その日の午後、マージョリーは意を決して硬い樫の木の扉をノックした。
「誰だ?」
「王妃様付き侍女のマージョリーでございます」
「……」
扉の向こうでしばし沈黙してから、トマスは答えた。
「入れ」
静かに扉が開いて、マージョリーが姿を現した。だが身分の序列上、彼女のほうからトマスに話しかけることはできないので、黙ってその場に立っている。仕方なくトマスは口を開いた。
「何か用ですか」
「王妃様の使いで参りました。ランドルフ子爵夫人とベニーチェ男爵夫人の件でございます」
「王妃様は何と仰せに?」
「……お二人の望み通りに、と」
その悔しそうな口調と対照的に、トマスは静かに答えた。
「そうですか。分かりました。ごくろうさ……」
「恐れながら申し上げます。トマス様、あんまりでございます」
退出を促すトマスの言葉を遮って、マージョリーは詰め寄った。トマスの片方の眉がぴくり、と動いたが、表情は変わらなかった。
「何のことです?」
「陛下の……国王陛下の王妃様に対するお振る舞いでございます。少々ご無体が過ぎるのではございませんか」
「女官のことはむしろ王妃様が解決なさるべき問題では?」
「あの二人のことだけではございません!! 陛下は王妃様をどうなさりたいのですか? 今のままではフィオレンティーナ様はご心労のあまり死んでしまいます!!」
目尻に悔し涙を滲ませながら必死に訴えかけるマージョリーを尻目に、トマスは手に持っていた書類に目線を落としながら、感情のこもらない声で事務的に答えた。
「私はただの護衛ですから、どうすることもできませんよ。でもまあ、折を見て陛下に伝えておきましょう。お話はそれだけか? では申し訳ないが忙しいので」
「……っ!」
トマスに軽くあしらわれたマージョリーは悔しそうに拳をぎゅっと握りしめながら、それでもなんとかお辞儀の形を作って、ドアの向こうに消えた。その間トマスは書類を読んでいる振りはしていたものの、内容は全く頭に入って来ていなかった。マージョリーの足音が遠ざかると、トマスは天井を見上げて、大きな溜息をついた。
(このままだと死んでしまう……か。確かにな。いくらジグムント様がロリニュスの王族を憎んでいるとはいえ、あまりに無体が過ぎるのは、俺でも分かる)
トマスはジグムントの腹心の部下であると同時にフィオレンティーナの護衛兼事務官のような立ち位置にもいるので、当然、二人の私生活についてもある程度推し量ることができた。毎夜、王妃の間から漏れ聞こえてくるフィオレンティーナの悲鳴にも似た叫び声と嗚咽、そしてお止めください、もうお許しくださいという懇願は、いつもトマスの心をざわつかせる。俺には関係ない、主君と仰ぐジグムント様が望まれたことだ、それにフィオレンティーナ様だって一歩間違えれば廃太子の妃として良くて修道院送りか生涯幽閉、もっと運が悪ければ処刑の憂き目に遭っていたのだから、これぐらいどうということはないだろう……。トマスはそう考えて自分を納得させようと努めたが、どうにも心の底に重たい泥のような気持が積もってゆくのを抑えられなかった。
フィオレンティーナが人々の評判どおりの軽薄でふしだらな悪妃であれば、トマスも心を痛めることはなかったかもしれない。実際、彼は護衛に任じられた当初こそ主君に乗じてフィオレンティーナをどこか軽んじていたところもあった。だが常に傍近くに仕えてみると、あっという間にそんな不遜な考えは一切消え去った。……フィオレンティーナ様は悪妃などではない、聡明で、慈悲深くて、貞淑だ。そしてその慎み深く控えめなお心の底に、
そもそも、ご自分の婚儀の席で夫になるはずだった王太子が廃位させられ、突然現れたよく知りもしない粗野な簒奪王に娶られて、夜な夜なあのような激しい閨を……それだけでも、どれほど心身共に疲弊なさっていることだろう。おまけに宮廷でのあのいわれのない悪評を、なぜ王は野放しにされたままにしておられるのだ。フィオレンティーナ様が憎いとは言え、ご自分の妻だというのに。ふとトマスは六年前、ジグムントが辺境の地に旅立つ前夜に漏らした言葉を思い出した。
『俺と兄上から全てを奪った報いを、母親になり代わって受けてもらおうではないか』
(ジグムント様と兄君と、フィオレンティーナ様のお母上との間に、いったい何があったのだ? そしてなぜジグムント様は、その報いをフィオレンティーナ様お一人だけに負わせようとなさるのだ?……何かがおかしい。何かが真実を捻じ曲げているような気がする。折を見て探ってみるとするか。このままではフィオレンティーナ様もジグムント様も、あまりにお気の毒だ)
トマスはそう心に決めると、両手で自分の頬をパンパンと軽く打ってから、再び書類の山に手を伸ばした。