おそらくエディには、僕が弱いというイメージしかないだろう。僕の方が上背があるし、あの構えからすれば、またボディから攻めてくるはずだ。あれだけ腰を落としていては、いきなり僕の顔面を狙うのは難しい。
思った通り、エディは遠い位置から一気に踏み込んで来た。だが、徹夜で遊んできたせいか、それとも僕が一度、見たことがあるせいか、昨年秋に感じたほどの鋭さがない。
「シュッ!」
あの構えで一番やられて嫌なのは、ミドルキックのはずだ。踏み込みに合わせて蹴ると、エディの二の腕あたりにズシッといい感触でヒットした。キャッチされるのではないかと用心していたが、エディは身を縮めてガードして、少し後退した。
空手に先手なし。
相手に手を出させてから攻撃すべしという意味である。誤って伝わった言葉だとも言われているが、強力なカウンターのある空手らしい言葉で、たとえ間違っていたとしても僕は好きだ。それでも、エディのようになめてかかってくる相手からは、先手を奪った方がいい。先にペースをつかまれると、厄介だからだ。傘にかかって攻めてくる。
「シュッ!」
エディが体勢を立て直してもう一度、踏み込もうとしたところにもう一発、右のミドルを叩き込んだ。キャッチしないとわかれば、もっと強く蹴り込んでいい。二の腕ごと肋骨をへし折るつもりで蹴り込んだ。エディはガードしたまま2、3歩後退する。痛いだろう。サポーターをつけていない素足なのだ。
エディは一瞬、驚いた顔をしたが、すぐに表情を引き締めると構えを変えた。足の前後の幅を狭くして、ガードを下ろす。ステップを踏んで僕の左側へと回り始めた。
もう右のミドルをもらいたくないわけだ。
軽くジャブを出してくる。拳を握っていない、いわゆる「バラ手」だった。わかりやすい牽制だ。ということは、あの低く構えた右で打ち込んでくるつもりか?
と思っていたらエディは突然、左拳を握ってタタン!というリズムで顔面に突きを放ってきた。
うおっ、危ねえ!
ガードの準備をしていたからパーリングで防げたが、牽制だと思って軽く見ていたら打ち抜かれていたかもしれない。受けた右手がしびれている。やはり、すごい衝撃だ。
僕の体が少し起きたところに、エディは右足で前蹴りを放ってきた。ヤバい! この距離で出すのか。左腕で払いながら、懸命に左に回る。蹴りは伸びてくるので、ステップバックすれば昨年の秋と同じように当たってしまう。この強烈な攻撃を交わすには、回って避けなければダメージをもらってしまう。
クリーンヒットこそしなかったが、少し体勢が崩れていたのでゴツンともらってしまった。お腹の肉を引きちぎっていきそうな蹴りだ。真正面から食うわけにはいかない。
エディは止まらなかった。そのまま左フック、左ストレート、右ボディに振ってから左のミドルキックまで出してきた。
ミドルも蹴るのか!
まあ、そりゃそうだろう。空手家なんだから。不幸中の幸いは、僕が左に回っていたことだ。必死になって回ってかわす。道場の板敷を踏み締めるドカドカという音が響いた。思い切ってステップバックして一度、間合いを離す。エディは止まらない。また真っ直ぐに踏み込んで、追いかけてきた。
よし、待ってたぞ。チャンスだ!
足を踏ん張ると、左ジャブをエディの額に向けて出した。僕の手は長い。エディも大柄だが、止まるか、ヘッドスリップしなければかわせない。さあ、どうする。
エディはヘッドスリップした。どれだけセンスがいいんだ。普通、空手道場でボクシングのヘッドスリップなんて教えない。それをこんなに、何気なくやってしまうなんて。僕は思わず笑いそうになった。いや、笑っている場合じゃない。エディは僕の左側に頭を下げてジャブをかわすと、右ストレートを出してくる。その右拳を右手でたぐるようにして受けて、右の膝蹴りを突き刺した。しっかりと突き刺さる感触があった。
「ぶっ!」
エディはうめき声を漏らした。いや、ここで終わりじゃないぞ。右足を引いてエディの側面に回ると、上段に回し蹴り。ドンピシャのタイミングだったが、これはエディの必死のガードに阻まれた。
エディはたまらずに後退する。僕もステップバックして一度、間合いを取った。
「なんだよ。普通に強いじゃんか」
エディは早くも汗だくだ。額に玉の汗が浮かんでいた。先ほどの膝蹴りが効いたのだろう。お腹を押さえて、肩で息をしている。
「この前は手加減していたのか?」
構えを解くと、十分に間合いを取ったまま右に回っていく。ダメージの回復を待ちながら、どう攻略するか考えているのだろう。
「手加減というか、手出しできない状況だったからね」
かくいう僕も、びっしょりと汗をかいていた。ほおからあごに、ツツーッと流れていくのを感じる。だが、まだ息は切れていない。余裕がある。朝帰りした不摂生なやつとは違うのだ。
さて。とりあえず、あの恐ろしいプレッシャーに耐えて反撃することはできたぞ。どんな強力な技でも、当たらなければ意味がない。当てさせない工夫が必要なのだ。
おそらく今、エディの頭にあるのは、僕の右のミドルと膝蹴りだろう。あと、思った以上に腕が長いことに気づいたはずだ。どうする? 僕がエディならば、少々の被弾を覚悟して間合いを詰める。前に出ながらもらうパンチで倒れることは、あまりないからだ。
「時間がもったいない。再開しよう」
あまり考える時間を与えたくなかった。僕は腕を上げた。拳を顔の近くに置いて、コンパクトに構える。こうすれば入って来やすいだろう?
エディはふぅ〜と一つ息をついて、構えた。左半身になって、足の位置は狭め。左腕を下ろして、右手を胸の前に置いた。ちょっとブルース・リーの構え方に似ている。
警戒しているのか、それともダメージから回復しきれていないのか、攻めてくる気配がないので、こちらから行くことにした。頭を振って攻撃をかわしそうな雰囲気だったので、細かくジャブを突いていく。思った通り、エディはボクサーのようにスウェーしたり、ヘッドスリップしたりして器用に僕のジャブを避けた。これは、入ってくるタイミングを見計らっているな。
深追いしたらマズい。とはいえ、このままでは埒が明かない。僕は、罠を仕掛けることにした。スッと右足を上げる。ミドルキックのフェイントだ。
この距離。やはり、エディが待っていたのは僕のミドルだった。左肩から、タックルでもするように一気に踏み込んでくる。
やっぱり! でも、思った通り!
僕は素早く右足を下ろすと、ガラ空きになったエディの顔面に右のストレートを伸ばした。
ガツン!
いい手応えが……いや、良すぎて拳が弾き返される。エディのほっぺた辺りに当たった。思った以上に固かった。痛い! 昨夜、皮がむけたところから、痺れるような痛みが駆け抜ける。
「おっと、と」
エディは僕のパンチで一瞬、止まった。それから前のめりになってバランスを崩し、床に左手をつく。
効いたのか? チャンスだ!
「ストップ、ストップ!」
僕が踏み込んで蹴り上げようとした時、リンが割って入ってきた。
何事かと思ってみると、大真面目な顔で僕を指差してから、右手を床と水平に上げた。
「フミ、技あり!」
「はぁ?!」
エディが顔を歪めて立ち上がる。
「技ありじゃねーだろ! ちょっとつまずいただけじゃねーか!!」
妹に声を荒げて抗議する。
「いんや。クリーンヒットしたし、効いて床に手をついたし、あれはどこからどう見ても技ありです!」
リンも口をとらがらせて言い返す。
「ちっ。一本取ればいいんだろ。すぐに取り返してやるぜ」
エディは手のひらで顔の汗を拭うと、僕の方に向き直った。左のほおが赤くなっている。僕のパンチが当たった跡だ。
「はい。元の位置に戻って」
リンが僕らを促す。
「残り40秒だからね。じゃあ、再開!」
リンが腕を振り下ろすのと同時に、エディは真っ直ぐに突っ込んできた。フライング気味に飛び出してきたので一瞬、反応が遅れた。
やべえ!
ボディストレートが来る。だが、フェイントかもしれない。とりあえず顔面をブロックしながら、必死に腹筋を締める。
ところが、踏み込み自体がフェイントだった。エディはピタッと一瞬、停止すると、そこからもう一度、踏み込んでボディストレートを放った。思っていたタイミングをずらされて、強烈な一撃をもらってしまう。
「う、ぐ!」
思わず声が出た。胃袋に何か重いものをねじ込まれた感触があって、そこから一拍置いてジワーンとダメージが広がっていく。
くそう! もらってしまった!
必死にステップバックして2発目、3発目を回避する。だけど、ここからだ。ここからなんとかできないと、黒沢には対処できない。
前蹴りだ。前蹴りで突き放そう。だけど、腹を効かされて、足が上がらない。ならばパンチだ。僕のジャブは、エディのパンチよりも長い。だが、ジャブをかわされてカウンターでもう一発もらったら?
ええい、ここで怖いと思ったらおしまいだ!
エディが真っ直ぐ突っ込んでくる。僕は騎馬立ちになってグッと腰を落とした。こうすれば、僕の腹は低すぎて突けまい。さあ、顔の位置を下げてやったぞ。突いてこいよ。
だが、エディは予想に反して蹴ってきた。前蹴りだ。なるほど、これなら改めて僕の腹を攻撃できる。
そうくるか。
少し足を引いて左の下段受けで払い落とす。続いて顔面へ突きが飛んでくるだろう。思った通りだ。右のストレート。真逆のシチュエーションだな。さっきは僕がこの右ストレートを当てたのだ。
だが、ここでやられてたまるか。
僕は姿勢を低くしてストレートを避けると、エディの水月めがけて右拳を繰り出した。ドシッとめり込むいい感触があって、エディが「ブッ」と言って息を詰まらせたのが聞こえた。
「やめ、やめ!」
リンが割って入ってきた。ここで第1ラウンドが終わった。