文化祭2日目の最後には、生徒会主催の後夜祭が開かれた。昨年はマイの一件があって終わるや否や帰っていたので、こういうものがあるということすら知らなかった。
簡単に言えば、校庭で巨大なキャンプファイヤーをするのである。参加は自由。とはいえ、見渡すとほとんどの生徒が残っているように見えた。後片付けが終わった午後5時過ぎから始まり、炎の周りで3年生がクラスごとに出し物をする。寸劇あり、ダンスあり、コーラスあり。3年生の思い出作りを、下級生が観客となって盛り上げるわけだ。
僕も同級生たちに混じって参加した。隣にはマイと明科がいる。鈴鹿は3年生の彼氏のところに行ってしまっていた。
日がかげり始めていた。キャンプファイヤーに追加の木材が投入されるたびに、火の粉が舞い上がる。それがきれいで、いつまでも見つめていた。焚き火の匂いがつくということで、多くの生徒が冬物の体操服姿だ。僕もマイもそうだった。
トン
マイが僕の右腕に頭を寄せた。見ると、目にいっぱいの涙を浮かべている。
「どうしたん」
よれよれになったハンカチを出して、今にもこぼれ落ちそうな涙を拭いた。
「あ、ありがとう」
マイは僕から当たり前のようにハンカチを奪うと、目元をぬぐってからチーンと鼻をかんだ。
「なんか、ちょっとジーンとして」
鼻をかんだ部分を内側にして、僕に返してくる。仕方なく受け取った。
「1年前は、こんなの想像もできなかったなあって思って」
言われてみれば、その通りだ。
去年の今頃、マイはまだクラスに復帰できていなかった。登校して〝隔離室〟に行っていた。僕も授業中以外はずっとそばにいたので、普通に学校に行っていた記憶はない。
新田の黒沢襲撃事件があったのも、確か今頃だったはずだ。
「うん、そうだね」
あの頃を思えば普通に学校に来て、授業を受けて、部活もしている。僕もマイも、どちらも欠けていない。こんなの幼稚園時代以来じゃないだろうか。すごく幸せ。そう、普通って、すごく幸せなことなんだ。
マイの肩を抱いてやろうと思って手を伸ばしたその時、誰かが僕の左腕を小突いた。振り向くと郡司だった。僕らと同じく体操服姿だ。
「おい、ツラ貸せや」
スッと血の気が引く。せっかく普通であることの幸せを噛み締めていたのに、それを掻き乱すやつがやってきた。郡司を見て、マイの血相が変わった。何か言おうとするのを止めて「ここで待ってて」と言う。
「なんで」
眉を吊り上げて明らかに不満そうだ。
「ちょっと話をしてくるだけだから」
「でも」
「大丈夫。すぐ戻ってくるから」
郡司はもう一度、僕を小突いた。
「おう、黄崎も来てええんやで。全然、無関係ってわけでもないしな。むしろ、黄崎がおった方が話しやすいんとちゃうか?」
ニヤリと凶暴な笑みを浮かべる。
そうはさせるか。
「郡司……」
何か言おうとするマイを制して、僕は明科にマイを見ておいてくれるように頼んだ。そして、郡司に従って人の輪から離れた。郡司の話に黒沢が無関係なわけがない。ならば、マイには絶対に聞かせるわけにはいかない。
校庭の隅にプールがある。その倉庫の脇の暗がりに連れて行かれた。郡司組らしき数人の生徒が待っていた。女子が多い。以前、僕を呼びにきた高松もいる。そして、男子も数人。彼らはどういう経緯で黒沢と敵対することになったのだろう。
「それで、この前の話、どうすんの」
郡司は不機嫌そうな顔をして、いろいろすっ飛ばして聞いてきた。
この前の話とは黒沢との戦争のことだろう。黒沢側につくか、郡司側につくかということだ。黒沢につくのは絶対にない。だけど、そもそもどっちにつく気もなかった。この2人の痴話喧嘩に、なぜ参加しないといけないのか?
「いや、だから前にも言ったけど、僕はどっちの味方もしないって」
「そういうわけにはいかんって、言うたやろ? お前の彼女を、こっちは押さえとるんやで? ついでに黄崎もシメたろか?」
まだ朱嶺を僕の彼女と勘違いしているようだ。それに「押さえとる」ってどういうことなんだ? ついでにかなんだか知らないが、マイに手を出したら許さないぞ。
「新田を仲間にしたんやろ? じゃあ、もう戦力は十分やんか。僕が参加しなくても大丈夫やろ」
少々、申し訳ないと思いつつ、新田の名前を出して逃げようとした。
「とかいうて、ヨシキの方に行く気やろ」
「なんでやねん」
この郡司という女は、アホなのだろうか。いや、アホだ。僕が黒沢側につくことなんて、生まれ変わってもあり得ない。
「ヨシキの方に絶対に行かへんっていう保証はあるんか」
郡司は目を細くして、僕をにらんだ。
「保証も何も、僕が黒沢の味方をするわけないやんか。知ってるやろ?」
郡司が腰に手を当てて、はぁ〜とため息をついた、その時だった。
「まあくんを巻き込むなや!」
いつの間にか、背後にマイが来ていた。めちゃくちゃ怒った顔をしている。
「マイ」
「なんや、黄崎も来たんかいな」
明科も一緒にいる。引き留めきれなかったのだろう、うろたえている。ええい、いざという時に使えないやつだな。
「どうせあんたがやっていることやから、ややこしいことなんやろ!」
マイはすごい剣幕だった。僕の前に飛び出して、郡司の前に立ち塞がった。こんなに怒っているのを見るのは久しぶりだ。小学校時代に、僕が殴ったり蹴られたりしているのを止めにきた時以来ではないだろうか。
「うっさいなあ。これは愛莉とヨシキの戦争なんや。真剣にやってんねん」
郡司は自分のことを愛莉と呼ぶ。
「お前みたいな不感症女は、引っ込んどれや」
マイに向かって一歩踏み出して、凄んだ。
「不感症女って……?」
マイが思わず聞き返す。
「はあ? 知らんの? あんた、セックスしても全然、気持ちよくならへんのやろ? ヨシキから聞いたで。ガンガン突いても苦しそうで、オモロなかったって」
郡司はフンと鼻で笑った。マイの横顔が紅潮する。
「な……。そんなん今、関係ないやろ!」
「関係あるもないもあるかい! 愛莉の邪魔をすんなや!」
郡司はマイの胸ぐらをドンと突いた。
あ!
くそ、女でも許さないぞ!
マイが何か言おうとした瞬間、郡司は一歩詰め寄って叫んだ。
「あんたも妊娠したらよかったんや! 岩出に中出しされたくせに! あのブサイクの子供を、妊娠しとけばよかったんや!」
止める間もなく、マイが郡司に飛びかかった。
「ぐえっ」
どっちが出したうめき声かわからない。だけど、状況からすれば郡司だろう。マイは郡司の首に手をかけると、押し倒した。馬乗りになって、日が落ちたこともあってよく見えないが、首を絞めているっぽい。
ヤバい、止めないと。
「マイ、やめろ!」
僕がマイに飛びつくのと、郡司の取り巻きが飛びかかってくるのとが同時だった。誰かがマイを蹴っている。だが、マイは郡司を離そうとしない。何か小さなうなり声を上げながら、左手で首を絞めつつ、右拳で郡司の顔面に殴りかかった。
当たり前だけど、郡司は苦しそうだ。
「マイ、やめろって!」
僕はマイの腋の下に手を差し込んで、力任せに引っ張った。郡司の取り巻きも割って入ってきたおかげで、引き離すことができた。
「お前! 死ね、死ね、死ね死ね死ね!」
マイは狂ったように叫び出した。僕を振り切って再び郡司に飛びかかろうとする。
「お前こそ死ねや! このクソが、クソ女、中出し! 不妊女!」
郡司も取り巻きに押さえられているが、手を離せば今にも飛びかかってきそうだ。
「ぶっ殺す! 絶対許さへん!」
「上等や! いつでもかかって来いや!!」
ダメだ。もう二人とも頭に血が昇って、収拾がつきそうにない。騒ぎを聞きつけて、先生たちがやってきた。助かった。
その後、僕らは夜の職員室に呼び出されて、事情聴取を受けた。僕も宮崎先生に話を聞かれた。けんかの当事者であるマイと郡司の自宅には、学校が連絡を入れたようだった。
「城山」
マイを連れて立ち去ろうとした時、宮崎先生が職員室から顔をのぞかせた。手招きして「城山だけ」と言う。暗い廊下にマイを残して、小走りで駆け寄った。
「しばらく黄崎から目を離すなよ」
僕の耳元に口を寄せて、ささやく。
「はい」
もとよりそのつもりだった。
マイは憔悴した顔をしていた。青白い顔をして、入院していた時を思い起こさせた。帰り道は明科も一緒だったが、誰もひと言も口をきかなかった。
駅を出てから、手を繋いだ。いつもなら握り返してくるのに、力なく手を引かれたままだった。握り返してこない。
「じゃ」
家の前まで来ると、マイは僕の方を見ずにスッと手を離した。自分の家の玄関の方にのろのろと歩いていく。
明らかにおかしい。
「ちょっと待って」
追いかけて、肩をつかんだ。マイは素直に歩みを止めた。
「マイ、うちに来なよ」
放っておけない。こんな状態で一人にしたら、また手首を切るのではないか。
マイはゆっくりとこちらを向いた。青白い顔、焦点の合っていない目。なんの感情も読み取れなかった。
「今、一人になりたくないでしょ」
「ママがいるから。たぶんパパも」
「そういう意味じゃなくて」
ええい、面倒臭い。僕はマイの手を引くと、強引に城山家に連れて行った。母さんは一瞬、驚いた顔をしていたけど、あら、どうしたのと言っただけで、特に詮索しなかった。
マイをリビングのソファに座らせて、自分の荷物を片付ける。手を洗って戻ってくると、マイはさっきと全く同じ格好で座っていた。僕が近づいてくるのに気づくと、目を上げて「部屋、部屋」と言う。
「部屋? 僕の?」
「そう。行こう」
何か言いたげな母さんを残して、2人で僕の部屋へ行った。ドアを閉めると、マイはベッドの前まで行ってこちらを向いた。
「ごめんなさい」
そう言って、頭を下げる。