春うららかなある日。
殷氏のお腹には新たな命が宿っていたが、夫と離れることを厭った殷氏は夫とともに赴任地へ行くことを決めた。
「大丈夫かい、温嬌。やはりお義父上のところにいた方が……」
「
仲睦まじい夫婦は連れ立って船着場の桟橋に降り立った。
「この川を渡ったら江州だ。しばらく船に揺られるぞ」
陳萼は妻の腹を撫で、お腹の子に語りかける。
「光蕋さまったら」
「船を使うんだ。心配にもなる」
クスクス笑う殷温嬌に、陳萼は大袈裟なそぶりをして言った。
生まれる前からの溺愛ぶりに、腹の子も自分も幸せ者だと、殷温嬌は嬉しく思った。
「名前も考えぬとなあ。そうだ、私の赴任地である江州から一字取るのはどうだろうか」
「素敵ですわ。男の子か女の子かわかりませんけれど、この川の流れのように穏やかな子になってほしいですわね」
そんな微笑ましい会話をする夫婦を、邪心を持った船頭、
「アニキ、どうしたんでさ?」
イライラした面持ちで夫婦を眺める兄貴分に気づいた
「おい見ろよ李彪や。俺たちや来る日も来る日も船に人を乗せて大した儲けもねえってのによ、お偉いさんは綺麗なべべきて嫁と子供までこさえちまう。ケッタクソ悪りぃったらねえや」
「アニキい、博打でスったからって、そりゃねえですぜ」
「うるせえ!」
「ところでアニキ、あの男の方、なんだか背格好もアニキに似ていやしませんか?生まれが違えば、アニキもあんな感じの暮らしをしてたかもしれやせんね」
「ほう……」
李彪の言葉に劉洪は顎鬚を撫でた。
「俺があの男と入れ替わるってのはどうでい?」
「またまた!そんな冗談。ちゃんと仕事しねえとおやっさんにどやされますよ。ほら、時間時間!」
李彪はそう言って船を手繰り寄せ、船を操る棒を劉洪に手渡した。
「俺は諦めねえぞ」
船賃をとりにいく李彪の後ろをついていきながら劉洪が呟いた。
幸いなことに、客はあの夫婦だけ。
劉洪はニタリと笑った。
「おい李彪や、奥方をささてやんな」
「へい、アニキ」
「旦那さんは少しこちらへ」
劉洪は夫の方を手招きした。
「何か?」
「いやあね、船で渡るんで、万が一がないとはいえない。いやいや、あっしも弟分ももちろん気をつけますよ。でも川の水は何が起こるかわかんねえですからね。こちらに名前を」
夫は不審がる様子もなく、劉洪が出した帳面に名前を記入する。
「ちん……がくさま、と字名はこうずいさま、へえ、とても賢そうなお名前ですね、旦那。ええと、奥方がいんおんきょう、さま、ですね。へいたしかに。ありがとうございます」
「私は江州の長官になる。お前たちの暮らし向きもよくなるよう尽力するつもりだ」
「へぇ、ありがてえことです」
爽やかに言う陳萼に劉洪は揉み手をして頭を何度も下げる。
そして、陳萼が船に戻ろうと踵を返した時。
「おりゃ!」
劉洪は背後から一撃を喰らわせた。
あたりどころが悪かったのか、ぴくりとも動かなくなった。
劉洪は荒い息をつきながら陳萼の衣服を奪って着ると、川にその遺体を流した。
そこへなかなか戻らない劉洪を怪しんだ李彪がやってきた。
「アニキ、早くしないと後が怖いですぜ……って、アニキ、何を?!」
「俺は入れ替わったんだ。いまから劉洪ではなく陳萼だ。お前は部下。二人でいい暮らししようぜ」
「あ、アニキ……?!」
驚く李彪をいいくるめ、劉洪は船に戻った。
「あなたは何者です!なぜ夫の服を!夫はどこに?!」
「騒ぐんじゃねえ。今から俺が陳萼さまだ。いいな?そら、船を出すんだ」
「戻りなさい!私は降ります!おろして!!」
「へっすみませんね、奥方」
劉洪に命じられ李彪が船を出す。
瞬く間に離れていく岸に殷温嬌は絶望した。
「安心しな、俺は仕事はきちんとする。なぁに、少しばっかり贅沢はさせてもらうがな。ニヒヒ」
「あ、アニキィ本当に大丈夫なんですかい?」
「おめえも共犯よ。腹括んな」
「そ、そんなあ……」
殷温嬌はここで身を投げてしまおうか、と思ったがお腹にいる愛する夫の子のことを思うとできなかった。
(光蕋様……っ)
今はお腹の子のために耐えようと、殷温嬌はお腹に手を当てて決意の拳を握った。