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第138話 真剣に進学先を

 僕は一つ息を吐くと、意を決して言った。


 「ちょっと、東京に行きたいという気持ちがある。マイと一緒に」


 「え」


 マイは目を丸くした。ポッとほおが赤くなる。 


 「東京というか、関西を離れたいんだ。ここではいろいろあったから」


 マイはストローをつかんだまま、息を飲んで僕を見ている。朱嶺はというとグラスを置いて、完全に体を僕の方に向けていた。


 「関西を離れるとなると、やっぱり東京かなあって」


 「東京って、いっぱい大学あるけど、どこにするの?」


 マイは少し声が上ずっている。


 「うん。学費だけじゃなくて、生活費も高いって聞くし、親が納得してくれるような大学じゃないと、行けないだろうとは思う」


 「そうでしょうね」


 朱嶺が合いの手を入れてくれた。


 「そうなると、早稲田か慶応しかないかなあって」


 「早慶か……」


 マイはやっと動揺から抜け出したのか、声のトーンが落ち着いてきた。


 「国公立という選択肢はないの?」


 「東京で親が納得するような国公立となると、東大しかないじゃん」


 「そうやね。それに、そもそも東大なんか無理やわ」


 実は、早稲田は模試の時に志望校に書いたことがあった。比較的、入りやすいと言われている人間科学部で。判定はCだった。1年間、必死で頑張れば、行けるかもしれない。


 「東京かあ……。確かにすごくお金がかかりそうやね」


 マイは腕組みをして、眉根を寄せた。


 「いや、ちょっと待って。この話には、実は続きがあるんだ」


 マイはうん?という顔をする。そう。大事なのはここからなのだ。


 「東京の大学に行って、シェアハウスを借りて、マイと一緒に住む。どう? これなら少しは節約できそうじゃない?」


 「え!」


 マイは目をむいた。


 いや、変なこと言ったかな? アパートの同じ部屋となると、同棲っぽい感じがして何だかドロドロしてそうだけど、シェアハウスなら、なんかドラマみたいで青春って感じがしないか? われながらいいプランだと思うんだけど。


 「ウチと同棲したいってこと?」


 マイの声のトーンが少し上がった。顔もこわばっている。


 「同棲じゃないよ。シェアハウスだって」


 あれえ、おかしいな。なんでマイがこんなにしどろもどろになっているんだ。逆にこっちが困ってしまう。


 「同棲と一緒やん!」


 マイは赤くなって、また動揺している。


 「フッ。いやらしいですね」


 朱嶺が割り込んできた。ニヤニヤと笑っている。


 「なんでいやらしいのさ」


 ナイスアイデアにケチをつけられたみたいで、ちょっとムッとした。


 「だって、そうじゃないですか。彼氏と彼女だから同棲したらいいのに、わざわざシェアハウスにして部屋を別にして、生活空間を別にしようっていうのでしょう?」


 「それのどこがいやらしいの? けじめをつけていると思うんだけど」


 僕は憤慨して、口をとがらせた。


 「いやらしいですよ。わざわざ会いにくくして。同棲だったら、横を見たら黄崎先輩がいるんですよ。なのに、シェアハウスって。ドアを開けて、リビングを横切って、黄崎先輩の部屋まで行かないと会えないんですよ? 先輩、やっぱりエムなんですね。いやらしいです」


 朱嶺はニヤニヤ笑いながら、目を細めた。


 エム。Mか。マゾってことか。確かにSではないわ。どっちかといえばMだけど。


 「それっていやらしいの?」


 僕は横目でマイを見た。ちょっと怒った顔をしている。


 「いやらしいよ!」


 結構、力を込めて言い切った。


 え? そうなの? 僕の中では、むしろ同棲よりも清らかなイメージなんだけどなあ。


 「ま、まあ、ええわ。その案、採用。東京に行くなら早稲田ね」


 マイは少し噛みながら、また腕を組む。


 「ちょっと待って。まだ続きがあるんだけど」


 「まだなんかあんの?」


 そうだ。まだ僕の夢を最後まで言ってない。


 「シェアハウスは下北沢で借りたいねん」


 「え」


 反応したのは朱嶺だった。


 「先輩、早大のどちらに行かれるつもりですか?」


 「どちらって、学部ってこと?」


 「はい」


 「えっと、人間科学部……?」


 朱嶺は、呆れたようにため息をついた。


 「先輩。人間科学部は所沢です。所沢ってどこにあるか、ご存じですか?」


 名前は聞いたことがあるぞ。でも、どこにあるかはよく知らない。関東のどこかだ。


 「ちょっとわかんない」


 「埼玉県です。下北沢は結構、東京のど真ん中です。早大でも政経とかなら通えますけど、所沢まで通うのは無理ですよ。無理とは言わないけど、やめておいた方がいいです」


 「ああ……。そうなんだ」


 政経って政治経済学部だよね。早稲田で一番、難しいと言われている。


 無理。無理だな。


 「まあくん、要するに下北沢に住みたいってことやねんな」


 マイがじとっとした目で突っ込む。


 「うん。実は、そう」


 「なんで?」


 「いや、なんか、おしゃれなイメージがあるから。あんなところでマイと一緒に暮らせたら、青春って感じがするかなあって」


 照れ臭くて、かゆくもないのに後頭部をポリポリとかいた。完全にイメージで話をしている。下北沢って、歌詞なんかにも出てくる街なので、ネットで検索したことがあった。おしゃれな雑貨屋なんかがいっぱいあって、いかにも青春を謳歌できそうな街という勝手な印象があった。


 「確かに若者の街ですけど」


 朱嶺はグラスを持ち上げて、フラペチーノを口にする。


 「カレンちゃん、下北沢知ってるの?」


 マイが聞いた。


 「はい。短い間でしたが、父の仕事の都合で住んでいたことがありますので」


 グラスを置く。さっきまで生クリームが山盛りになっていたグラスは、テーブルに当たってゴトリと重々しい音を立てた。


 「あの、もしシェアハウスに住むことになったら、3部屋以上あるところでお願いしますね」


 僕とマイを交互に見ながら言った。


 「なんで?」


 あえて聞いたけど、聞かなくても何となくわかるぞ。


 「だって、後から私が追いかけていきますから」


 やっぱり!


 「下北沢に住みたいというのが優先で、なんか動機が不純な感じがするけど、まあええわ。とりあえず早稲田は候補ね。で、国公立はどうするの?」


 マイはテーブルに肘をついて手の平を組むと、その上にあごを乗せた。


 「国公立ねえ。どうしよう」


 イメージがわかなかった。マイと一緒に東京に行って、誰も知り合いがいないところで2人で再出発するというイメージはわくが、東京で国公立大に通っているというのは想像できない。東京といえば私立大だ。


 「じゃあ、ウチから提案。まあくん、早稲田受けるつもりがあるんやったら、一緒に京大受けへん?」


 マイはサラッと言って、グッと目に力を入れて僕を見つめた。


 「キョウダイね。うん、受けようか」


 サラッと言われたものだから、適当に返事をしてしまった。言ってから「え?」と引っかかった。


 「え! ちょっと待って! 京大?!」


 顔を上げる。マイは不敵に笑っていた。驚いて言葉が出ない。僕がパクパクしているのを、マイは面白そうに見ていた。


 「え、キョウダイって、あの京都大学のキョウダイだよね?」


 「そうや。それ以外に、なんかある?」


 「あらまあ、素敵ですね!」


 朱嶺が手の平を合わせて、微笑んだ。


 「いや、ちょっと待って。朱嶺、京大だぞ、京大!」


 思わず声が大きくなる。マイは何を言っているんだ? 京都大学といえば、日本で東京大学に続く難関大学だぞ。天才しか入れない、難関中の難関なんだぞ。そんなの、凡人の僕の選択肢にはない。ないというか、あってはいけない。


 「あら〜。でも、挑戦してみればいいじゃないですか」


 朱嶺は他人事のように笑っている。


 「そんなの無理無理! だって、あんなの天才が行くところでしょ! 無理無理!」


 「待って、まあくん。やってみいへんとわからへんやん。早稲田行けるくらい賢かったら、もう少し頑張れば行けるよ。知らんけど」


 え? え? 動揺して、わけがわからなかった。冷や汗なのか、脂汗なのか。とにかく何か変な汗がたらりとこめかみを流れた。マイが急に遠くに行ってしまったように思える。


 「まあくん、落ち着いて。ウチら高校進学するときに、五条畷受けたやんか」


 マイは噛んで含めるように、少し話すスピードを落とした。


 「うん、受けた」


 「五条畷って、普通に京大に進学する高校やんか」


 「うん」


 「もし、五条畷に行っていれば今頃、京大行こうってなってたかもしれへんやん?」


 「うん、うん。でも、五条畷行ってないし。今は清栄学院やし」


 マイは体を起こすと、シートにもたれかかりながらフーッと息をついた。天井を少し見つめて、それから僕に目を落とす。


 「だから、高校入試のリベンジをやろうよ。大学入試で」


 「え。え?」


 「五条畷に行っていれば行っていたはずの大学に行ければ、ウチら逆転ホームラン打ったんと同じなんとちゃうの?」


 マイの言わんとすることがよくわからなくて、しばらく言葉が出なかった。必死になって頭の中を整理する。高校入試で失敗した。成功すれば行っていたはずの高校なら今頃、京大を目指そうという話をしているはず。清栄学院から京大に行けば、高校入試の失敗をなかったことにできる。いや、なかったことにはならないけど、結果的に全てOKにできる。


 清栄学院から京大に、行けないわけではない。むしろ毎年、進学している卒業生はいる。ただし、2〜3人だ。ものすごく狭き門。


 「え……。マイ、真剣に言ってる?」


 「もちろん真剣やで。負け組のウチらが人生一発逆転するには、これしかないと思う」


 マイは身を乗り出した。


 「まあくんもウチも、頭は悪くない。むしろ中学を卒業する時は、頭いい方やったはずやん? 今からなら、やれるよ」


 眉毛に力を入れて、頼もしげに微笑む。


 突然の提案でパニックになっていたけど、少しずつ冷静さを取り戻してきたぞ。確かにマイの言う通りだ。京大に入れば高校受験で失敗しただけではなく、全てチャラにできるような気がしてきた。黒沢や岩出や、中学校の時に僕をいじめていたやつらも、誰も僕らに追いつけなくなる。


 「まあくん、どう? シェアハウス、京都やったらあかん?」


 マイはあざとく首を傾げて、ニコッと笑った。


 「ん……。いや、アリやな。アリやわ」


 まだ少し信じられないけど、人生を変える一大転機にできるかもしれない。いや、かもしれないではなく、そうなる。マイが一緒なら、やれそうな気がする。いやいや、むしろマイに置いていかれないように、必死になってやらないといけない。


 朱嶺が「すごい、素敵」と小さな声で言いながら、そっと拍手をしている。マイは僕に手を差し出すと「一緒に頑張ろうね」と言った。


 その手を握り返す。


 その夜、僕は帰宅してからノートを一枚、引きちぎって、マジックで大きく「京大」と書いてみた。今まで考えたこともない進学先が、急に現実味を帯びてきた。その紙片を、そっと机の引き出しに仕舞う。壁に張り出したりするのは、まだ早い。まずは進路面談でOKをもらわないといけない。


 数日後、僕は進路面談で京大を受験したい旨を、担任の山梨先生に伝えた。先生は「おっ、大きく出たな。でも、目標は高いところにあった方がいいぞ」と言って、思った以上に簡単にOKしてくれた。帰宅して母さんに言うと、目をむいて「はぁ?」と驚かれた。テーブルでコーヒーを飲んでいた竜二は、本当にブッと吹いた。そんなに驚かなくてもいいだろう。


 こうして僕は、京大を目指すことになった。京大だぞ、京大。意味わかんない。

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