目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第6話:猛獣 vs. 猛者

「——ペロッ」

「んー……。くすぐったいって……おばあちゃん」


 ざらついた桃色の、よくしなる巨大な狼の舌に首筋を舐められ、朦朧とした意識の少女がまんざらでもなさそうな声を出す。


「……あの、困りますよ、〈狩人〉ミズガキ。これ、どうするんですか」

「人目につくからどけろってんだろ。わぁってるよ。ゲージに誘導するから、待っとくれ」


 つきたい息を飲みこみ、赤髪をガシガシと掻いた水書チヒロは、さきから急かされっぱなしの警官から視線を外し、混雑した滑走路の周囲を見回した。

 通報を受けたらしい緊急車両が数台、赤色灯を灯したまま自分たちをぐるりと取り囲んでいる。

 そちらのほうが明らかに人目を引いている気がしないでもなかったが、天狼が飛来したともなればこれくらい過敏になっても仕方ない。チヒロが〈狩人証〉を見せことで今は下ろされているが、険しい表情の警官たちはいずれも腰に拳銃を提げていた。銃器携行そのものが忌諱されるこの国では、それだけ重大な"事件"ということだ。

 じきに報道陣も駆けつけ、それこそ狼の巣を突いたような騒ぎになる。さっさと片を付けて、本来の仕事にもどらなければならない。


「あの子のバイタルは落ちついてるみたいだね。よし。お巡りさんたち、手出し無用だからね」


〈ギア〉越しに少女——桜田ナルミの高い体温と心拍数をもう一度たしかめ、チヒロは周囲へ釘を刺す。「し、しかし……」と渋面を作る相手に「プロに任せときなって」と肩を叩き、返事を待たずに足を対象へ差し向ける。


(あの子のユニーカ、狼そっくりの翼を形成していたね。そんなユニーカ、見たことないよ。それに、天狼の豹変ときた。……やれやれ。こりゃ、面倒な予感がするね)

「グルゥゥ!」


 途端、腹の底を震わせる猛獣のうなり声がチヒロへ向けられた。さきまでまるで仔犬よろしくナルミにじゃれついていた天狼が、その翼が届く安全圏に侵入者を感じ取るなり、元の狼の顔にもどって牙を剥いてくる。


「けっこうな高さだったってのに、相っ変わらず丈夫なこった。アンタ、まだ百歳そこらだろ。子煩悩になんのは、早かないかね」


 体長と翼の羽根の生え方、そこから天狼の年齢は大方の推測はつく。若い個体も群れの仔狼の面倒を見てやるものだが、こちらは生物種の異なる相手。ましてや、人間を守ろうとするなど、聞いたこともなかった。


「建国神話にそんな場面、あったっけ……なッ!」


 独りごち、チヒロは背後へ回していた右手を抜き放つ。

〈狩人〉装備の一つ、金環バングルから射出した炭素合金の捕縛縄をつかみ、鞭のように弧を描いて投擲。光の反射を抑えた極細の紐が寸分違わず、ナルミの身体に巻きついた。


「邪魔な人質には、どいてもらおうかね!」


 チヒロにとって、天狼は唯一『自分より強い生きもの』だった。

 自分が認めた猛者との勝負に、水は差されたくない。

 それに、ナルミを取り上げれば天狼が激昂するという読みもある。怒った天狼の凶暴さを予想しただけで、チヒロの口元が緩んでしまう。

 生きものの頂点に立つ、天狼を倒し続けること。

 そうやってチヒロは、己のを満たしてきた。

〈狩人〉を志したのも、その欲求を満たすためにすぎない。今や古い写真よろしく色褪せた記憶の中、やたら面倒な試験やら面接やらが立て続けにあったことは覚えている。が、チヒロにはどれもアクビが出る程度のものでしかなく、気づけば日本初の“女狩人”という冠が付きまとっていた。

 、というルールをあとから聞いたときは少し幻滅もしたが、今は亡き狩人のかしらに勝負を挑み、「強さは死を与えることじゃないのヨ。他者を生かし、自分も生きる。それが真の強者のアカシ」と完敗して以来は、獲物の生死にこだわりを持たなくなった。


「グォオオッ!」


 跳ねた少女の身体をチヒロが手早く受け止めると、案の定、巨躯の狼が比べものにならない殺気を浴びせかけてくる。


「そうこなきゃね!」


 銀のカギ爪が眼前の空気を裂いていく。

 直前、ナルミを片腕に軽々と抱えたまま大きく跳び退り、チヒロは雑な手際でさきほどの警官へ少女の身体を放って寄越した。


「うわあっ?! ちょっと狩人さん!?」

「この子、とりあえず預かっといてくれるかい。アタシがいいって言うまで、動くんじゃないよ?」

「顔色が真っ青じゃありませんか。すぐ病院へ搬送しないと——」


 受け止めたナルミを現場から遠ざけるべく、警官が素早く踵を返す。市民の安全を守る者の職務として当たり前の行動だったが、この状況においては、最悪の選択だった。

 猛る猛獣に背を向けることは、死を意味する。


「グォオオッ!」

「チッ! 待ちな――ッ!」


 チヒロの言葉を追い越し、アスファルトを大きく抉った天狼の巨体が、警官へ迫る。

 間に合わない。

 チヒロの身体能力でもユニーカでも、警官の背へ大顎を突き立てんとする天狼を止められない。


「——」


 結末を悟り、歯を食いしばったチヒロの目の前で鮮血が、散る。

 ――が、巨体をのけ反らせ、苦悶の咆哮を上げたのは、人間のほうではなかった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?