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episode_2 この時を待っていた その1

「姫様!!」


 あれからまるで熱に浮かされたかのように、何が起きているのかよく分からないまま慌ただしくすべてが終わって、ようやくフィオレンティーナは私室に戻って侍女のマージョリーと再会することができた。


「姫様、姫様、よくぞご無事で……! お怪我はございませんか? ああなんということでしょう、こんな恐ろしいことが現実に起こるなんて!」

「マージョリー、落ち着いて? わたくしなら大丈……」

「これが落ち着いていられますか!!」


 半狂乱になりながら抱きついてきたマージョリーをフィオレンティーナはなんとか落ち着かせようとしたが、無駄だった。しかたなくフィオレンティーナはおいおいと泣くマージョリーを抱きしめながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。


「ず、ずびばせん、姫様。もう大丈夫ですから。それで一体、何があったのですか?」


 ようやく落ち着きを取り戻したマージョリーと並んで古びた長椅子に腰を下ろすと、フィオレンティーナは事の次第を説明した。侍女の身分のマージョリーは聖堂には入れなかったのだ。だがマージョリーは詳細を聞くとさっきまでよりもっと激しく泣き出したので、フィオレンティーナはこの家族同然のたった一人の侍女があの場にいなくて良かったと心から思った。もしマージョリーがあれを自分の目で見ていたら、間違いなく失神して倒れてしまっていただろう。


「国王陛下と王太子殿下がそろってご身分を剥奪されるなどと、まさか姫様のご婚礼の日にそんなことが起きるとは」

「そうね。正直、わたくしもまだどこか他人事のような気がするのよ」

「何が起きたのかはだいたい理解いたしましたが……それでその……姫様は……」


 言い淀むマージョリーに、フィオレンティーナは曖昧に笑って頷いてみせた。


「どうやらわたくしは王太子妃を飛び越えていきなり王妃になってしまったらしいわ」


 あの後、斬り殺された兵士の返り血で赤く染まった婚礼衣装のまま、フィオレンティーナはジグムントと婚姻の誓いを交わした。その間ずっとサミュエルはフィオレンティーナに思いとどまるよう呼びかけ、ジグムントに許しを乞うて叫び続けていたが、誓いの口づけの段を迎えたフィオレンティーナが恐怖に全身を強張らせながらジグムントの唇を受け入れた時、ついにこらえ切れなくなったのか、人目もはばからず大声を上げて泣き崩れた。


「! で、でも姫様、姫様はそれでよろしいのですか? 姫様とサミュエル様との婚姻はずっと以前からロリニュスとレバンテスの両国で取り決められていたことでございましょう? それをいきなりあのような……」


 マージョリーはあまりの急転直下のできごとに理解が追いつかず気色ばんだが、急に語尾が弱々しくなった。先ほどこの部屋にフィオレンティーナを送り届けた時のジグムントの様子を思い出したのだろう。恐怖で声が震えている。


「あのような……その……粗野で恐ろしい……あのお方が新しい国王で、姫様の夫になられるなど……その、にわかには……」


 フィオレンティーナはマージョリーの手を握り、落ち着かせるように言って聞かせた。


「わたくしなら大丈夫よ、マージョリー。確かにジグムント様は恐ろしい方のようだけれど、わたくしには選択権などないもの。ここで生きていくためには、流れに身を任せることが一番重要だわ。今までだって、そうしてなんとかやってきたじゃない?」


 だって、わたくしは人質なのだから、と、フィオレンティーナは心の中で自分自身に言い聞かせた。そう、ロリニュスとレバンテス、この海峡を挟んで向かい合う二つの国の友好と軋轢あつれきあかしとして、数百年に渡って繰り返されている、遊学の名を借りた人質の交換。そこで待っているのは王族とは名ばかりの、冷遇と困窮だ。

 今から十三年前、わずか五歳でレバンテス王国にやって来たフィオレンティーナもご他聞に漏れず、その日々の生活は辛く苦しいものだった。故郷からたった一人、はるばる海を渡ってついて来てくれた侍女のマージョリーがいてくれなかったら、とうていこの長い年月を耐え忍ぶことなどできなかっただろう。フィオレンティーナは思わずマージョリーの両手を握りしめた。


「姫様、私達はこれからどうなるのでしょうか」

「分からないわ。でも国王陛下……ジグムント様はわたくしを殺そうとはなさらなかったわ。先王陛下やサミュエル様と同じように捕縛して牢に繋ぐこともできたのに。ということは少なくともまだしばらくは生きていられるのではないかしらね」

「そんな、しばらく、だなんて姫様、滅相もない。そうですわ、ロリニュスに手紙を出しましょう、姫様。お父上に……」


 その時、部屋のドアがノックされる音が響いて、二人は会話を止めた。フィオレンティーナがそっと目くばせをすると、マージョリーは立ち上がってドアの横に移動した。


「どうぞ」


 フィオレンティーナが声をかけるのと同時に、マージョリーが静かにドアを開ける。


 そこに立っていたのは一人の騎士だった。年の頃は30代半ばぐらいだろうか、身長はそれほど高くないががっしりした体つきで、ゆったりめのフロックコートに膝下までの細身のキュロットを合わせて長靴ちょうかを履き、腰に剣を下げている。そのまま部屋に一歩足を踏み入れるとフィオレンティーナにお辞儀をして、こう挨拶を述べた。


「お初にお目にかかります、王妃様。ジグムント様の従僕を務めておりますトマスと申します。このたび王妃様の護衛を申しつかりました。誠心誠意努めますので、どうぞ何なりとお申し付けくださいませ」

「わざわざありがとう、トマス。で、何かありまして?」

「お迎えに参りました。お部屋の支度が整いましたので、王妃の間にお移り下さい。ご案内いたします」


 トマスの態度も口調も丁寧だが、どこか他人行儀で冷淡だ。フィオレンティーナは頷くと立ち上がった。そのままトマスの後について、回廊を歩いて移動する。いくつもの角を曲がり、扉を抜けていくうちに、フィオレンティーナは自分がどこを歩いているのかすっかり分からなくなってしまい、たびたび速足のトマスに置いていかれそうになってしまった。というのもここへ来てからずっと、ほとんどあの古びた宮から外に出ることはなかったからだ。自分では平静を装っていたつもりだが、つい視線を所在無さげにあちこち泳がせて必死について来ているのを気づかれてしまったらしい。斜め前を歩いていたトマスが立ち止まって怪訝そうな表情をしたので、フィオレンティーナは少し恥ずかしそうな様子で説明した。


「あの宮で過ごすことが多かったので、王宮のどこに何があるのかよく知らないのです。もう十年以上ここにいるのに、おかしいわよね」

「左様でございますか」


 トマスは短く答えただけだったが、さりげなく歩くスピードを遅くしてくれた。やがて一際立派な彫刻の施された大きな扉の前にたどり着くと、待ち構えていたかのように小姓が扉を開けた。


 フィオレンティーナとマージョリーが扉の奥へ歩みを進めると、室内には三人の貴婦人が待ち構えていた。トマスがその婦人達をフィオレンティーナに引き合わせてこう言った。


「この者達が本日より王妃様専属の女官として、おそば近くにお仕えいたします。ターナー伯爵夫人、ランドルフ子爵夫人、ベニーチェ男爵夫人、ご挨拶を」


 皆、名前を呼ばれた順に膝を屈めてお辞儀はしたものの、その顔には微妙に形容しがたい表情が浮かんでいる。無理もない、とフィオレンティーナは驚かなかった。お妃教育の期間中に将来の王太子妃を補佐するための女官として数人の貴婦人が選定されていたが、やはり王太子妃付きと王妃付きでは責任の重さが違うということで、今回、急遽改めて選ばれたのだろう。だが三年前に正式にサミュエルとの婚儀が決定するまで、フィオレンティーナの存在はレバンテスの宮廷でほとんど忘れ去られていたし、元々この縁組自体、反対の声も大きかった。そしていざ蓋を開けてみれば王弟が武力で王位を簒奪し、その日王太子妃になるはずだった人質の王女を王妃として娶るなどという前代未聞のことが起こってしまった結果、フィオレンティーナは王太子妃を飛び越えて王妃になってしまったのだ。宮廷内で国王夫妻が歓迎されていないだろうということは火を見るよりも明らかだった。


「それでは私はこれで失礼させて頂きます。王妃様、今日はお疲れになりましたでしょう。どうぞしばらくの間ゆっくりとおくつろぎ下さい」


 女たちの間に流れる奇妙な空気を振り払うかのように聞こえてきたトマスの声に、フィオレンティーナは我に返った。慌てて退出しようとするトマスの背中に尋ねる。


「あ、あのっ、陛下は……ジグムント……様はどちらに?」

「陛下は重臣達を謁見されておられます。もうしばらくかかりますでしょう。……後ほどこちらにお見えになりますので、お仕度をなさってお待ち下さい。では」


 後ほどこちらにお見えになります、その言葉の意味を理解したフィオレンティーナの胸がどきんと波打った。夫となった男性が初めて妻の寝室を訪れる……つまり、自分は今夜、ジグムントに抱かれるのだ。あの燃え盛る炎のような熱く激しい目をした危険な男に。その時何が起きるのかを想像して、まだ十八歳の無垢な乙女は湧き上がる恐怖と不安に恐れおののいた。


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