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第280話 玄奘の昔の話

 法明和尚は金山寺の寺にいて、玄奘にとっては育ての親とも呼べる存在だ。


 寺には他にも僧がいたが、闊達で朗らかな法明和尚は寺に預けられたり捨てられたりする子を指導する役割も任されていた。


 玄奘が得度する頃には寺を出てあちらこちらと托鉢しながら各地で戦没者のための慰霊をしてまわっているという。


 だから、法明和尚は齢五十近くにもなるが、歳の割にはがっしりとした体つきで、みるからに健脚そうだ。


 あちこちを旅する法明和尚のねぐらは基本的に野宿か廃寺だ。


 いまは廃寺を見つけて路銀が貯まるまで宿にしているらしい。


 ところどころ穴が空いている壁からはすきま風。


 孫悟空たちは法明和尚に促され、部屋の中央にある囲炉裏の周りに座った。   


「さて、どこから話そうか」


 法明和尚は、囲炉裏の中心で赤々と燃える炭をつつきながらつぶやいた。


 思い返してみれば、玄奘は両親の話を聞いたことがなかった。


 いや、寺の日々が忙しく、聞く暇がなかったとも言える。


 掃除、修行、兄弟子の言いつけ、新しくきた孤児たちの世話。


 こなすことがたくさんあって親のことを考えたり恋しがる余裕もなかった。


 それが幸いだったのか、玄奘には今もわからない。


 しかしそういった時間が玄奘の覚悟を決めるために必要だったのかもしれない。


 やがて法明和尚は語り始めた。


「おまえさんを預けにきたのはうら若い女だった。産まれたばかりのお前さんを連れて、息も絶え絶えに」


「えっ」


「ああ、勘違いするな。おまえを産んですぐきたようで、その後寺に産婆さんを呼んで手当してもらったよ」


「玄奘はこんなに小さくてなあ。か弱いが力強い泣き声をあげていたよ」


 懐かしむように法明和尚は親指と人差し指を広げて大きさをあらわしながら言う。


「父と母の名を、先生はご存知ですか?」


 囲炉裏の中でパチッと炭が爆ぜる音がした。


 玄奘が尋ねると、法明和尚は頷いた。


「覚えているさ。とんでもない出自だからな。忘れようとも忘れられん」


 そう言って、懐からシワだらけになった紙を取り出して玄奘に渡した。


 それは玄奘の命名紙だった。


 玄奘の俗名、陳江流と、端に父母の名前がある。


「玄奘、おまえの父親の名は陳萼ちんがくあざな光蕋こうずいという。科挙に合格した英才で、江州長官に抜擢された。母親は殷温嬌いんおんきょう(いんという。唐の宰相、殷開山いんかいざんの娘だ」


「唐の宰相の娘?!おシショーサマのお母さん、お嬢様じゃん!!」


 玉龍が驚いて言う。


 玄奘は唐にいた時に儀式の打ち合わせなどで城に上がるとき、すれ違った政治家たちの顔を考えていた。


 あの中の誰かが祖父だったのかもしれない。


「だめだ、わからない……」


「焦らず」


 城内で見かけた顔を思い出しても、それが祖父なのか全く見当もつかず呟くと、沙悟浄がいたわるように背中をさすってくれた。


「どうして先生がこの紙を?」


「うむ……おまえの母親、殷氏によるとだが……」


 一呼吸おいて法明和尚は語り始めた。

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