(あれは、何の音かしら……)
フィオレンティーナはふと遠くから時折響いてくるドォン、ドォンという音と、かすかな地響きが気になった。
祝砲にはまだ早いはず。それに祝砲はあんなに不規則ではないし、実弾が入っていないからもっと軽い音よね……。
「新婦フィオレンティーナ・ジョゼ・ガデニア・ヴェーデリット・ロリニュス」
総司教様の声に、はっとフィオレンティーナは我に返った。いけない、今は結婚式の最中だったわ。いよいよ夫婦の誓いを交わそうという時なのに、外の音に気を取られるなんて。
「貴女はここにいるサミュエル・リロイ・カファレウス・デ・ラ・レバンテスを夫とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も……!」
ドォン! という音がさっきよりはっきりと聞こえてきて、総司教が一瞬、言葉に詰まった。だが小さく咳払いを一つすると何事もなかったかのようによく響く声で続ける。
「富める時も貧しき時もこれを愛し、これを敬い、尊び、生涯変わらぬ愛と貞節を捧げることを誓いますか?」
フィオレンティーナは呼吸を整え、誓いの言葉を述べようとした。
だが……。
ドォーーーン!!
一際大きな音がして、聖堂全体が激しく揺れ、煙と土埃が舞い上がって視界がしばらく白くなった。甲高い悲鳴が響き渡る。今度こそフィオレンティーナにもその音が何なのか、はっきりと分かった。……これは、大砲の音だ。振り向くと聖堂の大きな扉が、跡形もなく破壊されていた。
それと時を同じくして、けたたましい
豪華なドレスに身を包み、すました表情で式に参列していた貴族や貴婦人が悲鳴を上げて一目散に外へ逃げ出そうとするが、入り口を二人の兵士が固めていて、どうすることもできない。聖堂内に控えていた衛兵が応戦しようとするが、所詮は王宮詰めの近衛兵だ。なだれこんできた兵士達には全く歯が立たず、一人、また一人と斬り殺されていく。フィオレンティーナとサミュエル、そして総司教の三人は身を寄せ合って祭壇の陰にうずくまっていることしかできなかった。
「ぐはあっ!!」
「きゃあっ!」
突然、一人の血まみれの衛兵がフィオレンティーナの上に倒れ込んできて、思わず彼女は悲鳴を上げた。血しぶきが飛び散って、純白の婚礼衣装が赤く染まる。
(何が起こっているの……?)
誰が、なぜ、何のためにこんな殺戮を始めたのか。今日が国を挙げてのめでたい日だということは、レバンテスの民全てが分かっていることのはずなのに。フィオレンティーナ達は祭壇の陰に隠れて耳を塞ぎ、顔を背けてとにかく騒ぎが収まるのを待った。
しばらくして、ふと聖堂全体に静寂が訪れた。さっきまでの阿鼻叫喚が嘘のように静まり返っている。フィオレンティーナが恐る恐る顔を上げると、聖堂にいた衛兵は一人残らず絶命し、貴族達は顔面蒼白で壁の一隅に集まって立ち尽くしていた。
その時、破壊された扉のあたりに舞っていた煙と土埃がうっすらと晴れ、その奥に人影が現れた。ゆっくりとした足取りでこちらへ向かって来る。
(あれは……!)
背の高い、屈強な体つき。銀色の長い髪、黒い甲冑に長い剣。間違いない、あれは、あの方だ。
「ジグムント将軍が、なぜここに!」
貴族達が一様に驚きの声をあげる。その場の混乱を制するかのように
「皆の者、よく聞け! 王都は私が制圧した。国王と王太子の罪を明らかにし、償いを受けさせるために、私は戻って来たのだ!」
「王都を制圧した? どういうことだ?」
「いやそれより、国王陛下と王太子殿下の罪とは何のことだ? 一体何が起こっているのだ?」
ほうぼうから声が聞こえてきて、ついさっきまで静寂と壮麗な輝きに包まれていた聖堂は今や混乱のるつぼと化していた。しばらく待ってから、ジグムントと呼ばれた男は片手を上げ、皆を制した。
「静まれ! 確かに皆、俄かには信じがたいのも無理はない。では本人の口から聞かせてやろうではないか」
言い終わると入り口を固めていた兵士の方を見やり、顎で中に入るよう示す。彼らの後ろから一際豪華な衣装を纏った恰幅の良い男性が兵士に両脇を固められ、引きずられるように聖堂に入って来た。また新たなどよめきが広がる。
「こ、国王陛下!」
貴族達が一斉に青ざめる。その様子を顔色一つ変えず見ていた銀色の髪の将軍は、つと振り向くとフィオレンティーナ達がうずくまっている祭壇のほうへつかつかと歩いて来た。
「もう一人、役者が必要なことを忘れていたな。腰抜け王太子殿、あんたもだ」
「ひ、ひぃっ!」
そう面白そうに言い放つと、フィオレンティーナと総司教の間に隠れるように身を潜めていたサミュエル王太子の腕を掴んで引っ張り出す。その時、一瞬だけ、将軍とフィオレンティーナの目が合った。その髪が纏う銀色の輝きと、漆黒の瞳に映り込む色鮮やかなステンドグラスの煌めきに、思わずフィオレンティーナは心を奪われた。
(なんて恐ろしくて、そして、美しいのかしら……)
将軍はフィオレンティーナを一瞥すると、一瞬ニヤリと悪魔のような顔で笑い、歯の根をガチガチと言わせて震えているサミュエル王太子を引きずって国王陛下の前まで戻って行った。そして二人を並ばせると、目の前に一枚の大きな書類を広げた。レバンテス王家の紋章が、金で箔押しされている。
「兄上、署名を」
その声は一切の慈悲を含まず、どこまでも冷ややかだった。