「しょ、署名……? 一体何を」
「兄上の退位と、サミュエルの廃太子に同意する文書だ」
退位と廃太子、だと? 誰もが予想しえなかった衝撃的な内容に、あちこちから貴族達の驚きの声が上がる。
フィオレンティーナは自分の顔から血の気が引いていくのがはっきりと分かった。国王陛下が退位……? サミュエル様の廃太子……? え、でも、わたくしは王太子サミュエル様の妻になるべくして今日ここにいるのでしょう? この結婚は王命、国どうしの協定の上に成り立っている政略結婚だわ。ではその王命が意味をなさなくなった時、わたくしはどうなるの……?
「た、たわごとを申すなジグムント。大体なぜお前がここにいる? お前には国境警備を命じてあったはずだ、職務を放棄して勝手に王都に戻って来るなど言語道断、お前こそ重罪人ではないか! さっさと……」
必死に国王が威厳を保とうとしながらジグムント将軍に反論しようとする声が聞こえてきて、フィオレンティーナは我に返った。だがその言葉は途中で遮られた。将軍が大声で笑い出したのだ。その一片の曇りもない自信に満ちた様子に、一同は完全に圧倒されて恐れおののいた。
ひとしきり笑い終わってから、将軍は勝ち誇った態度で国王に告げた。
「残念でしたな兄上。国境はもう全て平定した。必要とあらば和平文書を見せてやろう。紛争が起こっていない以上、俺があの地に留まる必要はない。あんたは俺が辺境の地で死ぬことを望んでおられたのだろうが、あいにく俺はとことん悪運の強い男でね」
「ぐ……!」
「ついでに言うと、王都の兵も既に俺の軍が全部掌握した。あんたにはもう味方はいない。あんた達親子の罪状を今ここで明らかにしてやってもいいんだが、その前に大人しく退位文書に署名したほうが得策だぞ?」
貴族達のざわめきが更に大きくなった。
「国王陛下の罪状……それは一体どういうことだ?」
「国王陛下だけじゃない、王太子殿下も? 一体何が起こっているというのだ?」
実のところ貴族達がここまで動揺しているのは、王家や国家の行く末を案じているからではない。ただ自らに火の粉が降りかかることを恐れているだけだった。皆、国王と王太子が何をしていて、そしてそれに自分がどう加担していたのか、大なり小なり思い当たることがあったのだろう。将軍はどこまで知っているのか、王と将軍のどちらに忠誠を誓えば己の身を守れるのか、皆、すぐには答えを出しあぐねて、聖堂には気まずい空気が流れた。
「お前達、何をしている!? なぜ皆黙っておるのだ!……くそ、裏切り者め、やはりお前もあの時殺しておくべきだった……こんな、こんなことが許されるはずがない……!」
あの時、という言葉に将軍の顔色がさっと変わり、黒い瞳に一瞬にして怒りの炎が宿った。彼は突然剣を抜いて振りかぶると、王の喉元に突きつけた。そしてひいっと悲鳴を上げて腰を抜かしそうになった国王に、ぞっとするような声で最後通牒を告げた。
「兄上、諦めろ。どちらにしてもあんたはもう終わりだ。どうしても退位文書に署名するのが嫌だと言うのなら、残念だが今ここで死んでもらう。だが、大人しく罪を認めて退位すれば少なくとも正当な裁判の席で申し開きをする機会ぐらいは設けてやらんでもない。そうすれば事と次第によってはもしかしたら追放か修道院に
「ぐ……う……う」
国王はなおもしばらくの間憤懣やるかたないといった表情で拳を握りしめていたが、この場で殺されるよりは裁判の席で命だけでも助かる道を模索することに心を決めたのであろう。がっくりと肩を落とし、震える手でペンを掴むと退位文書に署名した。
「こ、こんなことが許されると思うなよ、ジグムント……私は父上から国のすべてを受け継いだ正当な王だ。お前のような……」
「言いたいことがあるなら法廷で言うんだな、兄上」
そう言って有無を言わせぬ口調で兄の言葉を遮ったジグムントは、壁際に集まっていた貴族達のほうへ向き直ると、署名された退位文書を高々と掲げ、高らかに新しい王の即位を宣言した。
「ここに王の退位と王太子の廃位は宣言された。王位継承法に則り、我ジグムント・シャルル・フォルティウス・デ・ラ・レバンテスが新王として即位する。異議ある者は申し立てよ!」
聖堂内には奇妙な沈黙が広がるだけだった。貴族達もようやく目の前で何が起こっているのか理解し始めていた。これはつまり、クーデターだ。この荒ぶる鬼神のような銀色の髪の王弟は、六年もの間、辺境の地で血と泥にまみれながら、虎視眈々とその時を待っていたのだ。そしてよりにもよって王太子の結婚式というこのめでたき日を狙いすましたかのように、暴力と恐怖によって玉座を手に入れたのだ。その力を見せつけられては異議など出ようもなかった。だがそれは同時に、この新しい王は
だが新王ジグムントには、そのような日和見主義者の貴族達の思惑など想定内だったのだろう。彼はニヤリと残忍な笑みを浮かべるとつと祭壇に近寄り、青ざめた顔で石のように押し黙ったまま一部始終を見ていたフィオレンティーナの腕を掴んで強引に立ち上がらせた。そして傍らにいた総司教に向かってこう言った。
「ところで総司教どの、式はどこまで進んだ?」
「め、夫婦の契りを交わさんとしておりました」
総司教は内心の動揺を押し隠し、普段通りの落ち着いた声で答えた。教会と王は互いに忠誠を誓う立場にある。その定義は王が誰であろうとも揺らぐことはない。新王ジグムントは重ねて尋ねた。
「では、まだ婚姻は成立しておらぬのだな?」
「左様でございます、王よ」
「それは好都合だ。さて」
ここで王は一度言葉を切ると、フィオレンティーナの腕を更に掴んでぐっと自分のほうに引き寄せ、総司教と向かい合った。
「これより新王ジグムントとロリニュス王国第八王女フィオレンティーナ姫との婚儀を執り行う。総司教、祝福を」
その瞬間、聖堂内のあちこちから叫び声が上がった。
「ええっ?」
「な、何?」
「フィオレンティーナ!」
「まさか?」
もちろん一番驚いたのは当事者のフィオレンティーナだっただろう。三年前、正式にサミュエル王太子との婚儀の日が決められてからというものの、フィオレンティーナの日常はここレバンテス王国の王太子妃にふさわしい女性になることのためにのみ存在し、彼女の世界の中にはサミュエル王太子以外の異性の存在は許されないものになっていた。それがいきなり王太子妃を飛び越して王妃に、しかも結婚の誓いの直前に乱入してきて王位を奪った男に
だがジグムントはそんな周囲の困惑など一向に気にする素振りもなく、総司教に早く婚儀を執り行うよう促した。
「総司教、まだ婚姻の誓いは立てられていないと申したな? では何も問題はないはず。王たる者には王妃が必要だ。ここにいるフィオレンティーナ姫はいずれ王妃となるべくしてサミュエルと婚姻の契りを結ばんとしていた。ならばこれ以上に相応しい相手はいまい」
「しかし王よ……今ここでと仰せになるのは……」
「やめてくれ叔父上! やめろフィオレンティーナ!」
あまりに急すぎる展開に口ごもる総司教の声に、サミュエル王太子……いや、サミュエル廃太子の悲痛な叫びが重なって、思わずフィオレンティーナは身体をよじって後ろを振り向いた。すると床の上に二人がかりの兵に組み伏せられたサミュエルの恐怖に怯えた顔が目に入ってきて、フィオレンティーナは反射的にそこから逃げようとした。だがジグムントに腕をがっちりと掴まれていて、その場から一歩たりとも動くことなどできない。不安げな表情でサミュエルとジグムントを交互に見つめるフィオレンティーナの耳元に顔を寄せると、ジグムントは低い声で呟いた。
「よもや俺の申し出を拒むことができると思ってはおるまいな? 自分の立場は重々分かっておろう?……それに、お前は本当にあの男と夫婦になりたいのか?」
自分でもはっきりとは意識していなかった心の奥底を見透かされて、フィオレンティーナはぎょっとした。固まった顔のまま目線だけ斜め上に向けると、ジグムントの黒い瞳が燃えるような輝きで自分を見つめていることに気づいた。そこには明らかに憎しみの色が混じっていた。その時のフィオレンティーナにはなぜ自分がジグムントに憎まれるのか全く見当がつかなかったが、その瞳に射抜かれた瞬間、フィオレンティーナはこの粗野で荒々しい男に
「仰せの通りにいたします、国王陛下……」
「ダメだ、やめろフィオレンティーナ! 君は僕の婚約者だろう! やめてくれ、たのむ、やめてくれ……」
ジグムントの兵に頭を床に押さえつけられて、サミュエルの言葉の最後は届かなかった。フィオレンティーナはその悲痛な叫びから逃げるかのように
全てを見届けたジグムントの口元に残忍な笑みが浮かび、黒い瞳が禍々《まがまが》しく光った。満足そうに頷くと、王は総司教に勝ち誇った口調で命じた。
「総司教、祝福を」