天竺の南岸にある
恵岸行者はその一角にある庭園で一心に体を動かしている。
時折からだを素早く動かし、手を振り、まるで何かと戦っているような動きである。
恵岸行者が何をしているのかというと、遠隔で河伯の元に飛ばした宝剣を操っているのだ。
「……よっ、と!あなたの得物はただの棍棒なのに、なかなかやりますねえ、でも自分だって負けませんよ!」
「恵岸」
そんな恵岸行者に観音菩薩は経典から顔を上げて声をかけた。
その表情は珍しく険しい。
「わっとと、そう来ましたか〜まだまだ!」
「恵岸!」
何度も呼びかけても反応しない恵岸行者に、
「ちょっとなんですかお師さま、集中できないじゃないですか!うるさいです!」
恵岸行者は体を動かしたまま手は止めず、何度も声をかけてくる観音菩薩に対し怒って言うと。
「えっ、あ、すみません……じゃなくて、あなたがうるさいのです!」
逆に怒られ思わず謝ってしまった観音菩薩は、かぶりを振って反論した。
「へ?でも今自分はお師さまの言いつけで宝剣を操ってて……っと」
「黙って操りなさい!」
「えーそんな無茶な……自分はいつもと同じにしてるだけですよ」
「今日は黙ってやってください」
「わ、わかりましたよ〜」
(ていうか、お師さまが
宝剣を操るのに最適な開けた場所はここしかないのに、と渋々という様子で恵岸行者は声を出さずに再び剣を操り始めたのだが……。
「フンっ!……クッ!ハァッ!」
言われた通りに恵岸行者は声を出さないものの、
「恵岸!」
「なんですか、今度は喋ってないじゃないですか!」
「その……なんていうんですか、あなたのその呼吸?力み声?もうるさいです」
「はぁ?」
あんまりにも横暴な観音菩薩の言葉に、恵岸行者は
「え〜?もー、じゃあサクッととどめ刺しときますよッ!疾!」
そういって、恵岸行者は右腕を振り上げてからパチンと両掌を合わせた。
「はい今日の河伯さんの鍛錬終わり!」
ヤケクソのように切り上げ終了宣言した恵岸行者を観音菩薩がねぎらう。
「おつかれさまです。どうでした、河伯は」
「まだムチムチしていますが、動きは以前のように戻ってきましたよ。この分なら、弟弟子君と出会う頃には元に戻っているんじゃないですか?」
恵岸行者の報告に観音菩薩は満足そうに頷いた。
「あの巨体に危機感を持った私たちがわざわざ幼な子の姿に変化して行ったのです。奮起してもらわねば困ります」
「おもちマンなんていないのに、ね!!おっと」
河伯のところから戻ってきた宝剣を掴んで鞘にしまい、恵岸行者は頷いた。
「ところでお師さま、さっきから一体何をしているんです?」
「玉龍につける馬具に少し手入れを」
山積みになっていた経文の影に隠れて見えなかったが、そこには鞍や鎧、手綱などが並べられていた。
「あー、確かに馬に変化させるとはいえ、元は龍ですから普通の馬具だとむずかしそうですからね」
「龍の力を抑えてかつ、金蟬子の危機には力を解放されることができるように経文を刻もうと思いまして」
なぜうるさいうるさい言いながらずっと外にいた観音菩薩を疑問に思っていた恵岸行者は得心したのだった。
「では、あなたも手伝ってくださいね」
「は、はい……」
手が空いたでしょ、とにこやかにいう観音菩薩に、恵岸行者は頷くしかないのだった。
「今日の宝剣はなんだか動きがおかしかったな……」
宝剣を見送った河伯は、首を傾げながら傷の手当てを始めていた。
宝剣に貫かれた脇腹に膏薬を塗りながら目に入った臍の辺りを撫でため息をつく。
「はあ……なかなか減らんな」
その場所は以前の引き締まった体とは程遠くなっていて、均等に割れていた腹筋があったはずのそこはたぷたぷとして福々しく、まるで餅を重ねたような二段腹になっている。
「戻れるものなら時を戻したいものだ……」
怠惰な自分を責めても時は戻らない。
「おもちマン……か」
あの幼い兄弟の悪意のない言葉を思い出し、河伯は腹をさすったのだった。