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episode_2 この時を待っていた その2

 レバンテス王国の前の王妃は二年前に病で崩御し、それ以来、王妃の間は使われないままになっていた。今日のあの騒ぎの後、慌てて室内を整えたのだろう。カーテンやリネン類は新しいものに取り換えられてはいたが、やはりどこか閉め切っていた部屋特有の古びた匂いが漂い、調度品も埃っぽい感じがした。だがマージョリーが機転を利かせて、フィオレンティーナが生活していた宮の庭からくちなしの花を数本切ってきてくれたので、それを大きな花瓶に生けるとなんとかそれなりに華やいだ新婚夫婦の寝室らしくなった。


 フィオレンティーナは、大きな樫の木の寝台に腰かけてその時を待っていた。


 あの後、トマスが退出して間もなく、女官のターナー伯爵夫人が仕切り直しのように口火を切って、フィオレンティーナにとにかく着替えをするよう勧めた。そう言われて初めてフィオレンティーナは自分が衛兵の返り血で赤くまだらに染まった婚礼衣装を身に着けたままだったことに気がついた。そんなことも忘れてしまうほど、今日は色々なことがありすぎた。


 もう既に日は完全に落ちて夜になっていたので、フィオレンティーナは三人の女官に手伝ってもらって重いブロケードのドレスを脱ぎ、そのまま浴室で身体を清めることになった。それまで身の回りの世話はほとんどマージョリー一人に任せていたので、たとえ同じ女性であっても他人に裸を見られることに対してフィオレンティーナは強い拒否感を感じたのだが、王族の女性ならば普通のことだと言われてはあらがいようもなかった。

 ただ一つ、温かいお湯に全身浸かって入浴できることはこの上なく素晴らしいものだった。海の近くの小高い丘の上に建っているレバンテスの王宮は、夏でも夜になるとかなり冷える。だがフィオレンティーナが暮らしていた宮は王宮の一番端に位置していたし、彼女の存在など宮廷内ではいないも同然だったから、温かい湯で身体を洗うなど夢のような贅沢だった。だからフィオレンティーナは真冬でも身を切るような冷たい水に布を浸して身体を拭くぐらいしかできなかったのだ。今夜、温かい湯がなみなみと満たされ、薔薇の花びらまで浮かんでいる大きな浴槽を目にした時、フィオレンティーナは夢でも見ているのではないかと思ったぐらいだった。もっとも、それが新婚の夫に身を任せるための重要な準備であることにすぐに気づいて、ひとり顔を赤くしたのだが。


 そうして夜も更けゆく頃、すべての支度を終えて、三人の女官とマージョリーは退出していった。


 フィオレンティーナは室内を見回した。石組の壁はひんやりとして、隣の部屋からの音を遮断する。大きな寝台の四方に垂らされた天蓋は半分ぐらい閉じられていた。四隅の柱には燭台が取り付けられていて、蝋燭ろうそくの灯りがゆらめいている。そのせいもあって寝台のまわりはかなり明るい。こんなに明るいところで……と思って、フィオレンティーナは恥ずかしくなった。お妃教育の一環としてねやのことは一通り学んではいる。だが肝心なところは薄衣に包まれたままだ。殿方に任せておけば良いとしか指南書には書かれていなかった。


 やがて廊下の向こうで重い足音がした。フィオレンティーナはどきりとして振り返った。一歩、また一歩、近づいてくるのに合わせて、胸の鼓動が激しくなってゆく。そしてついに、王妃の間の扉の前で足音が止まり、重い音を立てて扉が開いて、また閉じた。


「あ……」


 立ち上がるタイミングを逃してしまったフィオレンティーナの前に、ジグムントの大きな体が立ちふさがった。生成りの麻のシャツに、白いバックスキンのブリーチズと呼ばれるズボンを履いて、紺色のガウンを羽織っている。突然ジグムントの右手に肩を掴まれて、いとも簡単にフィオレンティーナは寝台の上に押し倒された。


 「あの……っ……」


 床入りの際に夫になる人にはこう挨拶をなさいだとか色々教わったはずなのに、何も言葉が出てこない。ジグムントも一切言葉を発さず、フィオレンティーナの腰に馬乗りになって新妻を見下ろしているだけだ。目と目が合った時に、その黒い瞳が凶暴な獣のように燃えていることに気圧けおされて、思わずフィオレンティーナは顔を横に向けて目を閉じた。


「目を閉じるな」

「でも……」

「何度も言わせるな。目を開けて、顔をこちらに向けろ。俺から目をらすことは許さん」


 有無を言わさぬ冷たい口調に恐る恐る目を開けると、ジグムントは黙ってフィオレンティーナの夜着の胸元のリボンに手をかけた。薄い麻のゆったりした夜着は、胸元のリボンと腰のサッシュで前を簡単に閉じているだけだ。胸元に続いて腰のサッシュの結び目もほどくと、ジグムントは表情一つ変えないままフィオレンティーナの身体を覆っていた夜着の前を思い切りはだけた。


「!!」


 二つの白い膨らみが蝋燭の灯りに照らされた。そこからなだらかに細く引き締まったラインが続いていってウェストのところでこの上なく優美なくびれを形作り、下腹部の丸みを控えめに強調していた。


 ジグムントの呼吸が一瞬荒くなった。彼は額にかかる長い銀色の髪を無造作に掻きあげると、自分もガウンとシャツを脱ぎ捨てた。その下から現れた肉体はほどよく日に焼けて引き締まり、無駄な肉は一片もない。肩から胸にかけての筋肉は鋼のようで、そこかしこに刻まれた無数の傷痕が、その苦難の人生を物語っていた。


 表情を変えないままのジグムントに裸体をまじまじと見られることに耐え切れなくなったフィオレンティーナは思わず両手で胸の膨らみを隠そうとしたが、そんなことは当然許されるはずもなかった。ジグムントの両手がフィオレンティーナの手首を掴んで左右に押し開く。そのはずみで夜着が肩から滑り落ちて、図らずもフィオレンティーナはさっきよりも遥かにあられもない姿を晒すことになってしまった。


「あ……あ……」


 ジグムントの顔がゆっくりと近づいてきて、フィオレンティーナの耳朶みみたぶに唇が触れた。熱い息が首筋にかかって、思わず肩をすくめる。その時ジグムントが低い声で何かを囁いたと思ったのだが、あれは気のせいだったのだろうか。……いや、気のせいではない、彼は確かにこう言ったのだ。


「この時を待っていた」


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