宮殿の北西の端に向かって長く伸びる回廊を渡るにつれ、人々のざわめきとリュートの音色が入り混じった喧噪が遠のいていく。やがて不意に視界が広がった。突き当りの庭園にたどり着いた頃には、辺りはすっかり静寂に包まれていた。
(ここはどこだ……この香りは、くちなしの花か……)
その甘い香りを吸い込むと、なぜか胸の中に燻っていたどす黒い苛立ちがすうっと消えて、心が午後の渚のように穏やかに
ジグムントは庭園を見回した。綺麗に整えられてはいるが、どこかもの寂しく、荒涼とした印象は否めない。それはたぶん王宮の庭園を彩るにふさわしい薔薇や百合といった色とりどりの大輪の花がなく、ただそこかしこに植えられたくちなしの白い花だけが目につくからだろう。
ここがどこなのか、皆目見当がつかない。ジグムント自身も広大な王宮の全てを知っているわけではないので無理もないが、まさかこんなところにこのような古びた宮があったとは。
(どうやら迷ってしまったようだな、とにかく来た道を戻るとするか……ん?)
(あれは誰だ……少女?)
そこには一人の少女が立っていた。年の頃は十三、四歳ぐらいだろうか、こちらに背を向けているので顔はよく見えないが、ゆるくウェーブのかかった亜麻色の長い髪が、初夏の夜風にかすかに揺れている。
この状況で自分の存在を知られるのはあまり得策ではないなとジグムントは判断し、見つからないように素早くその場を立ち去ろうとした。だがその時、運悪く腰に下げていた剣の先が足元に転がっていたテラコッタのプランターに当たって、カツンと乾いた音を立てた。
物音に振り返った少女が、ジグムントの姿を捉えた。月明りを反射するその瞳が美しい
「お、驚かせてすまない。王宮を散歩していたら迷ってしまったのだ。怪しい者ではないから安心してくれ。私の名は……」
余計に怖がらせてしまったかもしれない、と焦るジグムントに向かって、少女はにっこりと微笑んだ。
「存じておりますわ。第三王子ジグムント様でございましょう?」
「なぜ私の名を知っている……? あなたは誰だ……?」
だが少女はジグムントの問いを曖昧な笑いで受け流すと、逆に大人びた口調で問うた。
「このような場所にいらしていても良いのですか? 今夜の夜会は国境に向かわれるジグムント様と第四騎士団の皆様の壮行のためだと伺っております。その席に主賓のあなた様がおいでにならなくては、今頃皆様がお困りなのではございませんか?」
その問いかけに、しばし忘れかけていた胸の奥の黒い炎が再びぶすぶすと燃え盛る。ジグムントは少女から顔を背けると、苦々しい様子で吐き捨てた。
「壮行の夜会などと、白々しい」
少女の表情に悲しみの色が浮かんだ。一瞬迷ってから、少女はゆっくりとジグムントに近づいて、その腕にそっと触れた。
「な……」
思いもよらないことに驚くジグムントに、少女は静かに語り掛けた。その言葉がどこまでも優しく、慈しみに満ち溢れていることに、ジグムントは更に驚いて言葉を失った。
「なぜ、そのような悲しいことを仰るのですか……?」
「悲しい? 悲しいなどという感情はとうに捨てた。俺はただこの芝居じみて腐り切った世界に、ほとほと嫌気がさしているだけだ。皆、俺が辺境の地で死ぬ日が来るのを、今か今かと待っている。どこにも俺の味方はいない。……いいだろう、望み通り死んでやろうではないか。軍人である以上、死などこれっぽっちも恐れてはおらぬ。だが俺が死ぬことで奴らの思い通りにことが進むかと思うと、
たった今出会ったばかりの、名前も素性も知らぬ少女に、なぜ俺はこんなことを話しているのか。ジグムントは一瞬、自分で自分のことが分からなくなった。とにかく冷静になろうとして黙り込むと、その少女が再びゆっくりと口を開いた。
「怒りに支配されてしまっておられるのですね。おいたわしいこと。……けれど、死んでも良い命など、この世には一つなりともございませんわ。必ず誰かが、貴方様のお帰りを待っているはずです。それをお忘れにならないで、どうかご自分を見失わないで下さいませ」
「俺の帰りを待っている者など、この宮廷には一人もいない」
頭では分かっているつもりだったが、改めて口にするとその言葉の寂寥感がひしひしと感じられて、ジグムントの心は沈んだ。すると少女が思いがけないことを言い出した。
「では、わたくしがお待ちしておりますと申し上げたら、生きて帰ることを考えて下さいますか、ジグムント様?」
「何? あなたが? たった今初めて会ったばかりのあなたが、なぜ俺を待つ? あなたは一体誰だ……?」
思わず少女に一歩近づいたジグムントは、少女の菫色の瞳に月明りに照らされた己の姿が映っていることに気づいて、思わず胸がどきりと鳴った。だがその時、静寂を破るかのように、遠くから少女を探す声が聞こえてきた。
「姫様ーーー、どこにいらっしゃるのですか、姫様ーーー」
すると少女はその声にはっと振り向き、慌ててジグムントに向かって膝を曲げてお辞儀をすると足早に立ち去って行ってしまった。
「ま、待ってくれ、あなたの名を……」
ジグムントはその背中に向かって声をかけたが、少女は振り返らなかった。やがて元通りに庭園全体に静寂が広がり、しばらくしてジグムントを探す従者トマスの声が聞こえてきた。
「ジグムント様! こんなところにいらしたのですか! 皆が騒いでおります、宴席にお戻りに……ジグムント様?」
「あ、ああ、すまないトマス。……なあトマス、ここは誰の宮だ? さきほどついぞ見かけたことのない少女に会った。あれは誰だ?」
トマスの呼びかけに我に返ったジグムントがこう尋ねた瞬間、トマスの顔色がさっと変わった。少し逡巡してから、トマスは遠慮がちに口を開いた。
「ここにおられるのは、ロリニュス王国の第八王女、フィオレンティーナ様です」
「……フィオレンティーナ、だと!? フィオレンティーナとは、まさか、あの……?」
その名を聞いた瞬間、ジグムントの胸に抑えきれない感情が湧き上がり、漆黒の瞳に怒りがみなぎった。トマスは俯いて答えた。
「はい、そのまさか、でございます。フィオレンティーナ様のお母上は……」
「それ以上言うな! その名は聞きたくない!……そうか、あの娘がフィオレンティーナ……あの毒婦の娘……は、はは、なるほど、
ジグムントの口元に歪んだ残忍な笑いが浮かんだ。そのまま足早に回廊を歩きながら、ジグムントは忘れかけていた自分の生きる目的を取り戻したことを確信した。回廊を渡り切ったところで彼は振り返り、フィオレンティーナの残像を心の奥底に封じ込めた。
「面白い、必ず生きて帰って来てやろう。そしてあの娘に思い知らせてやる。俺と兄上から全てを奪った報いを、母親になり代わって受けてもらおうではないか。……待っていろ、フィオレンティーナ。その菫色の瞳を恥辱の涙で濡らしながら、俺の足元に
その大きな背中に一切の迷いはなく、その身に
第三王子ジグムントはこの時二十歳。追放された次兄の名誉回復を申し出たがために長兄である王の不興を買い、王位継承順位第二位でありながら辺境の地に兵を率いて赴くことを命じられた、その出立前夜の出来事であった。