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第172話 エディ再び

 翌朝も例によって、強烈な日差しで目が覚めた。スマホを見ると充電は終わっている。LINEでマイに「起きた」とメッセージを送った。まだ午前6時過ぎだ。さすがに起きてはいないだろう。リンは自分の部屋に戻ったのか、姿が見えない。


 きれいになった流しで顔を洗っていると、リンが部屋から出てきた。オーバーサイズの黒いTシャツに、デニムのハーフパンツを履いている。この家では普段着とパジャマは共用らしい。「洗濯物はちゃんと出してね」と念押しする。聞こえているのかいないのか、リンは適当に相槌を打つと、冷蔵庫から食パンといちごジャムを取り出した。


 朝食後、先に掃除をした。道場、廊下、庭をほうきで掃く。リンの部屋も確認に行く。やはり脱いだ下着やワンピースをそのまま放置していた。「オウマイガッ!」とわめくのを無視して回収すると、洗濯機に放り込む。賢勇さんの部屋はお酒の臭いが充満していたので、寝ている本人を部屋の隅に追いやって窓を開けた。脱ぎ散らかしていた服を回収して、これも洗濯する。


 「毎日、洗濯していたら、洗剤が足りなくなる」


 リンはほっぺたを膨らませて不満げな表情を見せていたが、洗剤代をケチって汚部屋になれば、もっと生活は荒むのではないか。僕がいる間だけでも、きちんとした生活を送らせたかった。


 掃除が終わった頃、スクーターが階段の下で停まる音がした。すぐにまた走り出した音がしたので、おそらく誰かが送ってきたのだろう。エディだ。エディが帰ってきた。そう思って縁側から階段の方をのぞいていると、見覚えのある顔が上がってきた。


 エディは昨年秋に見た時と、大して変わらない服装をしていた。黒いTシャツに同じ色のスウェットパンツ。見知らぬ人間がいることに気がついて、ギョッとして一瞬、立ち止まった。それから僕の顔を見て思い出したのか、「ああ」と言ってニッコリと笑った。


 「おかえり、お兄ちゃん」


 こんな朝帰りは珍しいことではないのだろう。リンはものすごく素の顔で出迎えた。


 「君、ほら。あれだ。去年の秋に会った」


 エディはリンを無視して、僕を指差しながら近づいてきた。反対側の手に、コンビニの袋をぶら下げている。


 「会いにきたよ」


 僕はエディに名乗られたが、エディは僕の名前を知らない。縁側から上がってきたエディに、僕は自分の名前を名乗った。エディは「ああ、そう」と笑いながら、リンに「朝飯、食ったか?」とコンビニの袋を渡す。中身はカップラーメンだった。エディは寝ていないのか、目が血走って赤かった。


 この道場に来るまでは会いたくて仕方がない人だったのに、今は少しがっかりしていた。こんなに貧しい家で、おそらく一番の働き手だろうに、夜も帰ってくることなく、明らかに遊び呆けた上に朝帰りしている。まだ中学校を卒業したばかりの少年に、そんなことを要求するのは正直、酷だろう。それでも、僕はエディにもう少し、まともな生活を送ってほしかった。


 碧崎さんはストイックな人物だ。強くなるために、私生活も含めて全てをつぎ込んでいる。明日斗や翔太もそうだ。碧崎さんほどストイックではないけど、強くなるために普段の生活から自分を律している。


 黒沢などを見ていると、人格と強さは必ずしも一致しないということは、嫌というほどわかっている。それでも僕は、強い人は私生活もきちんとしておいてほしかった。そういう意味では、エディにはがっかりだ。


 まあ、昨年秋の時点で、お金をもらって、それも黒沢からお金をもらって、喧嘩の代行をしている時点で、まともな人物でないことはわかっていたのだが。


 「空手、習いに来てくれたのか?」


 エディは疲労の色がにじむ表情を、無理やり笑顔にして言った。


 ん? なんだ、この匂いは。


 「うん。あの時のパンチが忘れられなくて」


 エディはうれしそうに笑って、鼻の下をこする。無精髭が伸びていて、荒んだ雰囲気だ。少し近づいてきたので、匂いの正体もわかった。アルコールだ。


 「そうかぁ、やっぱりそうなるよな。俺のパンチをもらったら、みんな忘れられないもんな」


 ポケットに突っ込んでいた手を出すと、ボクシングのように構えてシュッシュッとワンツー、フックを繰り出してみせた。


 「お兄ちゃん。フミには、私が大事なことはほとんど教えたから。お兄ちゃん、知らないでしょ? 空手の大事なこと」


 不機嫌そうに目を細めたリンの言葉には、明らかに棘があった。


 「ああ? 知ってるって」


 エディは一瞬、凶悪な顔をして妹をにらんだ。だが、そんな顔をしたのは本当に一瞬だった。すぐに僕の方に向き直ると、いつもの人懐っこい笑みを浮かべる。


 「それで、いくら出す? エディのパーソナルは1時間3万円からだ。だけど、フミは未成年だし、遠くから来てくれたから、1万円でいいぞ」


 突然、お金の話をし始めた。


 「お兄ちゃん!」


 リンが一歩前に出て、たしなめる。


 「うるせえな。お前は黙ってろ!」


 エディはリンを一喝した。リンはビクッと体を震わせて、立ち止まる。


 うん。よくわかった。


 エディはクズだ。悲しいけど、クズだ。友達になれると勝手に思っていたが、そうじゃなかった。こいつは所詮、黒沢に金で雇われるようなろくでなしなのだ。


 1万円は、まだ持っていた。ただ、ここで洗剤やたわしを買ったりして、手持ちが少なくなっていた。1万円出してしまうと、マイへのお土産が買えないかもしれない。教えてほしいことは、リンにたくさん教えてもらった。それに、時間もあまりない。エディに頼むことは、思った以上にすぐに言葉となって、口を突いた。


 「3000円だ」


 「はぁ?」


 僕の価格提示に、エディは露骨に不快感を表した。


 「スパーだけでいい。僕と3分2ラウンドでスパーをしてほしい。それで3000円。ルールはキックスタイルで。どう?」


 悪くないと思う。1ラウンド1500円だ。時給にすれば3万円になる。エディはブスッとした表情のまましばらく考えてから「うーん、まあ、いいか」と言った。


 エディと再会できたら、もう一度、手合わせしてほしかった。道場ならば組手ができるだろうし、ぜひお願いしたいと思っていた。想像していたのとちょっと違う形になったけど、まあいい。どんな形であれ、戦えるのだから。


 前回、戦った時には全く予備知識がなかった。構えて初めて、空手だとわかったくらいだ。それに試合でもなんでもなく、ただのけんかとあって、僕は手を出せなかった。だけど、今回は違う。道場でのスパーリングだ。こっちも堂々と手を出せる。さらに、キックスタイルでと注文をつけた。ならば、首相撲もやっていいというわけだ。


 エディのパンチとキックが半端ではないということは、よく知っている。あれだけのプレッシャーがあるとわかった上で、どこまで動けるか。それは取りも直さず、この春に僕が狙っている黒沢との再戦につながるはずだった。僕の記憶が確かならば、黒沢も猛烈にプレッシャーをかけてくるタイプだ。エディの攻撃に耐えうることができれば、黒沢とも五分に戦える。そんな気がした。


 僕は財布から1000円札を3枚抜き出すと、先に渡した。エディは僕からもっと巻き上げられると思っていたのだろう、少し複雑な顔をして受け取ると、お尻のポケットから分厚い札入れを抜き出してそこに仕舞った。


 「じゃあリン、時間、計ってくれ」


 エディは腕につけていたデジタル時計を、リンに渡す。リンは「オッケー」と言って受け取った。


 「反則は、どうする?」


 エディが聞いてくる。そんなの確認したところで、どうせいざとなれば破ってくるのだろう。そう思いつつも一応、確認しておくことにした。


 「金的、目潰しはなし。それでどう?」


 あえて頭突きは入れなかった。いざとなれば、僕も翔太のようにやってやろうと思っていたからだ。


 「へえ、意外に自由だな。いいよ」


 エディはようやくニヤリと笑うと、グルグルと右腕、左腕と大きく回し始めた。僕もアップをする。足を開いて腰を落とすと、肩を入れて背中を伸ばした。2日間、硬い床の上で寝ているので、あちこち痛む。


 2人でひとしきり体をほぐした。エディとチラリと目が合う。


 「もういいよ」


 「俺もだ」


 どちらからともなく、道場の中央で向かい合った。


 「防具はいらないのか?」


 今にも飛びかかりたい気持ちを、必死に抑えているのだろう。エディは口の端を吊り上げて実に楽しそうな、それでいて凶悪な笑みを浮かべた。服装と肌の色から、獲物を目の前にした黒豹を想像する。


 もう、気持ちはできあがっている。今更、防具をつけてそれを覚ますほど、僕だって野暮じゃない。どうせ関西選手権で一般上級の部に出場すれば、防具はなしなのだ。


 「いらない」


 「へえ。じゃあ早速、始めよう」


 エディは左を前にしてスッと腰を落として半身になり、左手を顔の前、右手は水月の前で構えた。前回も見た構えだ。


 僕は両腕を上げて、顔面をガードする。スタンダードなキックボクシングの構えだ。


 リンがエディの時計を操作して、右手を高く上げた。


 「じゃあ、構えて!」


 サーッと風が吹いて、庭の木々がざわざわと鳴った。無観客なのがもったいないくらいの、緊張感だ。


 「はじめ!」


 リンは右手を振り下ろした。

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