をかいた。


 「お互い学校に行けていない者同士、仲良くしてやってくださいね」


 また頭を下げる。ミユちゃんが駆け寄ってきて、珍しくちょっと怒った感じで「余計なこと、言わんでええから」と割とはっきり聞こえる声で言った。


 「は〜い、給水したかな〜。じゃあ、1分間走、開始ね〜」


 代表がパンパンと手を叩いている。みんなゾロゾロと通路に並び出した。


 鶴見緑地は昔、国際園芸博覧会が開かれた会場で、今では公園になっている。キャンプ場やバーベキュー場があって、ミニマラソン大会ができるようなランニングコースもある。今、僕らがいるのは、公園に入ったばかりのところにある大きな芝生広場のそばだ。外周がランニングコースになっている。何メートルくらいあるだろう。学校のグラウンドより少し大きく感じるので、500メートルくらいはありそうだ。


 「はい、じゃあ、スタート!」


 いきなり合図。えっ、どこを走るの? わからないまま、付いていく。


 翔太たちは速い。あっという間に置いてけぼりにされた。千葉さんも今回は楽なペースではない。真剣な表情で結構、一生懸命走っている。いや、全力疾走そのものだ。


 結局、芝生広場を一周した。スタート地点に代表が立ってストップウォッチを手に「はい、千葉ちゃん、1分25秒、雅史、1分27秒」とカウントしている。


 これはキツい。


 30秒休憩して、もう一本。


 もうダメだ。スタートしてすぐに足が上がらなくなり、1分40秒もかかった。


 この後、割としっかり休憩があった。5分休んで、全力疾走2本。また5分休んで、全力疾走2本。これを計5セット繰り返した。


 みんな、ちゃんとこなしている。僕はもうボロボロだった。


 「おお〜、いいね! 翔太、タイム縮んだよ! 1分8秒!」


 めちゃくちゃ速い。いつもポーカーフェイスのミユちゃんですら、ほおを真っ赤にして苦しそうにしている。僕は2セット目からもう足が上がらなくなって、全力疾走できなかった。千葉さんが「城山〜ファイト〜!」と応援してくれなかったら、途中でやめていたかもしれない。


 聞いた? 


 城山って呼び捨てにしてくれたんだけど。なんか距離、縮まってない?


 「試合のスタミナを作る練習なんだ。試合は大体、3分間。後半1分間にフルパワーで動き続けるためのトレーニングかな、うん」


 気がつけば、夜勤明けの岡山さんが来ていた。ビジネスカジュアルっていうの? 水色のポロシャツにグレーのスラックスで、腕を組んでみんなが走っているのをニコニコしながら見ている。


 「えっ、3分なら3分間、動き続けた方が良くないですか?」


 「そういう考え方もある。だから、昼からはそういう稽古をするよ」


 1分間走の後は、20メートルほどの短い距離でダッシュを10本。もう足が重たくて全然、スピードが出ない。悲しいくらい遅い。


 その後、再び公園のランニングコースを使って、割と緩いペースで20分間、走った。走ってばっかりだ。どこが有料セミナーなんだろう。セミナーって行ったことないから知らないけど、もっと技術を教えてくれるものなのじゃないの?


 翔太は走り終わってもケロッとしていた。汗だくでなければ、とても今、たくさん走ってきたとは思えない。


 「翔太はすごいな。しんどくないの?」


 「やってるから」


 全く表情は変わらなかった。いつも通りの淡々としている。


 「え?」


 「毎週、やってるから」


 マジで?! こんなしんどいことを?!


 「これを?」


 翔太は手の甲であごを伝う汗を拭うと、声を出さずに小さくうなずいた。


 「去年やって、よかったから、毎週やっている…」


 感心した。感心して、言葉を失った。


 そうなんだ。


 だから、こんなに黙々とこなせるんだ。やっぱり、やらないとダメなんだ。


 「は〜い。走るのは基本だからね〜。ステップ踏むのも、走らないとうまくならないからね〜。じゃあ、ジムまで帰る〜」


 代表がまたパンパンと手を叩いている。嘘だろう。まだ走るのか? 誰かがはぁ〜とため息をついたのが聞こえた。千葉さんを見ると、笑いながらも「相変わらずキツいね〜」とこぼしていた。

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