マイたちは初めて足を踏み入れた高級マンションの内装に圧倒されて、エレベーターに乗ったあたりから口が半開きになっていた。
「なんや、これ。富豪か……?」
鈴鹿が深刻な顔をしてつぶやいた。
玄関のチャイムを押す前にドアが開いて、深紫色のピッタリとしたドレスに身を包んだ朱嶺が顔を出した。あ、知ってるぞ、これ。オフショルダーというのだろう。巨乳なので、胸元の谷間が見えそうだ。いや、すでに見えている。とても16歳とは思えない色気を漂わせていた。
というか、寒くないのか。その格好。
「みなさん、ようこそいらっしゃいました。どうぞ、入ってください」
なぜかホッとした表情をして僕らを招き入れる。玄関先には革製に見えるシートが敷かれていて、そこに来客のものであろう、たくさんの靴がきれいに並べられていた。いやあ、どの靴も高級そうだぞ。全部、革靴だ。
鈴鹿が「つまらないものだけど」と言いながら、朱嶺に菓子折りを手渡す。朱嶺は「まあ、わざわざ気を遣っていただいて、すみません」ときれいなお辞儀をして受け取った。廊下に巨大なコートハンガーがあり、これまた高級そうな上着がずらりとかけてある。マイたちはコートだが、僕は普通のジャンパーだ。早くも場違いなところに来てしまった気がして、隅っこの方に恐る恐る仕舞い込んで、朱嶺に促されてリビングへ行った。
ああ、まずい。これは本当に場違いなところに来てしまった。
一歩、足を踏み入れた途端に、そう感じた。以前、来たときには大きなソファセットがあったのだが、それを片付けてテーブルが3つ出ていた。いずれも白いクロスをかけて、何やらキラキラした料理が並んでいる。うん、これはテレビで見たことがあるぞ。いわゆる立食パーティーというやつだ。
会場には城太郎氏やマルチナさんの知人なのだろう、すでに老若男女の参加者が詰めかけていた。何人いるだろう? 目算しただけで50人はくだらない。僕らのような学生っぽい子供もいたけど、男子はシャツにベスト、女子はみんなドレス姿だった。
そして、会場が暖かい。いや、熱い。朱嶺が肩を丸出しにした服装だったのは、このせいか。いや、ああいう服装をするために、この温度設定にしているのか。とにかく僕は熱かった。寒い時期はいつも、保温機能のある下着を着ている。場違いなところに来てしまったという気まずさに、知らない大人がたくさんいる緊張感も加わって、どっと汗が出てきた。背中をツツーッと流れる感触がある。
「全然、気を張っていただかなくて構いませんので。普通におしゃべりして、食べていただくだけで大丈夫です。エチケットとか、あまり気にしないでくださいね。そういう集まりではありませんので」
僕らの緊張を察したのか、朱嶺が一生懸命説明を始めた。だが、僕の足は動かない。隣のマイを横目でチラリと見ると、あちらも顔が固まっていた。
いや、ダメダメ。朱嶺には悪いけど、すぐ帰ろう。そう思って額の汗を拭った、そのときだった。
「おお、あれ美味そうじゃん! ほら、みんな行こうよ!」
満面の笑みで声を上げたのは鈴鹿だった。僕らの背中を押して、会場の中央まで進み出る。テーブルに置かれていた皿と割り箸を手にすると、寒天かゼリーで固めたような前菜を取って周囲に聞こえそうな大声で「いただきまあす!」と言うと、一口で放り込んだ。
「ん! 思った通り! これ、鰻だ!」
鈴鹿はもぐもぐと動かしている口元を押さえながら、興奮気味に言った。
「え、そうなん? 美味しい?」
明科は目をパチパチさせながら聞いた。ちびっ子だけど、食いしん坊だ。目の前でこんなに美味そうに食べられては、興味をそそられないわけがない。
「うん、美味しい、美味しい。コハも食べてみなよ。ほら、マイも。城山も、ほら、固まってないで」
鈴鹿は僕らの腕を小突いた。すげえ。すげえな、鈴鹿。こんな場所でこんなに堂々としていられるなんて。京橋駅で合流したときにはコスプレにしか見えなかったチャイナドレスが、ここに来ると妙に馴染んで見える。いや、むしろこれくらいはっちゃけてないと、ここでは場違いに見えてしまう。
鈴鹿が動いてくれたことで、マイと明科の緊張が少し解けたようだ。2人とも笑顔が出るようになってきた。
「鈴鹿先輩、こういうところに慣れているんですかね?」
僕の耳元で朱嶺が聞いた。
「知らないよ。後で聞いてみたら?」
朱嶺は、さっきまで僕たちが明らかに緊張していたので心配そうにしていたが、改めてホッとした表情をしていた。
「おお、元気なお嬢さんが来ているな。君はカレンのお友達かな?」
やってきたのは城太郎氏だった。目がシバシバするような真っ赤なシャツに、一年間で絶対にこの日しか着ないだろうと思えるような真っ赤なスラックス。頭にはサンタクロースの帽子をかぶり、熱いのか袖まくりしていた。袖からのぞく日焼けした腕は、そこらの中途半端な格闘家が泣いて逃げ出すほど筋肉隆々だ。
「父です」
朱嶺が紹介する。
「あ、ジョー・アカミネや! テレビで見たことある! コラムも読んだ!」
鈴鹿は皿と箸を手にしたまま、城太郎氏を指差して、あ、しまったという顔をした。手の中のものをテーブルに置いて、マイと明科を促すと「本日はお招きいただき、ありがとうございました」と頭を下げた。
そう。朱嶺城太郎は海外では「ジョー・アカミネ」あるいは「ジェイ・アカミネ」と呼ばれていて、国内ではその名前でテレビにコメンテイターとしてしばしば登場している。女性ファッション誌にコラムも連載していて、軽妙洒脱な話術と文章は一部でカリスマ的な人気を誇っていた。
「アハハ。まあ、そう固くならないで。きょうは親しい人を招いた無礼講だから。君たち若者は、たくさん食べて帰りなさい」
城太郎氏は人懐っこい笑顔で、女子3人に語りかけた。「握手してもらっていいですか?」という鈴鹿のリクエストに応え、さらに一緒に写真も撮り「そのドレス、すごくよく似合っているね。どう、今度、僕のモデルやらない?」とか言ったりして、あっという間に鈴鹿をメロメロにしてしまった。
芸術家って極端な禁欲家か、逆にめちゃくちゃ遊び人かのどっちかというイメージがあるのだけど、このおっさんは明らかに遊び人タイプだな。まあ、鈴鹿は別に僕の彼女じゃないから構わないけど、マイが知らないおっさん相手にこんなに目をキラキラさせていたら、僕はちょっとイラッとしていたと思う。
僕がジトッとした目で見つめているのに気がついたのか、城太郎氏は無邪気な瞳をこちらに向けた。
「城山くん、君とはいろいろなところでよく会うなあ」
そう言いながら、握手を求めてくる。思わず引き込まれるように、握り返した。
「はあ、そうですね」
「きょうは両手に花どころか、抱えきれないほどの花じゃあないか。君もなかなか隅に置けない男だな」
ニヤッと笑って、ウインクする。
「いえ……。あの、そっちの2人はただの友達なんで。彼女が僕の彼女です」
僕は明科と一緒に肉料理を物色しているマイを指差した。その声に気がついて、マイが振り向く。
「ほほう。でも、彼女以外に一緒に出かけてくれる女の子がいるということは、モテる素養があるということだぞ」
「まさか、そんな」
思わず鼻で笑ってしまった。そんなわけないでしょう。ほんの1年前、空手の試合で漏らしていたやつですよ。自分がモテるなんて、そんなこと考えたこともなかった。
「それより、この前、話したこと、考えてくれたかな?」
城太郎氏は僕の両肩に手を置いて、グッと引き寄せた。顔が近づき、フワッと香水の香りが鼻腔をくすぐった。香水なんてつけたことがないから知らないけど、いい香りだ。ダンディーな彼によく似合う。
この前って、なんだろう? 一瞬、考えて文化祭のことに思い当たった。そういえば、美大に行くために個別指導をしてやろうかと言われていたな。でも、もうマイと一緒に京大を目指すと決めてしまった。
「ああ、すみません。もう美大ではない方向に決めてしまって……」
はっきり断るのには抵抗があった。だって、朱嶺城太郎が自ら指導してやろうと言っているんだぞ? こんな機会、なかなかない。彼に師事したくて、大阪公立芸大を目指す人もいると聞く。
「ほう。それは惜しいな。どこだ?」
城太郎氏は笑みを絶やさないまま、眉を右側だけ吊り上げて聞いた。いちいち表情の作り方が、かっこいい。
「えっ……。いえ、まだまだレベル的には足りないんですけど、一応、京大を目指して頑張ってみようかなって……」
真剣な眼差しを、正面から受け止められない。僕は思わず視線を逸らして、しどろもどろになってしまった。
「おお、それはすごい! 京大か! 京大にはちょっと勝てないなあ!」
城太郎氏は呆れるくらいきれいな白い歯を見せて、ニッコリと笑った。何が勝てないのか、よくわからない。ただ、なんとなく諦めてくれそうな気配を感じて、ホッとした。
ホッとしたのも、束の間だった。
「まあでも、ちょっとでも絵筆で身を立てたいと思ったら、いつでも連絡してきなさい。カレンが見込んだ子だ。間違いないだろう」
目元に力を入れて、また僕の瞳をのぞき込むようにして見つめてくる。
本当はどうなんだ? 京大なんて、マイが言っているから行くと言っているだけなんじゃないのか? お前の将来は、本当にそれでいいのか? 大好きな絵を描いて生きていくという人生を選ばなくて、いいのか?
そう聞かれている気がした。いや、そう聞かれていたんだ。言葉が出なかった。
「はい……。ありがとうございます」
なんとか絞り出すようにして返事をした。城太郎氏はもう一度、今度は最初に見せた無邪気な笑みを浮かべると、僕の肩をポンポンと叩いて「ちょっと重い話をして悪かったな。まあ、きょうは楽しんでいってくれ。あとでプレゼントもあるから」と言うと、別の来客のところへと去っていった。