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第32話 観音菩薩、顕現する

 振り向いた玄奘の目は驚きに見開かれ、孫悟空はその様子を見て満足げにニタリとした。


 鋭く磨がれた孫悟空の爪が玄奘に届こうとしたそのとき、シャン、と錫杖に飾られている九つの輪が音を立てた。


 すると、その音を聞いた途端に孫悟空の動きがピタリと止まる。


 孫悟空は、玄奘に飛びかかった格好のまま、まるで見えない糸に吊り下げられたみたいに動けなくなった。


『この子に何をするつもりです?』


 次いで玄奘の口から聞こえてきたのは別の声だった。


「へ……?」


 孫悟空が唯一動かすことができる首を動かして恐る恐る玄奘の顔を見ると、先程までの穏やかな表情は消え、氷のように冷たい視線を向ける玄奘の顔があった。


「ゲ、ゲンジョーさん……?」


『お久しぶりですね、美猴王びこうおう


「て、てめえは……観音菩薩か!!」


 孫悟空をそう呼ぶのは観音菩薩だけだ。


 孫悟空の慌てぶりを、玄奘の体に乗り移った観音菩薩はフンと鼻で笑う。


『もう一度聞きますよ美猴王。この子に、あなたは、その爪で!……一体何をしようとしていたのですか?』


「……ぐぐぐ……っ」


 その突き刺すような観音菩薩の鋭い視線と怒りを含んだ低い声に、孫悟空は何もいえなかった。


 言ったら何をされるかわかったもんじゃない。


 どうにかして逃げようと思っても、体は宙に浮いたままで動かない。


『……まあ言わなくても見当はつきますけど』


(じゃあ聞くなよな……)


 孫悟空は観音菩薩が苦手だ。


『あなたには、弟子の恵岸もお世話になったことですし、ねえ……?』


 孫悟空はその昔、天界で騒ぎを起こした時、観音菩薩の弟子の恵岸行者と戦ったことがあるのだ。


『ああ、顕聖二郎真君けんせいじろうしんくんとその神犬しんけんもあなたと遊びたがっていますよ』


 その名前を聞いて、孫悟空はさらに顔を渋くした。


 顕聖二郎真君とは変化の達人で、川の神だ。

武芸の腕も一流で、孫悟空とは互角もしくはそれ以上の力を持つ。


 天界との戦いで恵岸を打ち負かしたことで孫悟空は彼と戦うことになった。


 彼との戦いで勝ち目がないと悟り、逃げる孫悟空の変化をことごとく見破られ追い詰められた挙句、さらに彼の神犬に尻を噛まれたことを思い出したのだ。


(またあいつと関わるなんて、とんでもねえや

……)


『釈迦如来には慈悲があるので現世にあなたを封じましたが、まだ未熟な私はあなたを誤って地獄に封じてしまうかもしれません……』


「な……っ?!」


 観音菩薩の呟きに冗談じゃない、と孫悟空は慌てた。


「あなたは太上老君たいじょうろうくん金丹きんたんを盗み食いしたおかげで不老不死ですから……そう、地獄で永遠に……もしそうなっても良いのならば……』


「しません!ゲンジョーさんに従います!」


 大事な部分は言わなくともわかるだろう?と観音菩薩が圧をかけてきたので、孫悟空は慌てて叫んだ。


『あなたが何を考え、何をしようとしているかは、釈迦如来もこの私も全てお見通しですよ。天眼通てんげんつうで見ていますからね。しっかりと励んでくださいね、美猴王どの』


 そう言って観音菩薩は微笑み、宙に浮いたままの孫悟空の額に緊箍児をはめた。


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