夕飯はまた食パンだった。リンは僕が洗剤を買うために渡したお金の残りでいちごジャムを買ってきて、それを塗って食べた。さらに、オレンジジュース付きだった。これも、僕が渡したお金の残りでリンが買ってきたものだった。
常識的に考えれば、預かったお金で自分のほしいものを買うというのはいかがなものかと思うのだが、リンがうれしそうにニコニコしながらパンを食べているのを見ていると、怒れなかった。彼女はそういう常識とか配慮とかいうものも、知らないのだろう。大掃除が終わってからようやくスマホを充電させてもらえたので、電気代分と思って納得することにした。
充電しながらスマホをチェックするとLINEはもちろん、電話の着信も複数回あった。全部、マイと母さんからだ。マイのLINEは最初こそ「もう沖縄に着いたかな?」「道場、見つかった?」と気遣う内容だったが、そのうち「おーい」「大丈夫?」から「連絡ください」「連絡しろ」「生きてるの?」と次第に切迫した雰囲気に変わっていっていた。留守電も入っている。聞くまでもない。「連絡しろ」という内容だろう。
どうしよう。母さんに電話するのが先のような気がするが、マイに電話して「無事だ」と伝えてもらった方が早いような気がして、とりあえずマイに電話した。待っていたのか、ワンコールで出た。
「こらぁ!」
出るなり、叱られた。
「どこほっつき歩いててん! めちゃくちゃ心配したんやで? わかる? 連絡してって言うたやんな!」
「ごめんごめん。電源が切れちゃって」
「こまめに充電せえや! なんか事故にでもあったんちゃうかって、ホンマにめちゃくちゃ心配したんやで!」
「ごめんごめん」
スピーカーからマイの声が漏れているのか、少し離れたところでリンがニヤニヤしている。
「とにかく、目的地には無事に着いているから。元気だし、大丈夫だから」
一生懸命、こちらの状況を説明していたら、急にマイが静かになった。ふぅふぅと荒い息遣いが聞こえる。ん? もしかして泣いているのか?
「マイ、泣いてるの?」
「うぐっ、泣いてない!」
いや、泣いてるじゃん。電話の向こうで、ズビビッと鼻をすする音が聞こえた。
「本当に心配かけてごめんね」
とりあえず、平謝りするしかない。毎日、連絡すると言って出てきたのに、何も連絡しなかった僕の方が悪いんだから。
「まあくんが無事でよかった……。本当によかった……。でも、結婚しても絶対、こんなんや……」
勝手に結婚後の生活を想像しないでほしい。
「明日の夕方には帰るから。まだこれから稽古をつけてもらうので一度、切るね」
マイは名残惜しそうにモゴモゴ言っていたが、それをなだめて電話を切った。
「何? 彼女?」
リンは腹這いになって肘をついて、僕をニヤニヤしながら見ている。
「うん」
「連絡してなくて、怒られたんだろ」
「そうだよ」
リンは僕をからかっているつもりなのかもしれないが、全く腹は立たなかった。だって、その通りなんだもの。僕があまりに素直に返事をしたものだから、リンは面白くなさそうな顔をして体を起こした。
◇
暗くなってからもろうそくの灯りを頼りに、稽古をつけてもらった。午前中にやったことを踏まえて、実際に突いてみた。道場の隅っこに、古い革製のキックミットがかけてあった。リンが持ってくれたので、それに向かって突きを放つ。
騎馬立ちになって、下半身を動かさないように構える。腰は回さない。拳をしっかり握って前腕部まで一つの塊にして、肩の力を抜いて背中から吊るす。拳を引いて、腕の重さを寸分なく伝えるようにして、突く。
という説明だった。ナイファンチを何度もやっている間に、こういうことなのかな?と感じる部分はあった。だが、実際に目の前にミットが出てくると、どうしても「力強く突きたい」という意識が働いて、腰を回して打ってしまう。
「違う違う。腕だけ。背中を滑らせるようにして、腕だけ動かすの」
リンはミットを床に置くと僕の背後に回って、意識しなければいけないところをペタペタと触って教えてくれた。時々、僕にミットを持たせて自分が突いて、こういう感じだということを見せてくれた。
ミットは古くて、もう外側の皮が乾燥してガビガビになっていた。何度も突き込んでいるうちに、拳頭の皮が破れた。
「当たってから突き込もうとして回転させているから、皮がむけるんだ。うまくなったら、むけないから。じゃあ、左手でやってみよう」
右手がダメなら左手で。同じことを延々と繰り返す。リンの懇切丁寧な指導にもかかわらず、僕はまもなく左手の拳頭の皮も破いてしまった。そのタイミングで、今夜の稽古は終了になった。
「なかなかうまくいかない」
昨夜と同じく水風呂から上がっても、僕は道場でナイファンチの突きを繰り返した。両手の拳には、リンがどこからともなく持ってきたバンドエイドが貼ってある。
「だから言ったじゃん。そんな1日や2日でできるようになるものじゃないって」
リンは両足を投げ出して座って、僕を見上げている。
「リンはどれくらいで、これができるようになったの?」
「どれくらいかなあ。半年くらい?」
「それって早いの?」
「わかんない。お兄ちゃんは割とすぐにできるようになったみたい。1カ月くらいで」
1カ月か。それくらいでできるようになれば、関西選手権に間に合うぞ。もう一度、突いてみる。腰を回さない。背中を動かす。重くした腕を、相手に流し込む。感覚は、言葉では覚えた。あとはそれを、体で表現できるようになるだけだ。
昨夜は気づかなかったが、庭をきれいに掃除したせいで、道場の縁側には月明かりが差し込んできて、ろうそくがなくても十分に明るかった。どこかで虫の声が聞こえる。虫の声といえば秋の風物詩だが、4月でも聞こえるものなんだな。それとも、沖縄特有のものなのだろうか。
「ねえ、フミ。高校って楽しい?」
ふいにリンが聞いてきた。見ると、穏やかな笑みを浮かべている。
楽しいと即答できれば、どんなに幸せだろう。だけど、僕はできなかった。もうすぐ最終学年の3年目が始まる。この2年間を振り返ると、楽しいこともあったけど、辛いことの方が多かったような気がする。特に1年生の頃はそうだった。
「そうだなあ。楽しいこともたくさんあるけど、嫌なこともたくさんあるよ」
僕は構えを解いて、リンに向き直った。
「嫌なことって、どんなこと?」
リンは不思議そうな顔をする。
「うん、例えば同じクラスに嫌なやつがいるとか、いじめるやつがいるとか……」
「え?! そうなの? フミをいじめるやつがいるの?!」
リンは驚いて、少し声を高くした。
「いるさ。こう見えても、1年生の時はいじめられっ子だったんだ」
「うそぉ! その体で?!」
リンは体を起こして、あぐらをかく。その前に、僕もあぐらをかいて座った。
「うん。僕並みにデカいやつもいるから」
リンはしばらく、へぇ〜とかマジでぇ〜とかつぶやいていた。それから「卒業したら働くの?」と聞いてきた。「いや、大学に行くつもりだよ」と言うと「いいなぁ〜!」と言ってゴロンと仰向けに寝転がった。
「青春じゃん! フミはめちゃくちゃ青春してるじゃん!」
リンだって青春真っ盛りじゃないと言いかけて、言葉を飲み込んだ。そうだ。リンは中卒で働くつもりだと言っていた。高校には行かないのだろう。
「リンは高校には行くつもりはないの?」
恐る恐る聞くと、リンはまた体を起こした。
「馬鹿だから、行けるところがないと思うよ」
あっけらかんと言うと、立ち上がった。
「でも、この体があるからね! どう? 結構、スタイルいいと思わない? 私、モデルになりたいんだ」
腰に手を当てて、ポーズを取る。くるりとその場で半回転すると、ランウェイがあるかのようにカッコつけて歩いてみせた。
そうなのか。リンにもちゃんと将来の夢があって、僕は少し安心した。でも、その夢を叶えるには、やはり高校に行った方がいいと思うし、都会に出なきゃいけないと思う。ただ、それを軽々しく口にはできなかった。
「フミは、私がモデルになれると思う?」
小走りに近寄ってくると、四つん這いになって僕の目をのぞき込んできた。月明かりが瞳に反射して、キラキラと光っている。
そんなこと、わからない。客観的に見てもハードルは高いと思う。でも、ここで僕が応援してあげないと、この子はこの家から飛び立とうとはしないだろう。僕のひと言が、リンの人生を変えるだなんて思わない。だけど、それでも僕は言わずにはいられなかった。
「きっとなれるよ。夢は叶えるものだから」
「だよね!」
リンは目をキラキラさせたまま、うなずいた。それから、都会に出てモデルになって、テレビで見たことがあるタワマンに住むという夢を延々と語り始めた。タワマンか。住んでいる子を知っているけど。いつか、父親のいるアメリカにも行きたいらしい。リンの話を聞いているうちにどんどん眠たくなってきて、横になった。なんとか薄目を開いて聞いていたのだが、気がつけば僕はそのまま眠っていた。