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第22話 千葉さん

 もうすぐ夏休みが始まろうとしていた。学校に行っていない僕には関係なかったが、家では竜二がソワソワしているし、ネバギバからの帰り道ですれ違う高校生たちも、なんだかみんな浮ついた表情をしている。もうそんな時期かと、嫌でもわかった。


 「合宿、来る?」


 珍しく翔太が声をかけてきた。背後から割とはっきりとした口調で話しかけられたので、びっくりした。普段、ほとんどしゃべらない人に突然、話しかけられるのは、本当に心臓に悪い。


 夜の練習が終わった後だった。今夜のラストは打撃クラスで、フルコンルールだった。ジム内には打ち合った熱気がまだムンムンと残っていて、汗が止まりそうにない。


 代表から「左のジャブ限定」といわれて、ひたすら左の突きを打ち続けて、肩や背中がパンパンだった。最近、確かに僕は腕が長いということが、自分でもわかってきた。随分と遠くまで届く。僕がうまくジャブを使いこなしている場面では、相手はそれをさばいて近づいてくるのに苦労していた。


 ただ、みんなに通用するわけじゃない。翔太は器用にパーリング(ディフェンスの一種)でジャブをかわした。当たったと思っても、翔太の手がスッと動いた瞬間に軽く弾かれている。そして、素早く踏み込んできて、内臓全体を揺さぶるようなズシッと重たいパンチを叩き込んできた。ある程度、打撃をやりこんでいる人には通用しなかった。まあ、そりゃそうだろう。僕はまだここで練習を始めてから、1カ月くらいしか経っていない。


 頭を空っぽにするのに、空手じゃなくても大丈夫かなと不安はあったけど、ネバギバはどのクラスでも、しっかり真っ白になることができた。他のことを考えている暇はなかった。スパーリングはもちろんミットや打ち込み練習も、集中していないとフォームがバラバラになってしまう。空手と同様の効果はあった。ネバギバにいれば、それこそ一日中、マイや黒沢のことを考えずに済んだ。


 で、冒頭の話に戻る。翔太はバイトをしていない日は、夕方からのクラスにも参加していた。声をかけてくるのは珍しい。振り返ってみると、いつも通りの素の顔だった。いつもは視線が泳いでいるのに、珍しく僕をきちんと見ている。


 「合宿? このジムの?」


 言葉が短すぎて、何の合宿なのかわからない。ただ、翔太が行く合宿といえば、このジムの合宿以外にはないと思われた。


 言われてみれば、ジムのホワイトボードに『合宿参加者募集』というチラシが貼ってあったような気がする。入ったばかりだし、関係ないと思ってよく読んでいなかった。


 翔太は声を出さず、小さく何度かうなずいた。


 「なに、雅史も合宿、来るんか?」


 にこやかに声をかけてきたのは、長崎さんだった。


 夕方以降のクラスには週4くらいで来ている、会社員だ。30歳いっているかいってないかくらい。ジムに現れる時はいつもスーツ姿で、髪をビシッとセットしてデキるビジネスマンという風態なのだが、服を脱ぐとキレキレに引き締まった体をしていて、その落差に驚く。趣味でアマチュアの総合の試合に出ていると言っていた。プロになるつもりはないらしい。


 「え、まだわかりません。そんなんがあるのも知りませんでした」


 とぼけて、知らんぷりをしてみた。まあ、実際に全く知らないのも同然なんだけど。知らないふりをして、情報収集させてもらおう。


 「7月の下旬に、ここに2泊3日で寝泊まりして、みんなでガンガンに練習すんのよ。楽しいよ。意識変わるぜ」


 長崎さんは腕を組むと実に楽しそうに、僕を誘った。ネバギバの高校生や大学生たちの兄貴分で、よく僕たちにアドバイスをしてくれた。格闘技だけではなく、受験や就職のことも相談に乗っていた。普通の企業に勤めているのだが、実は教職員免許を持っている。どういう経緯で先生という職業に就かなかったのか知らないが、教員を志したことがあるだけあって、よく世話を焼いてくれる親切な先輩だった。最近、結婚したばかりで、小さなお子さんがいると聞いた。


 合宿か。でも、まだ入会したばかりだし、付いていけるだろうか。


 「代表! 雅史も合宿、行けますよね」


 長崎さんは、カウンターでノートパソコンを広げて事務作業をしていた代表に、声をかけた。


 「あ? 別に大丈夫だと思うけど」


 代表はチラッと顔を上げるとサラッと言って、またすぐにパソコンに目を戻した。わざわざそんなこと聞くなと言いたげな風情だ。どうやら本当に大したことはないらしい。


 「僕、まだ入ったばっかなんですけど」


 それでも不安だった。僕はもともと運動音痴なのだ。格闘技の練習をするのは好きだけど、普段のクラス以外の、それこそ合宿みたいな特別な時間についていけるのか。いや、無理だろう。


 「大丈夫だよ。ちょっと走ったり、スパーが多かったりするけど、基本的にいつもとやってることは一緒だから。それに、雅史はいつも一日中、ジムにいるやん。合宿と一緒や」


 長崎さんは腕を組んだまま体を揺さぶって、ハハッと笑った。そういうものなのか。でも、知らない人もたくさん来るんじゃないだろうか。それも心配だ。


 「絶対大丈夫やんな。なあ、千葉ちゃん」


 長崎さんは、フロアの隅で開脚ストレッチをしている若い女性に声をかけた。


 「え、全然、大丈夫やと思うけど。だって城山くん、高校生やろ? 体力、あり余ってるんとちゃうの?」


 顔を上げて、ニコッと微笑みながら長崎さんを見て、僕を見る。ああ…。千葉さんに声をかけられてしまった。それだけで僕はイってしまいそうだ。


 彼女こそ、ネバギバのマドンナ、千葉さん。マドンナってすごく古い表現のような気がするけど、そうとしか例えようがない。夜のクラス、特に夜の打撃クラスに来ている社会人だ。どこかのOLさんらしい。長崎さんと同じく、いつもスーツ姿でジムにやってくる。女性にしては背が高く、そして何より美人である。タレントの本◯翼に似ていて、いつもニコニコしていてかわいい。


 顔がいいだけではなく、スタイルもめちゃくちゃいい。いつもスリムフィットのシャツに黒いロングスパッツという、体のラインがくっきりと出る服装で練習していて、ドギマギしてしまう。巨乳ではないけど、シャツの下のスポーツブラのラインがバッチリ見えてしまっているのも、高校生には刺激が強すぎる。ああいうふうに見えるように着るものなのかもしれないけど、とにかくヤバい。千葉さんがクラスにいるときは、視界に入るようにこっそり立ち位置を調整しているのは、僕の秘密だ。


 性格も最高だった。明るくてサバサバしていて、面倒見もよくて、ジムの野郎どもの憧れのお姉さんだった。初めて会ったとき「お、新顔かい? よろしくね!」と気軽に声をかけて、さらに肩まで叩いてくれて、僕はひと目で惚れてしまった。そんな人に声をかけられたものだから、自分でもわかるくらい真っ赤になってしまった。


 はい! 体力、あり余ってます!


 「千葉ちゃんは行くの?」と長崎さん。


 「行きますよ! 3日目の午前が終わったら帰りますけど、初日のラントレは今年も参加しま〜す」


 千葉さんは笑いながら、少しおどけて返事をした。茶目っ気たっぷりなところも、かわいい。


 えっ、千葉さんも参加するの? 僕は翔太を見た。また目が合う。


 お前の憧れの千葉さんも行くって言ってるんだけど、当然行くよね?


 その目はそう語っていた。


 「ほら、女性だって参加するんだから。雅史も行こうよ」


 長崎さんの言葉が終わるのを待たずに、僕は「行きます!」と口走った。想像以上に大きな声が出てしまった。周囲の視線を感じて、また顔が赤くなる。

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